国事探偵方 |
文久三年六月ごろ入隊し、八月十八日の政変に出動したものと思われる。国事探偵方をつ |
とめる。同年九月二十五日に荒木田左馬之助らと計り、永倉新八、中村金吾を暗殺しよう |
とするが失敗し、翌二十六日には、長州の間者として沖田総司、藤堂平助に襲われるが、 |
松井竜三郎、松永主計とともに脱走した。一説には、越後糸魚川出身で、天保十年、五月 |
五日に松山恵治良の子として生まれ、松山良造、三郎、一郎など称したとされる。新選組 |
脱走後、元治元年六月の池田屋事変では、列席していたが脱出し、禁門の変にも参戦した |
という。維新後は、海軍に出仕して明治八年に退職後、郷里で私塾を開き、のちに京都に |
移住して、明治二十五年二月二十八日に五十四歳で没した。 |
勘定方 |
天保二年、大和高取藩士尾関文左衛門の長男、尾関雅次郎の兄として生まれる。弟に遅れ |
て、新選組に入隊して勘定方を務め、元治元年の池田屋事変では、土方歳三に属して、屋 |
外の守備につき、褒賞金十五両を賜った。同年十二月の編成では、原田左之助の小荷駄雑 |
具の組に所属した。元来病弱だったようで、慶応元年四月には、京坂での隊士募集の任に |
あたり、配下の易者が入隊希望者に与えた紹介状が伝わる。その後、除隊となって、同年 |
十一月七日に三十五歳で死亡したという。同年閏五月に、西本願寺の屯所を訪れた、幕府 |
典医松本良順は、隊士の健康状態を調べた結果を自伝で「難病は心臓病と肺結核の二人の |
み」としているが、ひとりは沖田総司、そしてもうひとりが弥四郎のことだったと思われ |
る。なお、永倉新八は「和州植村脱走」としているが、これは大和高取藩主植村家保の脱 |
藩人を意味していることはおわかり頂けよう。 |
平隊士 |
文久三年秋以降に入隊した。仲治とも称した。元治元年六月の池田屋事変では、土方歳三 |
に属し、池田屋到着後は屋内で戦い、褒賞金十七両を賜った。同年十二月の編成では、松 |
原忠司の七番大炮組に所属したが、それ以降消息は不明。明治二年五月十五日、勝海舟を |
訪ねて五両を無心した人物として「元新選組品川次郎、三品仲司」と記録されている。 |
文学師範 |
天保六年二月二十八日、津軽藩士毛内有右衛門祐胤の次男として生まれる。有之祐、有之 |
進、監物とも称し、名を良胤。文久三年に脱藩し、江戸で学問教授を行なううちに、伊東 |
甲子太郎と出会い、元治元年十月の近藤勇による隊士募集に応じて伊東らと上洛するが、 |
同年十二月の編成に名はない。慶応元年夏の編成では、文学師範となり、慶応三年三月に |
伊東らと御陵衛士を拝命、新選組から分離した。十一月十八日油小路事件で、同志六名と |
ともに現場に急行したが、新選組の待ち伏せを受けて、藤堂平助らとともに討死する。行 |
年三十三歳。彼等の遺体は三日後に光縁寺に埋葬されたが、慶応四年二月二十三日に生き |
残りの同志によって改葬され、明治二年十一月二十五日に墓碑が建立された。覚知院剣冷 |
良胤居士の戒名が授与されており、友人の沢保躬による、「毛内良胤青雲録」がある。 |
平隊士 |
肥後熊本の出身で、脱藩を機に本名の西村弥左衛門を改名する。別称竹川直枝、源重春。 |
慶応元年五月、土方歳三の江戸での隊士募集に応じて上洛、同年夏の編成では、砲術師範 |
となる。伊東甲子太郎に同志していたが、慶応三年三月に、伊東らが、御陵衛士として分 |
離する際には同行せず、六月以前に離隊してから合流を果し、竹川直枝と改名した。十一 |
月十八日の油小路事件の際には、伊勢に遊説中であった。帰京し、加納鷲雄と江戸へ出張 |
中に、鳥羽伏見の戦いが始まり、薩摩軍に属して、北関東から會津に転戦。慶応四年閏四 |
月二十五日、白河口の戦いで戦死した。行年三十七歳。墓は、京都市東山区泉涌寺山内町 |
