松尾多勢子 
 まつお たせこ 

 
 
  文化8年5月25日、下伊那郡山本村(長岡県飯田市)の庄屋竹村常盈  

  の長女として生まれる。父常盈は志ある教養人で、多勢子が十二歳  

  の時に娘に教育を受けさせようと、甥の歌人北原因信に弟子入り  

  させた。多勢子は北原のもとで読み書きや和歌を学び、その妻から  

  は嫁入り修行をうける。  

  19歳の時、伊那谷伴野村の豪商松尾佐次右衛門のもとへ嫁ぎ六男  

  四女をもうける。夫佐次右衛門は学問肌で漢詩文では淳斎と号する  

  が、身体が弱く、家の切り盛りは多勢子の双肩にかかる。そして子ら  

  が家を持ち母としての荷が下りた頃、平田篤胤の養嗣子である銕胤  

  のもとに入門し学問を再開した。そんな中、皇女和宮の降嫁の行列  

  を見た多勢子は急変する世の中に憂国の情おさえ難く、京での和歌の  

  勉強や平田学派との交流も望み、夫の許しを得て京へ上る決心をする。  

  この時、文久2年、すでに多勢子は52歳になっていた。  

  京では、平田学の信奉者である染物屋の池村九兵衛を頼り、和歌を  

  介して勤皇派の公家と志士の連絡を取る役を務め、また幕府の機密  

  情報の収集にもあたった。老女であるために警戒されることも少  

  なく、農民や商人などに変装し活動を続け、若い志士たちから慕わ  

  れるようになり、「勤王の母」と呼ばれたという。維新の要人とも  

  いえる岩倉具視がこの時期宮中側近の奸臣とされ、和宮降嫁に尽力  

  したことから佐幕派ともみられており、その真偽を探りに多勢子は  

  密偵を引き受けた。洛北に隠れ住む岩倉に歌詠みの田舎老女として  

  近づき岩倉の真意を確かめ、岩倉が勤皇志士に受け入れられるきっ  

  かけをつくった。多勢子は志士の密議にも参加し、等持院の足利三代  

  木像梟首事件にも関わったといわれる。この事件の幕府方の徹底検挙  

  で、多くの仲間が死傷し捕縛される中、多勢子も覚悟を決めるが、長州  

  藩士が藩邸にかくまい、救われた。京都を脱出し故郷へ帰った多勢子は  

  尊攘派の同志を家にかくまい、水戸天狗党が伊那谷を通る際には長男  

  の誠を激励の為に駒場に遣わしたという。また、幕府追討の大号令が  

  発せられた時には、従軍できない我が身の代わりに息子二人を行かせた。  

  維新後、多勢子は岩倉具視に請われ岩倉家の家政を取り仕切る。また  

  その後も彼女を頼るかつての志士たちも多かったといわれる。  

  明治27年6月10日、84歳で亡くなる。  

  墓は、長野県下伊那郡豊丘村伴野区。風越山を向いに天竜川を見下ろす  

  所にたてられているという。  




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