平隊士 |
天保十二年、備前岡山に生まれる。慶応元年五月、土方歳三の江戸 |
での、隊士募集に応じて上洛したが、同三年六月以前に離隊している。 |
平隊士 |
摂津の出身で日下部遠江とは、親子または兄弟と思われる。慶応元年七月までの |
京坂における、隊士募集に応じて入隊したが、同三年六月以前に離隊している。 |
平隊士 |
弘化三年の生まれで、慶応元年五月、土方歳三の江戸での隊士募集に応じて、上洛したが、 |
七月以前に脱走し、仲間二人と名古屋付近で、金策をしたため、島田魁、伊東甲子太郎ら |
が捕縛に向かうが、逃亡、以後の消息は不明。 |
平隊士 |
摂津の出身で日下部四郎とは、親子または兄弟と思われる。慶応元年七月までの |
京坂における、隊士募集に応じて入隊したが、同三年六月以前に離隊している。 |
平隊士 |
良助、有知、藤原義則とも称す。河内大県郡法善寺村の出身で、天保七年に郷士大谷十助 |
の長男として生まれる。慶応元年に入隊するが、直後の三月四日に、切腹したとされる。 |
遺体は、光縁寺に葬られ、頼越人として酒井兵庫と、神崎一二三が訪れているが、施主に |
実弟の大谷郁三郎が郁之助と誤記されているものの、弟が葬儀に立ち会っていることから、 |
切腹ではなく、事故死などの可能性も考えられる。あるいは、兄弟で入隊しようとしてい |
たのかもしれない。明治三十八年に郁三郎が、大阪府八尾市神宮寺の恩地墓地に改葬した。 |
平隊士 |
弘化四年、出羽秋田に生まれる。小野派一刀流を使い、慶応元年五月、土方歳三の江戸で |
の隊士募集に応じて上洛し、同二年九月の三条制札事件に出動して、千疋の褒賞金を賜る。 |
同三年三月の御陵衛士の分離には、伊東甲子太郎の命によって新選組に残り、六月の幕臣 |
取立てでは、平士として、見廻組並御雇の格を受けるが、篠原泰之進への密書が発覚し、 |
十二月十六日に伏見奉行所において絞殺された。二十一歳。 |
新選組慰霊碑に名が刻まれている。 |
平隊士 |
天保五年、大阪に生まれる。慶応元年五月、土方歳三の、江戸での隊士募集に応じて上洛 |
した。同三年の幕臣取立てでは、平士として、見廻組並御雇の格を受けるが、翌年一月の |
鳥羽伏見の戦いに敗走し、大阪で脱走する。 |
平隊士 |
天保十四年生まれで、出身は、出羽秋田とも上総ともされ、峰三郎とも称した。慶応元年 |
五月、土方歳三の、江戸での隊士募集に応じて上洛し、同三年六月の幕臣取立てでは、平 |
士として見廻組並御雇の格を受けたが、翌年一月の鳥羽伏見の戦いで淀において、五日に |
戦死とも、六日に八幡で戦死ともされる。二十六歳。新選組慰霊碑に名前が刻まれている。 |
平隊士 |
天保八年、常陸に生まれる。慶応元年五月、土方歳三の江戸での |
隊士募集に応じて上洛するが、同三年六月以前に離隊した。 |
平隊士 |
武州忍出身で、慶応元年七月までの京坂における、隊士募集に応じて入隊し、同三年六月 |
の幕臣取立てでは、平士として、見廻組並御雇の格を受けたが、翌年一月の鳥羽伏見の戦 |
いを経て江戸に帰還後に脱走した。 |
平隊士 |
弘化三年、筑前久留米に生まれる。慶応元年五月、土方歳三の、江戸で隊士募集に応じて |
上洛し、同三年六月の幕臣取立てでは、平士として、見廻組並御雇の格を受けるが、十二 |
月以前に離隊する。 |
平隊士 |
文政十二年、甲州甲府に生まれる。一刀流剣術、神当流馬術を使う。慶応元年五月、 |
土方歳三の江戸での隊士募集に応じて、上洛したが、慶応三年六月までに離隊した。 |
平隊士 |
嘉永二年、奥州岩城平に生まれる。無念流剣術を使い、慶応元年五月、土方歳三の江戸で |
の隊士募集に応じて上洛する。同三年六月の幕臣取立てでは、平士として、見廻組並御雇 |
の格を受けるが、十一月、伏見奉行所管理の狩場を不法使用していることを、与力の横田 |