の戒光寺にある。 |
平隊士 |
天保十五年、信州で生まれる。慶応元年五月、土方歳三の江戸での隊士募集に応じて |
上洛し、翌年二月に大石鍬次郎の弟、大石造酒蔵を、そうとは知らずに斬殺したと云 |
われているが、土方歳三の手紙によると、造酒蔵は病死とされる。九月の三条制札事 |
件に出動し、土佐の宮川助五郎に手傷を負わせた。慶応三年六月の幕臣取立てでは、 |
平士として見廻組並御雇の格を受けたが、翌年の鳥羽伏見の戦いで、五日の淀におい |
て戦死、あるいは帰還船の中で死亡したとも伝えられている。行年二十五歳。新選組 |
慰霊碑に名を刻んでいる。 |
伍長 |
文久三年六月ごろに入隊し、八月十八日の政変にも出動したものと思われ伍長を務める。 |
元治元年、池田屋事変では、近藤勇に属し、屋内で戦って即死。褒賞金二十両が下されて |
いる。壬生寺の墓所に、元治元甲子六月五日卒と刻んである。池田屋事変の日に死んだこ |
とから、討死とされているが、近藤勇の書簡には死者の記録は無い。さらに、永倉新八が |
板橋の碑を建立した時、奥沢の名は刻んでいるが、戦死者の列には加えず、病死、変死、 |
処刑、切腹などの方に入れてある。当日は病人も多かったことも考慮すれば、戦死で良い |
のか、疑問が生じる。だが、玉虫左太夫の「官武通紀」には、新撰組深手二人、内一人死 |
・・・・云々とある。この人物を、奥沢栄助と決め付ける所以である。 |
平隊士 |
馬詰信十郎の子で、勘介とも名乗る。神威斎。文久三年五月までに父親と共に入隊した。 |
同月二十五日に、壬生浪士組三十四名が連名で、幕府に提出した上書に名前を連ね、八月 |
十八日の政変に、出動したものと思われる。下母沢寛の「新選組始末記」で記載される、 |
「隊中美男五人衆」の一人に数えられたが、池田屋当日、あるいはそれ以前に、脱走と伝 |
えられている。当時二十一歳といわれる |
平隊士 |
大太郎、大太良とも称す。文久三年六月以降に入隊し、八月十八日の政変に出動したもの |
と思われる。馬詰柳太郎らと下母沢寛の「新選組始末記」で記載される「隊中美男五人衆」 |
の一人に数えられた。当時十六歳だったと云われている。同年十二月の野口健司の切腹に |
際して、頼越人として武田観柳斎とともに、光縁寺を訪れた。武田観柳斎の殺害に関与し |
たとのエピソードもあるが、池田屋事変以前に離隊しており、創作である。 |
明治二十年ごろに壬生の八木家を訪れたが、二十代後半に見え、横浜で、ガラス商を営ん |
でいたと伝えられる。 |
副長助勤 |
三河挙母藩の出身で、紀州日置流竹林派射術を使い、天保十三年には、奈良東大寺の通し |
矢で名を馳せたが、嘉永三年に脱藩し、知恩院の一心寺に入ったとされる。藤原貴果。 |
文久三年五月までに入隊し、同月二十五日に壬生浪士組三十四名が連名で幕府に提出した |
上書に名前を連ね、八月十八日の政変に、出動したものと思われる。副長助勤をつとめ、 |
元治元年六月の池田屋事変では、近藤勇に属して屋内で戦闘し、受傷してしまい、七月二 |
十二日に死亡した。褒賞金二十両が下された。墓は壬生寺にある。 |
文久三年十二月の、野口健司切腹に際して介錯をつとめたが、そのとき二十五・六歳だっ |
たと伝えられ、事実とすれば、別人ということになる。永倉新八は、京都一月寺脱走、副 |
長助勤病死と書き残している。 |
剣術師範 |
天保十二年、加賀金沢で生まれる。虎蔵とも称し、名を正久。元治元年十二月までの京坂 |
における、隊士募集に応じて入隊し、同月の編成では、井上源三郎の三番組に所属する。 |
慶応元年夏の編成では、剣術師範に任じられ、同三年三月に伊東らが分離すると、四月十 |
