立見鑑三郎
たつみ かんざぶろう

桑名藩士
 
桑名藩士、江戸在府御馬廻百石の町田伝太夫静臥の第三子として
 
弘化2年7月19日、江戸八丁堀桑名藩邸に生まれる。後、同藩士
 
伯父の立見場兵衛、御馬廻二百十石の養子となり、5歳のときに
 
伊勢桑名へ戻る。八歳で藩校立教館に入り文武を修める。剣術は
 
藩の流儀である新陰流を習い、17歳で別伝「三拍子の事」まで
 
伝授される上達ぶりであったという。他、槍術、弓術、馬術など
 
一通りをこなした。また学問においても、11歳で「春秋左氏伝」の
 
素読に合格、15歳で甲州流軍学にも入門した。さらに大塚晩香の
 
私塾において、四傑のひとりとも称される。
 
安政6年、美濃高須藩主松平義建の七男定敬が伊勢桑名藩十一万
 
石を継いだ折、立見は御小姓を命じられ、以後、定敬の信任厚く、
 
文久元年、定敬が江戸に出府する際同行する。立見はこれを機会
 
に許婚であった立見家の一人娘お美濃と祝言をあげる。
 
江戸出府後、昌平黌入学が許され、諸国の俊英たちと交わること
 
となる。文久3年2月、将軍家茂の上洛に従い、定敬も共に上洛
 
警備につくが、このときに立見も同行した。同年11月5日夜、
 
江戸城本丸炎上の際、立見のすばやい行動で定敬は登城一番のり
 
をはたし将軍家茂の覚え目出度く、翌元治元年4月11日、定敬
 
が京都所司代を拝命するが、その遠因になったともいわれている。
 
このとき藩主定敬は19歳にして、京都守護職である実兄の会津
 
藩主松平容保と幕末京都の波乱の中、共に働くこととなる。
 
立見は御小姓兼周旋役となり、京へ同行した。
 
同年6月池田屋事変、七月禁門の変と京都では騒乱が続き、10月
 
から12月の第一次長州征討で立見は大目付永井主水正に随行し、
 
芸州から長崎まで遠征。各地視察後、翌年帰京する。
 
慶応2年4月13日、第二次長州征討の際にも、芸州行きの内命
 
を受けた日記が残っている。
 
慶応4年正月3日、鳥羽伏見の戦いがおこる。 慶喜、定敬らは
 
大坂城を脱出し、幕府軍の敗退となり、立見ら桑名主戦派の者達も
 
各々定敬を追い、江戸へ向かう。
 
3月15日、立見らは大久保主膳正の屋敷へ入り、4月19日、
 
土方歳三らと共に宇都宮城攻略。閏4月16日には、柏崎にて
 
雷神隊の一番隊長となる。27日の鯨波の戦い、5月13日の
 
朝日山攻防戦に快勝し、与板攻防戦、島崎北野の戦いにおいても
 
力を発揮するが、8月23日、会津若松城下における戦いで敗れ
 
塩川に後退する。
 
明治元年9月20日、寒河江の血戦では、雷神隊にとっての最後の
 
凄惨な戦いとなり、9月26日降伏。立見は謹慎となる。
 
明治2年、当時23歳の立見は四月には桑名に戻り、引き続き
 
謹慎していた。
 
維新後、西南の役、日清、日露戦争と戦い続け、特に日露戦争での
 
弘前第八師団長として黒溝台の酷寒下の死闘では名を残す。
 
明治39年5月には陸軍大将として功二級勲一等をうけた。
 
明治40年3月7日、東京で死去する。享年61歳。
 
墓は東京青山墓地にある。
 
■ 御 家 紋 ■
 

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