内蔵允に咎められのを恨み、隊士数人と横田を殺害した。翌年一月の鳥羽伏見の戦いを経 |
て江戸に帰還し、脱走して薩摩軍に加わるが、強盗を働いたため斬首のうえ、梟首される。 |
平隊士 |
嘉永元年江戸に生まれる。登介とも慶応元年五月、土方歳三の江戸での |
隊士募集に応じて上洛するが、同三年六月までに、離隊している。 |
平隊士 |
牧太郎とも称す。紀州の出身で、慶応元年七月までの、京坂における、隊士募集に応じて |
入隊するが、入隊直後に商人からの金策が露見し、七月二十五日に斬首された。埋葬の記 |
録が無いことから除隊後のことかと思われる。 |
平隊士 |
天保十一年、江戸に生まれる。下総とも。平盛房。慶応元年五月、土方歳三の、江戸での |
隊士募集に応じて上洛した。同年十二月十二日に死亡し、光縁寺に埋葬されるが、葬儀料 |
の中で「穴掘代」が異例に安価であるため、首級や髷などのみが埋められた。ものと推定 |
される。行年、二十六歳。 |
平隊士 |
天保十三年、奥州仙台に生まれる。元治元年五月、土方歳三の江戸での隊士募集に応じて |
上洛した。西村兼文の「新撰組始末記」には、慶応元年夏の編成で「斯波」という隊士が、 |
文学師範になったとしているが、その直前の入隊者に「斯波雄蔵」がいたとしていること |
から、文学師範となったのは、斯波雄蔵だったと考えられる。ところが、そのころの入隊 |
者には、斯波緑之助と司馬良作がいるだけで、斯波雄蔵の在隊は、確認できない。したが |
って、緑之助か良作が雄蔵ということになるのだが、緑之助は、慶応三年六月幕臣取立て |
の際にも、同名で記録されており、良作が雄蔵であったことになる。良作もしくは、雄蔵 |
の名前は、幕臣取立ての名簿に記録されておらず、それまでに、離隊したことになるが、 |
「新撰組始末記」には「斯波良蔵ハ洋行二志ザス所アリテ修行スル暇ヲ乞ヒテ退去ス」と |
斯波良蔵という隊士の離隊を記録している。これが良作の事と思われ、良作、良蔵、雄蔵 |
の順に並べると、彼らが同一人物であった可能性が理解できる。 |
平隊士 |
天保十一年、紀州和歌山で生まれる。慶応元年五月、土方歳三の江戸での、隊士募集に |
隊士募集に応じて上洛した。元僧侶で、幕臣取立てでは、平士として見廻組並御雇の格 |
を受けている。翌年一月の鳥羽伏見の戦いを経て、江戸に帰還後脱走した。一月四日の |
淀の戦いで、戦死したともされている。 |
平隊士 |
天保十五年、上総鶴牧に生まれる。真人、元とも称す。元治元年五月、土方歳三の江戸で |
の隊士募集に応じて上洛し、同二年五月に市中で、山井三位の家来森某を斬殺している。 |
剣術教授心得をつとめ、同三年六月の幕臣取立てでは、平士として、見廻組並御雇の格を |
受けたが、翌年一月、鳥羽伏見の戦いで、五日に淀において戦死した。あるいは、三日の |
伏見での戦死ともいう。二十五歳。新選組慰霊碑に名が刻まれている。 |
平隊士 |
天保十二年、甲州甲府に生まれる。小野派一刀流剣術、荒木流手裏剣術、 |
杠秤棒術を使った。慶応元年五月、土方歳三の江戸で、隊士募集に応じ |
て上洛するが、同三年六月以前に離隊している。 |
平隊士 |
天保十年、武州羽生の生まれる。源重次。慶応元年五月、土方歳三の江戸での隊士募集に |
応じて上洛したが、入隊が遅れたのか、直後の在隊記録は無く、同三年一月十日に切腹し |
たことのみが伝わる。隊規を破って、妾を京都郊外の八条村に、住まわせていたところ、 |
近隣の水戸藩士と密通されるが、それを知らずに妾宅を訪れ、酒肴が用意されていたこと |
に不審を覚えて妾を詰問中、押入れに潜んでいた男に斬り付けられ、肩先と両足を負傷し |
た。男と妾は逃走し、近所の者が、新選組に事件を通報したところ、屯所へ連れ帰られ切 |
腹を命じられたという。二十九歳。墓は光縁寺にある。なお、島田魁の「英名緑」の別項 |