四日に脱走して、合流を求めるが、隊士編入を禁じた約定の為に拒絶された。やむなく、 |
寺町の本満寺に潜伏したが、翌朝には発見されて、屯所へ連行のうえ切腹となる。 |
行年二十七歳。墓は、光縁寺にある。 |
平隊士 |
新井田仁左衛門、新田角右衛門とも称す。文久三年秋以降に入隊し、元治元年池田屋事変 |
では、近藤勇に属して、屋内での戦闘に負傷する。死後、褒賞金二十両が下され、墓は壬 |
生寺にあるももの、死亡日は刻まれておらず、おそらく、七月二十二日に死亡した、安藤 |
早太郎と前後して、絶命したものと考えられる。永倉新八の「同志連名記」では平士、 |
新田角右衛門とあり、板橋の墓碑には、病死扱いの方に新井田仁左衛門と刻んである。 |
諸士取扱兼監察 |
大和高取藩士尾関文左衛門の次男で、尾関弥四郎の弟。文久三年六月以降に入隊し、八月 |
十八日の政変に、出動したものと思われるが、元治元年六月の池田屋事変では不参加だっ |
た。諸士取扱兼監察をつとめ、同年十二月の編成では、旗役として中村金吾とともに、行 |
軍の先頭を任された。慶応三年六月の幕臣取立てでは平士して見廻組並御雇の格を受け、 |
泉と改名する。政一郎とも称す。翌年一月の鳥羽伏見の戦いを経て、江戸へ帰還し、會津 |
では差図役をつとめ、同年閏四月二十七日に會津大谷地村で負傷した。六月に、猪苗代湖 |
南の三代で作成された名簿では、歩兵差図役をつとめている。蝦夷渡航後の編成では、差 |
図役となり、明治二年五月十五日に弁天台場で降伏し、弘前の薬王院に収容された。 |
明治二十五年二月二十八日、郷里で永眠につく。 |
平隊士 |
弘化三年、和泉岸和田で生まれる。喜治郎、喜三郎、喜四郎とも称す。文久三年秋以降に |
入隊し、元治元年池田屋事変では、土方歳三に属し、屋外の守備につき、褒賞金十五両を |
賜る。同年十二月の編成では、井上源三郎の三番組に所属する。慶応二年六月には、脱走 |
した柴田彦三郎を近藤芳助らと追い、屯所に連行した。同三年の幕臣取立てでは、平士と |
して見廻組並御雇の格を受ける。慶応四年、鳥羽伏見の戦いを経て、甲陽鎮撫隊敗走後は、 |
永倉新八、原田左之助、林信太郎らの靖共隊に加わり、歩兵取締役となる。その後、北関 |
東から會津まで転戦したものと思われるが、いつしか、新選組に復帰した。慶応四年八月 |
十七日に死亡し、福島県郡山市湖南町三代の正福寺にある墓碑には「新選組士松本喜次郎」 |
と刻まれている。同地で戦死ともされている。 |
平隊士 |
太紋とも称し、文久三年六月ごろに入隊し、八月の政変にも出動したと思われる。山野八 |
十八、佐々木愛次郎らとともに、下母沢寛の「新選組始末記」で記載される「隊中美男五 |
人衆」の一人に数えられた。桂小五郎の指示によって入隊したとされるが、露見し、同年 |
九月二十六日、御倉伊勢武らが、長州の間者として殺害された際に、原田によって斬殺さ |
れた。十七歳だったという。在京中だった真木和泉の日記に、七月十七日来訪者として、 |
「楠十」との記述があり、同一人物と思われる。新選組慰霊碑に名前を刻まれている。 |
平隊士 |
天保七年、海部郡須成村の神職、寺西伊予守家班の嫡子として生まれる。 |
前名は寺西蔵之丞。北辰一刀流剣術を使う。七五三之進、藤原重之、源忠正とも称す。 |
文久三年ごろより、横浜の外人居留地警備の任につき、篠原泰之進らと交流し、 |
伊東甲子太郎とも知り合う。元治元年十月、近藤勇の江戸での隊士募集に応じて上洛し、 |
十二月の編成では、斎藤一の四番組に所属。慶応元年閏五月には、膳所藩での将軍暗殺計 |
画発覚の為、大津に出張し、慶応三年三月に伊東甲子太郎らが、御陵衛士として、新選組 |
から分離する際に密命を受け、隊に残留した。慶応三年六月の幕臣取立に際しては、茨木 |
