10. 伊東甲子太郎の離縁
..04/03(Sat) 02:30[10]
北辰一刀流伊東道場先代当主の娘うめの婿となり「伊東大蔵」を名乗り、 元治元年の上洛の際には干支にちなんで「甲子太郎」と改名した伊東。 上洛の後に妻うめは伊東の故郷常州の実母こよにあてて、 「大蔵につきそったのは三木氏(実弟)、内海、中西、ほか、大蔵を慕い 全く国家のためを思い、共に志を立てた人達ですので、誠に力になって 下さる事と私も安心しておりますから、必ずご心配なさらないで下さいませ。 一同勇ましく出立したので、私も心を励ましこころよく別れを告げました」 と気丈な手紙を立てていた。 しかし京都の新選組の風聞が届くたびにうめは夫の身を人一倍心痛し、 ある時、郷里の実母こよが病気と京に飛脚を立てた。 伊東と三樹三郎の兄弟は驚き、急いでひとまず江戸に戻ると、うめは 「実はあまりにあなたのお身の上が心配で、国事に奔走する事は もうやめて頂きたいと思い、母上が病気とウソの手紙を送りました」と告白。 伊東は大変怒って、 「いやしくも夫に偽るとはよろしくない。自己のみを知って国家の重きを知らぬ」 という理由でうめを離縁してしまった、という。 しかし上洛後わずか三年で不慮の死を遂げる最期を思うと、妻の予感も あなどれないものではなかったろうか。
|
|