三品一郎

みしな いちろう


平隊士
 
京都の出身で、慶応元年七月までの京坂における、隊士募集に応じて入隊し、同三年六月
 
の幕臣取立てでは、平士として、見廻組並御雇の格を受けたが、翌年一月の鳥羽伏見の戦
 
いにおいて五日に淀で戦死した。二十八・九歳と伝わる。新選組慰霊碑に名を刻んでいる。
 
 
 



田村金七郎

たむら きんしちろう


平隊士
 
弘化二年、相州浦賀で生まれる。慶応元年五月、土方歳三の、江戸での隊士募集に応じて
 
上洛した。同三年六月の幕臣取立てでは、平士として、見廻組並御雇の格を受けたが、翌
 
年一月の鳥羽伏見の戦いを経て、江戸に帰還し、脱走する。
 
 
 



宮武織蔵

みやたけ おりぞう


平隊士
 
天保八年、近江の生まれで、慶応元年五月、土方歳三の江戸
 
での、隊士募集に応じて上洛し、同三年六月以前に離隊している。
 
 
 



中条常八郎

なかじょう つねはちろう


平隊士
 
播州出身で、恒八郎、常八とも称す。慶応元年七月までの、京坂における隊士募集に応じ
 
て入隊する。同二年九月の三条制札事件に、五番組として出動して十五両の褒賞金を賜る。
 
同三年六月の幕臣取立てでは、平士として見廻組並御雇の格を受けた。十二月の天満屋事
 
件では、斎藤一らと三浦休太郎を護衛し、翌年一月の鳥羽伏見の戦いを経て、江戸に帰還
 
するが、甲陽鎮撫隊として、出兵した後に、永倉新八、原田左之助らの靖共隊に加わり、
 
歩兵取締となった。
 
 
 



村上 清

むらかみ きよし


平隊士
 
肥後の出身で、慶応元年七月までの京坂における、隊士募集に応じて入隊し、同三年六月
 
の幕臣取立てでは、平士として、見廻組並御雇の格を受けた。諸士取調役兼監察をつとめ、
 
翌四年一月の鳥羽伏見に戦いに負傷し、大阪城で治療中に、城外の火災を敵兵の攻撃によ
 
るものと誤認して自刃した。新選組慰霊碑に名前が刻まれている。
 
 
 



新田寅之介

につた とらのすけ


平隊士
 
豊後臼杵の出身で慶応元年五月、土方歳三の、江戸での隊士
 
募集に応じて、上洛するが、同三年六月以前に離隊している。
 
 
 



森下平作

もりした へいさく


平隊士
 
天保十年、三河に生まれる。森本、森とも称し、慶応元年五月、土方歳三の江戸での隊士
 
募集に応じて上洛し、同三年六月の幕臣取立てでは、平士として、見廻組並御雇の格を受
 
けるが、翌年一月の鳥羽伏見の戦いを経て、江戸に帰還後、永の暇を与えられている。
 
明治九年に建立された、新選組慰霊碑に名前があることから、それ以前の死だったことは
 
確実だが、おそらくは、鳥羽伏見の戦いで負傷したため、暇を与えられ、直後に死亡した
 
ものと考えられる。
 
 
 



藤原和三郎

ふじわら わさぶろう


平隊士
 
文政十三年、備中岡山で生まれる。慶応元年五月、土方歳三の江戸での隊士募集に応じて
 
上洛し、同三年六月の幕臣取立てでは、平士として、見廻組並御雇の格を受けたが、翌年
 
一月の鳥羽伏見の戦いを経て、江戸に帰還後に脱走した。明治四年に元隊士の和田屋和三
 
郎という人物が捕らえられ、入牢したことが記録されているが、同一人物の可能性がある。
 
 
 



森鷹之介

もり たかのすけ


平隊士
 
京都の出身で、慶応元年七月までの、京坂における
 
隊士募集に応じて入隊し、同三年六月以前に離隊した。
 
 
 



古川小二郎

ふるかわ こじろう


平隊士
 
嘉永元年、江戸で生まれる。心形刀流剣術立身流槍術、甲来流馬術をつかう。慶応元年五
 
月、土方歳三の、江戸での隊士募集に応じて上洛し、同三年六月の幕臣取立てでは、平士
 
として、見廻組並御雇の格を受けるが、翌年一月の鳥羽伏見の戦いにおいて、四日の淀で
 
戦死した。三日の伏見ともされる。二十一歳。新選組慰霊碑に名前を刻む。
 
 
 