には、芹沢鴨以下、長州の間者や幕臣取立てに反発して、切腹した者たちが列記されてお |
り、その中に「田内藤太郎」とされた隊士がいる。これが、田内知の別称ともされている |
項目上の意味からは、浅野藤太郎を誤認したものと考えられる。 |
平隊士 |
弘化二年、常陸松川に生まれる。信八、佐原太郎、平利秀とも称す。慶応元年五月、土方 |
歳三の江戸での隊士募集に応じて上洛した。慶応三年三月、伊東甲子太郎らが、御陵衛士 |
として新選組から分離した際には同行せず、六月の幕臣取立てで、平士として、見廻組並 |
御雇の格を受けたのち、脱走して伊東らに合流し、佐原太郎を名乗る。同年十一月、油小 |
路事件の際は、伊勢出張中だった。十二月には、阿部十郎らと近藤の妾宅に、沖田総司を |
襲ったが留守であり、その日、京都から伏見に向かう、近藤勇を富山らと襲撃して重傷を |
負わせる。翌年一月の鳥羽伏見の戦いがはじまると、御陵衛士の残党と、綾小路俊実に従 |
って挙兵して、相楽総三らと赤報隊を結成。その後、独走する相楽たちと別れて、帰京し、 |
投獄されたのちに奥州を転戦した。慶応四年九月一日に死亡し、墓は京都市東山区泉桶寺。 |
山内町の戒光寺にあって墓碑には「傷於下寺町於牢死」とされるものの、篠原泰之進は、 |
七月五日に、五条橋付近で、田口次郎が刺殺したとし、安部十郎は、中西登が殺害したと |
している。行年、二十四歳。 |
平隊士 |
天保十四年、奥州岩城平田村半右衛門の子として生まれる。市郎とも称し、義利。緑四郎、 |
銀之助の長兄。清水家の家臣、板橋徳蔵のもとに身を置いていたが、慶応元年五月、土方 |
歳三の、江戸での隊士募集に応じて上洛し、同三年六月の幕臣取立てでは、平士として、 |
見廻組並御雇の格を受けた。翌年一月の鳥羽伏見の戦いを経て、江戸に帰還し、甲陽鎮撫 |
隊として出陣して勝沼で負傷した為、久米部正親を隊長格とした二十数名の組に加わって、 |
会津に出発する。会津では什長となり、六月に、猪苗代湖南の三代で作成された名簿では、 |
歩兵差図役をつとめている。蝦夷地の渡航をためらい、弟の緑四郎とともに新選組を離脱 |
するが、二ヶ月後に渡航し、箱館の四分隊編成では第三分隊に所属した。明治二年五月十 |
五日に、弁天台場で降伏し、弘前の薬王院に収容されたのち、弁天台場から静岡に送られ |
五年六月に島田魁らとともに解放された。 |
平隊士 |
天保十五年、江戸に生まれる。慶応元年五月、土方歳三の、江戸での隊士募集に応じて |
上洛し、同三年六月の幕臣取立てでは、平士として見廻組並御雇の格を受けるが、翌年 |
一月の鳥羽伏見の戦いで、五日に淀で戦死。三日の伏見ともされている。二十五歳。 |
新選組慰霊碑に名を刻む。 |
平隊士 |
天保十五年、甲州もしくは、常陸で生まれる。藤原政行、政之、良利とも称す。慶応元年 |
五月、土方歳三の江戸での隊士募集に応じて上洛し、慶応三年三月に伊東甲子太郎らが、 |
御陵衛士として、新選組から分離する際に、密命を受けて隊に残留した。同年六月の幕臣 |
取立てに際しては、茨木司らと反対して、御陵衛士に、合流を計ったものの、新選組との |
編入禁止の約定によって容られず、会津藩に脱隊を申し入れ、守護職邸で近藤らと話し合 |
うが、約定により、脱隊不能の為、茨木ら三名とともに、自刃する。二十四歳。遺体は、 |
光縁寺に埋葬され墓碑もあるが、のちに、同志らによって、京都市東山区泉桶寺山内町の |
戒光寺に改葬された。 |
平隊士 |
越後の出身で、慶応元年七月までの京坂における、隊士募集に応じて入隊し、同三年六月 |
の幕臣取立てでは、平士として、見廻組並御雇の格を受けたが、十二月以前に離隊した。 |
伍長 |
文政三年、下野宇都宮で生まれる。人見流馬術を使った。慶応元年五月、土方歳三の江戸 |
