武市半平太
たけち はんぺいた

土佐藩士
 
文政12年9月27日、土佐長岡郡吹井村の郷士、武市半右衛門正恒の子として
 
生まれる。諱は小楯、号は瑞山。武市の家は、経済的には恵まれているが、
 
身分は低い、土佐でいう「下士」の家であった。身長六尺、鼻が高く顎が張って
 
色は白く、喜怒がわかりにくい様相であったという。
 
江戸の桃井春蔵の門に入り、鏡新明智流の剣客として知られていたが、文久
 
元年、長州の久坂玄瑞、薩摩の樺山三円らと会して薩長土三藩が提携し、尊
 
攘運動を推進することを約束して帰国。8月土佐勤王党を結成し盟主となる。
 
その盟約書には、坂本龍馬はじめ中岡光次(慎太郎)、間崎哲馬、浜田辰弥
 
(田中光顕)、平井収二郎ら192名が署名血判しており、そのほとんどが終身
 
二人扶持の武市と同じような「下士」である郷士、庄屋、従士、足軽階級の
 
若者であった。
 
先ず武市は、当時藩政を握っていた佐幕開国派の参政、吉田東洋を大石団蔵、
 
那須信吾、安岡嘉助に暗殺させ、その首を城下雁切橋のたもとにさらした。
 
そして、藩論を尊皇攘夷に傾け、文久2年10月、山内容堂に従い京へ上り、
 
諸藩の有志と接触し、勅使三条実美、姉小路公知の東下には、武市は姉小路
 
の雑掌、柳川左門と名乗って従うなどの活躍で同士の間に重きをなし、同年
 
末には上士格になった。この頃がいわゆる「天誅」の横行する時期の始まり
 
である。武市は吉田東洋暗殺による藩首脳の人事の変化を見、暗殺という非
 
常手段の効果の大きさを知った。配下の岡田以蔵や薩摩の田中新兵衛らによ
 
る以後一連の「天誅」「斬奸」は必ずしも皆武市の指示によるものだけでは
 
ないが、深い関与は考えられる。文久2年7月20日、京都九条家の家臣、
 
島田左近、8月20日、本間精一郎、22日、九条家の宇郷玄蕃頭、文久3年
 
正月、池内大学、2月、山城の佐幕派の庄屋宗助など、多くの者たちが
 
天誅の犠牲になっている。
 
公武合体論の山内容堂は、その武市らの行動を憎み、文久3年、勤王党弾圧
 
をはかる。8月18日の政変により武市らは力を失い、同志数名と牢に下る。
 
在獄二年。慶応元年閏5月11日、切腹。享年37才。
 
吹井村(現高知市内)に葬られる。
 
■ 御 家 紋 ■
 
■ 剣 客 剣 豪 ■
 

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