9. 近藤勇、胃薬をもらいにいく ..01/24(Mon) 07:33[9]

三日前に江戸の松本良順宅で外国情勢についての教示の教えを
長々とたまわったばかりの近藤勇が、元治元年十一月十四日
またも良順先生のところへ訪問した。
勇は笑って、「今度は本当の病で、診察していただきにきました」という。
良順先生の診たてでは、食物不良のため胃をいためているとして、
「健胃制酸下剤」という薬を与えた。勇は翌日には坊城様の警護で
京に戻りますといい、後日の再会を願ったという。
消化不良も公務のストレスからきたものだろうか。


10. 伊東甲子太郎の離縁 ..04/03(Sat) 02:30[10]

北辰一刀流伊東道場先代当主の娘うめの婿となり「伊東大蔵」を名乗り、
元治元年の上洛の際には干支にちなんで「甲子太郎」と改名した伊東。
上洛の後に妻うめは伊東の故郷常州の実母こよにあてて、
「大蔵につきそったのは三木氏(実弟)、内海、中西、ほか、大蔵を慕い
全く国家のためを思い、共に志を立てた人達ですので、誠に力になって
下さる事と私も安心しておりますから、必ずご心配なさらないで下さいませ。
一同勇ましく出立したので、私も心を励ましこころよく別れを告げました」
と気丈な手紙を立てていた。
しかし京都の新選組の風聞が届くたびにうめは夫の身を人一倍心痛し、
ある時、郷里の実母こよが病気と京に飛脚を立てた。
伊東と三樹三郎の兄弟は驚き、急いでひとまず江戸に戻ると、うめは
「実はあまりにあなたのお身の上が心配で、国事に奔走する事は
もうやめて頂きたいと思い、母上が病気とウソの手紙を送りました」と告白。
伊東は大変怒って、
「いやしくも夫に偽るとはよろしくない。自己のみを知って国家の重きを知らぬ」
という理由でうめを離縁してしまった、という。
しかし上洛後わずか三年で不慮の死を遂げる最期を思うと、妻の予感も
あなどれないものではなかったろうか。


11. 歳三叔父さん、怪我を祝う ..04/03(Sat) 02:30[11]

土方の実家よりも姉の婚家・日野佐藤家が居心地のよかった土方歳三。
佐藤家には源之助、力之助、漣一郎、彦吉と四人の甥っ子がいた。
文久の頃、よちよち歩きの彦吉が庭で遊んでいて、玄関わきに積んで
あった切石に前のめりに転んで、ガツンとおでこをぶつけてしまった。
玄関の間で昼寝をしていた歳三が火のつくような泣き声を聞きつけて
すっ飛んでゆくと彦吉を抱っこして座敷に上げ、そこは薬の行商でも
ならしたもので、こまごまと手当てをしてやった。
しかも「男子の向こう傷だ、めでたいめでたい」と言ったという。


12. 歳三叔父さん、風呂にフタをする ..04/03(Sat) 02:30[12]

土方歳三は、佐藤家の甥っ子たちには大変よい「叔父さん」であったようだが、
ひとつ嫌がられていたこともある。
幼い子供を「お風呂に入れて洗ってやって」と誰かしら引き受けるのは
よくあることだが、当の子供たちが歳三と一緒に風呂に入るのを嫌がった。
歳三は「あつ湯ずき」だったという。子供はただでさえ体温が高いから
熱い湯温を嫌うものであろう。「あっ叔父さんと風呂……」と思った甥たちが
逃げ出そうとすると歳三はすばやくとっつかまえて無理やり風呂桶に突っ込み、
あろうことか「男子たるもの、このくらいの熱さを怖がるようでは大成しない」と
無茶な理由をつけて、強引にその上からフタまでしめてしまったという。


13. 歳三叔父さん、カッコイイところを見せる ..04/03(Sat) 02:30[13]