での、隊士募集に応じて上洛し、同三年六月、幕臣取立てでは、平士として、見廻組並御 |
雇の格を受けた。勘定方、伍長を勤め、翌年一月の鳥羽伏見の戦いから、江戸に帰還する |
際には、小荷駄方となり、数点の記録を「金銀出入帳」に残しているが、帰還後脱走する。 |
平隊士 |
若狭小浜の出身で、慶応元年七月までの京坂における、隊士募集に応じて入隊し、同年七 |
月には、中西登らと、京都潜入の長州藩士石津茂一郎を捕らえる。同三年六月以前に病気 |
の為、離隊し、故郷に帰る。その後、罪を犯して、獄中で病死する。 |
平隊士 |
嘉永二年、下野宇都宮で生まれる。慶応元年五月、土方歳三の江戸での隊士募集に応じて |
上洛し、慶応三年三月に、伊東甲子太郎らが、御陵衛士として新選組から分離する際に、 |
密命を受けて隊に残留した。同年六月の幕臣取立てに際しては、富川十郎らと反対して、 |
御陵衛士に合流を計ったものの、新選組との編入禁止の約定によって容られず、会津藩に |
脱隊を申し入れ、守護職邸で、近藤らと話し合うが、約定により、脱隊不能の為、富川ら |
三名とともに自刃する。遺体は光縁寺に埋葬され墓碑もあるが、のちに同志らによって、 |
京都市東山区泉桶寺山内町の戒光寺に改葬された。 |
平隊士 |
天保十年、奥州津軽で生まれる。留田流剣術、源家古伝馬術を使う。慶応元年五月、土方 |
歳三の江戸での、隊士募集に応じて上洛するが、同三年六月以前に離隊した。 |
平隊士 |
弘化三年、京都有栖川宮に仕える、中村喜二郎衛門の次男として生まれる。慶応元年五月、 |
土方歳三が、江戸での隊士募集に応じて上洛し、同三年六月の幕臣取立てでは、平士とし |
て、見廻組並御雇の格を受けた。翌年一月の鳥羽伏見の戦いを経て、江戸に帰還し、会津 |
戦争では、従軍の記録が見当たらないものの、蝦夷に渡航して、明治二年四月ごろの編成 |
では、第三分隊に所属。それ以前には、東組二番の一員として、市中警備の任についてい |
たことが、記録される。五月十五日に、弁天台場で降伏しているが、弘前での収容者名に |
名前がなく、降伏後の消息は不明。明治五年六月に島田魁らが、名古屋で解放された際に、 |
中山重久の名前があるが、重蔵のことなのだろうか。 |
平隊士 |
瀬山、滝人、布施多喜人とも称す。源泰朝。上州館林の出身で、慶応元年五月、土方歳三 |
の、江戸での隊士募集に応じて上洛するが、同時期に入隊した石川三郎とともに、商家の |
婦人と密通した罪により、六月二十一日に切腹し果てる。墓は光縁寺にある。 |
平隊士 |
天保十五年、江戸で生まれる。慶応元年五月、土方歳三の江戸での隊士募集に応じて上洛 |
し、同三年六月、幕臣取立てでは、平士として、見廻組並御雇の格を受けたが、翌年一月 |
の鳥羽伏見の戦いにおいて、五日に淀で戦死する。二十五歳。新選組慰霊碑に名を刻む。 |
平隊士 |
蔵太とも称す。紀州出身で慶応元年七月までの京坂における、隊士募集に応じて、入隊し、 |
同三年六月、幕臣取立てでは、平士として、見廻組並御雇の格を受ける。翌年一月の鳥羽 |
伏見の戦いを経て、江戸に帰還後、脱走した。 |
平隊士 |
尾張名古屋の出身で、慶応元年七月までの京坂における、隊士募集に応じて入隊した。 |
同三年六月の幕臣取立てでは、平士として、見廻組並御雇の格を受けるが、翌年一月の |
鳥羽伏見の戦いを経て、江戸に帰還後、脱走したとされている。箱館戦争の降伏人に伝 |
習仕官隊の林鐘吉という人物がおり、生国は尾張、以前の所属が靖共隊とされている。 |
誕生が弘化三年と一年違っているが、おそらく、正吉と同一人物と思われる。 |
天保十一年の生まれで、慶応元年五月、土方歳三の江戸 |
での、隊士募集に応じて上洛するが、七月以前に離隊する。 |
The music produced byDR(零式)さん