司らと反対して、御陵衛士との合流をはかったが、新選組との編入禁止の約定によって、 |
容れられず、會津藩に脱隊を申し入れ、守護職邸で近藤勇らと話し合うが、脱隊不可能の |
為、茨木ら三名とともに自刃する。大石鍬次郎が、検死にやってきたときに蘇生し、脇差 |
で一太刀を浴びせたと云われている。行年三十二歳。四名の遺体は光縁寺に埋葬され、墓 |
碑もあるが、のちに鈴木らによって、京都市東山区泉桶寺山内町の戒光寺に改葬された。 |
副長助勤 |
備前出身の医師で、藤太郎、忠雄とも称す。文久三年七月以降に入隊し、元治元年六月の |
池田屋事変では、山崎烝らと事前の探索にあたり、当日は、近藤勇らとともに屋内で戦闘 |
に参加し、褒賞金二十両を賜る。六月十二日には、明保野亭事件で切腹した柴司の葬儀に |
参列し「しばしまておなじ浮世の人ならば共に三ツ瀬の川や渡らん」との弔歌を詠む。 |
同年十二月の編成に名前は無いが、探索の為、京都を離れていた可能性もあり、安部十郎 |
は、同年秋に大阪で、浅野と会ったことを述べている。永倉新八は、副長助勤と記録する |
が、事実であれば、この頃の就任と思われる。慶応二年九月の三条制札事件で、斥候をつ |
とめ、敵前を通ることを臆した為、除隊処分となってその後も新選組を騙っての金策が露 |
見して島原において斬首されたとしているが、慶応元年七月の隊士名簿にも名前が無いこ |
とから、それまで、在籍していたものかどうか疑問が生じる。除隊後の同三年に、伊東ら |
御陵衛士の屯所を訪れたが、新選組と御陵衛士との間には隊士の編入を禁じる約定があっ |
たため、伊東らは、しばらく山科へ潜伏させた後に、土佐へ逃走させようと計画した。し |
かし浅野は、新選組を勤王化させる為に、近藤勇を説得しようと屯所へ出向き、葛野郡川 |
勝寺村で沖田総司に斬殺されたと云われている。なお、島田魁の「英名録」の別項には、 |
芹沢鴨以下、長州の間者や、幕臣取立てに反発した隊士が、列記されており、その中に |
「田内藤太郎」とされた隊士がいる。これが、田内知の別称ともされているが、項目上の |
意味からは、浅野藤太郎を誤認したものと考えられる。 |
新選組慰霊碑に名を刻んでいる。 |
国事探偵方 |
美倉伊勢太とも称する。文久三年六月以降に入隊して、国事探偵方をつとめ、八月十八日 |
の政変に出動したものと思われる。同年九月二十五日に、荒木田左馬之助らとはかり、永 |
倉新八、中村金吾を暗殺しようとするが失敗し、翌二十六日に長州の間者として、結髪中 |
を斎藤一に斬殺される。二十七・八歳と伝わり、新選組慰霊碑に名を刻む。 |
伍長 |
桂山とも称す。橘憲章。會津出身で、京都一月寺脱走ともいう。文久三年秋以降に入隊し、 |
伍長をつとめた。元治元年六月の池田屋事変では、土方歳三に属し、池田屋到着後は、屋 |
内で戦って、褒賞金十七両を賜る。同年八月ごろ、近藤勇の専横を憂慮して、永倉新八、 |
原田左之助ら五名と、會津藩に建白書を提出し、近藤との和解はなったものの、その責を |
負わされて九月六日、近藤が、江戸に下った翌日に切腹。遺体は谷三十郎、宿院良蔵を頼 |
越人として光縁寺に埋葬されたが、墓碑は壬生寺にある。 |
国事探偵方 |
左馬之允とも称す。文久三年六月ごろに入隊して、国事探偵方をつとめ、八月十八日の政 |
変に出動したものと思われる。同年九月二十五日に、御倉伊勢武らとはかり、永倉新八、 |
中村金吾を暗殺しょうとするが、失敗し、翌二十六日に長州の間者として、結髪中を林信 |
太郎に斬殺される。二十四・五歳と伝わり、新選組慰霊碑に名を刻む。 |
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