矢金繁造

やがね しげぞう


平隊士
 
矢倉、繁三と称す。大阪出身で、慶応元年五月、土方歳三の、江戸での隊士募集に応じて
 
上洛し、同二年二月に死亡した、小川信太郎の頼越人として光縁寺を訪れている。同三年
 
六月の幕臣取立てでは、平士として見廻組並御雇の格を受けるが、翌四年一月の鳥羽伏見
 
の戦いを経て、江戸に帰還後、脱走した。
 
 
 



清水休左衛門

しみず きゅうざえもん


平隊士
 
天保九年に生まれる。慶応元年五月、土方歳三の、江戸
 
での隊士募集に応じて、上洛したが、七月以前に離隊する。
 
 
 



山寅之助

やま とらのすけ


平隊士
 
弘化三年生まれ。慶応元年五月、土方歳三の江戸での
 
隊士募集に応じて上洛するが、七月以前に離隊している。
 
 
 



細井鹿之助

ほそい しかのすけ


平隊士
 
天保十三年に生まれる。慶応元年五月、土方歳三の江戸での隊士募集に応じて、上洛する
 
ものの、七月以前に死亡したものと思われるが、埋葬の記録は無い。あるいは、上洛中か
 
上洛直後に死亡したのではないだろうか。行年、二十四歳。新選組慰霊碑に名前を刻む。
 
 
 



吉沢平三

よしざわ へいぞう


平隊士
 
天保六年に生まれる。慶応元年五月、土方歳三の江戸での、
 
隊士募集に応じて上洛したが、七月以前に離隊している。
 
 
 



正木織之助

まさき おりのすけ


平隊士
 
天保十四年、丹波に生まれる。鉄之助とも慶応元年五月、土方歳三の江戸での隊士募集に
 
応じて上洛し、同三年六月の幕臣取立てでは、平士として見廻組並御雇の格を受けたが、
 
翌年一月の鳥羽伏見の戦いを前に脱走した。
 
 
 



岩崎一郎

いわさき いちろう


平隊士
 
天保十五年、陸奥盛岡に生まれる。南一郎と改名する。慶応三年前半に入隊したものと思
 
われ、同年六月の幕臣取立てでは、仮同志ながら、見廻組並御雇の格を受けのちに平隊士
 
となる。翌年一月の鳥羽伏見に戦いを経て、江戸帰還後に脱走した。彰義隊にも加わった
 
が、のちに沼津に住居して、元隊士の竹内元太郎や結城有無之助と交流し、明治二年十一
 
月十二日に日野の佐藤彦五郎宅を訪れ、翌年、十一月十日には、勝海舟を訪ねて、金二両
 
を無心している。墓は静岡県沼津市千本緑町の観音長谷寺にある。
 
 
 



松原幾太郎

まつばら いくたろう


平隊士
 
惟之。弘化四年十月十日に,尾張松原岩次郎の次男として生まれる。慶応元年五月、土方
 
歳三の江戸での隊士募集に応じて上洛するが、この時の記録では、弘化三年生まれとなっ
 
ている。慶応三年六月の幕臣取立てでは、平士として見廻組並御雇の格を受け、翌年一月
 
の鳥羽伏見の戦いを経て、江戸に帰還。甲陽鎮撫隊の敗戦後に脱走して、彰義隊に参加し
 
て、上野戦争で負傷した。のちに白河で漢学塾を開き、明治三十年代には、法律事務所を
 
開く、娘婿を頼って上京したが、数年で白河に帰って、大正十四年四月三日に死亡した。
 
■ 御 家 紋 ■
 
 



岡田克己

おかだ かつみ


平隊士
 
克見、克鬼とも称す。慶応三年前半に入隊したものと思われ、同年六月の幕臣取立てで、
 
仮同志ながら、見廻組並御雇の格を受けているが、佐野七五三之助らと幕臣になることを
 
反対し、十名で会津藩に脱隊を求めるが果せず。首謀者の佐野ら四名は切腹し、克己ら、
 
六名は、追放処分となった。
 
 
 



三井丑之助

みつい うしのすけ


平隊士
 
天保十二年、常陸館林で生まれる。貫助とも称す。源勝久。慶応元年五月、土方歳三の、
 
江戸での隊士募集に応じて上洛し、同三年六月の幕臣取立てでは、平士として、見廻組並
 
御雇の格を受けた。翌年一月の鳥羽伏見の戦いを経て、江戸に帰還し、三月の五兵衛新田
 
駐屯後に脱走して、新政府軍に投降する。同時期に脱走した、大石鍬次郎と懇意だったこ
 
とから、加納鷲雄の家に大石をおびき寄せて、捕縛させた。明治二年には、開拓使農業掛
 
使掌を拝命するが病欠し、七年には、佐賀の乱が勃発して、現地へ向かい、同年中に依願
 
退職した。
 
 
 



小幡三郎

おばた さぶろう


平隊士
 
慶応三年前半に入隊したものと思われ、同年六月の幕臣取立てで仮同志ながら、見廻組並
 
御雇の格を受け、後に平隊士となった。鳥羽伏見の戦い直前に薩摩藩邸潜入を命じられ、
 
開戦直後に脱して、會津藩大砲隊に合流して逃げ延びているが、この時の、會津藩の記録
 
には「小県三郎」とされている。江戸帰還後は會津まで戦い、八月の母成峠の戦いに敗走
 
すると斎藤一らと會津に残留し、九月に、守備中の如来堂を、襲撃されて死亡。ただし、
 
如来堂の隊士は、全員が戦死者として扱われているものの、斎藤以下の生存者が確認され
 
るため、不詳と扱われるべきであろう。
 
 



武藤又三郎

むとう またさぶろう


平隊士
 
奥州出身で、慶応元年七月までの京坂における、
 
隊士募集に応じて入隊し、同三年六月以前に離隊した。
 
 
 



加藤 羆

かとう ひぐま


平隊士
 
慶応二年に入隊し、同年九月の三条制札事件では、組物見同心として出動し、七両二分の
 
褒賞金を与えられ、翌三年六月の幕臣取立てでは、平士として、見廻組並御雇の格を受け
 
ている。六月二十三日に死亡しているが、その前日、武田観柳斎が殺害された事件があり、
 
これに出動して、死亡したものとも、そのときに、武田の同志一名が、枚方まで逃走し、
 
同所で切腹したということから、それが羆だったとも考えられる。墓は光縁寺にある。
 
 
 




吉村新太郎

よしむら しんたろう


平隊士
 
筑前秋月の出身で、慶応元年七月までの、京坂における、隊士募集に応じて入隊したが、
 
「新撰組始末記」によると、筑前藩士伊藤清兵衛の命を受け、間者としての、内情偵察が
 
目的だったとされる。同三年六月の幕臣取立てでは、平士として、見廻組並御雇の格を受
 
けるが、途中での脱隊が困難な為に、在隊を続けていたという。翌年一月の鳥羽伏見の戦
 
いを経て、江戸に帰還するが、脱走することもなく、會津では、差図役をつとめ、四月二
 
十五日に白河関門での戦闘で、重傷を負ったために離隊している。
 
 
 




中井三弥

なかい みつや


平隊士
 
慶応三年六月の幕臣取立てで平士として、見廻組並御雇の格を受けているが、おそらくは
 
前年中の入隊と思われる。このとき、富川十郎らと、幕臣となることに反対し、十名で会
 
津藩に、脱隊を求めるが果せず、首謀者の富川ら四名は切腹し、三弥ら六名は、雷同者と
 
して追放された。
 
 
 



荒木信太郎

あらき しんたろう


平隊士
 
信三郎とも称す。慶応三年六月の幕臣取立てでは、平士として、見廻組並御雇の格を受け
 
ているが、おそらくは、前年中の入隊と思われる。翌年一月の、鳥羽伏見の戦いを経て、
 
江戸に帰還し、脱走する。
 
 
 



前野五郎

まえの ごろう


平隊士
 
弘化二年、阿波徳島藩士前野健太郎自敏の次男として生まれる。慶応三年六月の幕臣取立
 
てでは、平士として見廻組並御雇の格を受けているが、おそらくは、前年中の入隊と思わ
 
れる。十二月の天満屋事件では、斎藤一らと警護にあたっており、翌年一月の鳥羽伏見の
 
戦いを経て、江戸に帰還し、三月には、甲陽鎮撫隊として出陣するが敗走。その後、永倉
 
新八らの、靖共隊に加わって歩兵取締となり、北関東から会津に転戦するが、会津で投降
 
し、薩摩兵の一員として、従軍していた加納鷲雄により、薩摩藩付属となった。明治二年
 
九月に、開拓判官の岡本監輔に従って樺太に渡るが、病気の為、札幌に移り住み、薄野で
 
貸座敷業を行なって、財を成す。二十四年に岡本と再会し、彼の千島開発計画に賛同、自
 
らも「千島共済組合」を設立した。二十五年四月十九日、択捉島探検中に橋から転落し、
 
猟銃の暴発によって死亡。四十八歳。墓は札幌市豊平区里塚の里塚霊園にある。
 
■ 御 家 紋 ■
 
 



梅戸勝之進

うめど かつのしん


平隊士
 
慶応三年六月の幕臣取立てでは平士として、見廻組並御雇の格を受けているが、おそらく
 
は、前年中の入隊と思われる。十二月の天満屋事件では、警護にあたって負傷する。翌年
 
一月の鳥羽伏見の戦いを経て、江戸へ帰還した。その後、会津に転戦し、同年六月に猪苗
 
代湖南の三代で、作成された名簿では、籠役とあり、九月十二日に仙台で降伏している。
 
新選組慰霊碑に、名前があることから、同碑が建立された、明治九年までに、死亡したこ
 
とが確認される。
 
 



松本俊造

まつもと しゅんぞう


平隊士
 
俊蔵とも称す。慶応三年六月の幕臣取立てでは平士として、見廻組並御雇の格を受けてい
 
るが、おそらくは、前年中の入隊と思われる。このとき、富川十郎らと幕臣となることに
 
反対し、十名で会津藩に、脱隊を求めるが果せず、首謀者の富川ら四名は切腹し、俊造ら
 
六名は、雷同者として追放された。
 
 
 



木幡勝之進

きはた かつのしん


平隊士
 
慶応三年六月の幕臣取立てでは、仮同志ながら、見廻組並御雇の格を受けているが、おそ
 
らくは、慶応三年前半に入隊したと思われる。このとき、富川十郎らと幕臣となることに
 
反対し、十名で会津藩に、脱隊を求めるが果せず、首謀者の富川ら四名は切腹し、勝之進
 
ら六名は、雷同者として追放された。
 
 
 



松本主税

まつもと ちから


平隊士
 
新選組の幕臣取立てに佐野七五三之助、茨木司、中村五郎、富川十郎が反対して、会津藩
 
に脱隊を求めた際に、岡田克巳、木幡勝之進、高野良右衛門、中井三弥、松本俊造と同意
 
し、同行したひとりで、佐野ら四名が切腹すると、雷同者として、岡田以下と追放処分を
 
受けたとされる。しかし、主税を除く九名は、幕臣取立ての名簿に、記名されているが、
 
彼の名は無い。入隊直後の出来事だったのだろうか。
 
 
 



佐久間顕助

さくま けんすけ


平隊士
 
慶応三年前半に入隊したものと思われ、同年六月の幕臣取立てでは、仮同志ながら、見廻
 
組並御雇の格を受け、のちに平隊士となる。翌年一月の鳥羽伏見の戦いを経て、江戸に帰
 
還し、各地を転戦して仙台より、蝦夷に渡り、箱館での四分隊編成では、第二分隊嚮導役
 
をつとめた。明治二年五月十五日に、弁天台場で降伏し、弘前の薬王院に収容されるが、
 
以後の消息は不明。新選組慰霊碑に名前があり、同碑が建立された明治九年までに死亡し
 
たことが、確認される。
 
 
 



和田六郎

わだ ろくろう


平隊士
 
慶応三年六月の幕臣取立てでは、平士として、見廻組並御雇の格を受け
 
ているが、おそらくは、前年中の入隊と思われる。十二月までに離隊した。
 
 
 



柴山徳三郎

しばやま とくさぶろう


平隊士
 
芝山とも徳太郎とも称す。慶応三年前半に入隊したものと思われ、同年六月の幕臣取立て
 
では、仮同志ながら、見廻組並御雇の格を受ける。翌年一月鳥羽伏見の戦いを経て、江戸
 
に帰還後、脱走した。
 
 
 



安部隼多

あべ じゅんた


平隊士
 
隼太、集太、準多とも称す。江戸の出身で、小普請役阿部弥七郎の子として、生まれる。
 
慶応三年九月、日光奉行高木伊勢守の転任にともなって、暇を出され、上洛して十月以降
 
に入隊し、局長附人数となる。翌年一月の鳥羽伏見の戦いを経て、江戸に帰還し、五兵衛
 
新田駐屯後、流山より会津に入って、什長下役をつとめ、六月に猪苗代湖南の三代で作成
 
された名簿では、歩兵差図下役とある。八月の母成峠の戦いに負傷し、蝦夷渡航後、明治
 
二年四月ごろの四分隊編成では、第三嚮導役となるが、それ以前に、箱館市中で番兵取締
 
の任にあったことが記録されている。五月十五日に弁天台場で降伏。弘前の薬王院に収容
 
された。以後不明。
 
 




加賀爪勝之進

かがつめ かつのしん


平隊士
 
加々爪とも、勝太郎とも称す。貞則。元美濃加納藩士。慶応三年六月の幕臣取立てでは、
 
平士として、見廻組並御雇の格を受けているが、おそらくは、前年中の入隊と思われる。
 
翌年一月の鳥羽伏見の戦いを経て、江戸帰還後、甲陽鎮撫隊として出陣し、三月六日の勝
 
沼の戦いで討死した。新選組慰霊碑に名を刻む。
 
 
 

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