さて、佐藤彦五郎の長男源之助(のち俊宣)、つまり土方歳三の甥だが、
やはり父たちを見て育つ環境か、しだいに武芸にも関心がわき、
鉄砲の操銃法も修めながら成長した。
慶応の頃歳三が公用で帰郷し、寸暇をとって日野佐藤家を訪れた頃、
源之助の銃はどの位うまくなったかやってみせろと言われ様々に実演した。
歳三は大いに誉め、京へ連れていき新選組隊士に教授させたいと言ったが
姉おのぶが猛反対して断念。江戸へ戻る時には源之助も父とともに歳三を
送った。途中の内藤新宿を通過する前に大和屋という知人宅で休息をとり、
関門の役人には使者を派遣して「会津肥後守預りの新選組土方歳三の供」だと
名乗れと命じたが、しばらくすると供の二人が戻ってきて、
主人も一緒でなければ通さぬと叱り飛ばされたという。歳三はひどく
立腹して大和屋を発ち、それでも含み笑いをして悠々と歩いていった。
いざ関門に着くと、立ったまま「拙者は供の申し述べた土方歳三である。」
と大声を上げ、大刀を引っさげ座敷に登っていき上役に直談判し、
「ニセ者と思うなら上役殿を宿所まで同伴しよう」というと役人どもが
震え上がって、そのまま通られよと手のひらを返して平身低頭。
源之助はまるで別人のような叔父の姿にびっくりしていたが、
なんなく通過して二、三丁行き過ぎると、歳三は
「役人の眠気をさましてやったんだ」といって大笑いしたという。
また別の帰郷の時には、井上源三郎と立派な黒紋付仙台平袴の武士姿で
現れた。翌日源之助を井上の馬に乗せて自分の馬と二頭の遠駆けに誘い、
日野大坂上から新田まで原っぱの道を二往復し、掛け声をあげながら
凄い速さで佐藤家の表庭へ乗り込んで帰ってきた。源之助は振り落とされ
まいかと危険さに汗びっしょりで顔面蒼白だったが、歳三はふりかえって
ニコニコ笑っていた。


14. 歳三叔父さんのおみやげ ..04/03(Sat) 02:30[14]

土方歳三が二度目の帰郷の折、佐藤彦五郎への京土産として
佐久間象山の詩書を持参した。彦五郎は以前に近藤勇から貰った
頼山陽の詩書とともに家宝とした。
また、土方家には歳三の姪、ぬいがおり、行儀見習の奉公も
その後の結婚も、病身のためにかなわず実家に戻されていたが、
歳三は「島田まげ、櫛、笄、絵草紙」などの京土産を与えて
孤独をなぐさめてやった。
甲州勝沼戦争の前に日野佐藤家に立ち寄った時には、拝領の品である
母衣(ほろ)をわざわざ持参して姉おのぶに置いていった。
他にも刀剣や鉢金、時には女たちの手紙などまで郷里に贈っており、
人にプレゼントを贈っては驚かれたり喜ばせたりするのが好きだったのかも。


15. 斎藤一のフンドシ ..04/03(Sat) 02:30[15]

九死に一生の修羅場をくぐりぬけ、明治後には時尾という妻を向かえ
藤田五郎として家族とともに後半生を送った斎藤一であるが、晩年の姿を語るひとコマと
して、老いてからも自分の下帯、つまりフンドシは自分の手で洗濯し、
しかもパンパンと手で叩きしわを伸ばしてから干すという習慣を続けていた。
息子の嫁がそんなことは私がしますと言っても、自分の下着は自分で洗うのが
武士のたしなみだといって、やらせなかったという。


16. 紫色の新選組隊旗 ..04/03(Sat) 02:30[16]

これは新選組存命中の話ではなく、淀競馬場が出来る頃とのことだが、
大掛かりな工事の間に、古い小さな祠がまつられていたのを、都合上移転
することになった。ここは鳥羽伏見の戦いのさなか、淀の激戦地となった
ところであり、新選組や幕軍など多くの戦死者の霊を慰めるための祠だった。
ところが移転したあとになると、工事現場に働く人たちの夢枕に血まみれの
武士たちがあらわれ「もとのところに返せ、もとのところに返せ……」と
口々にいいながらにらんでいる。その後ろにはなぜか紫色に染まった
誠の隊旗が見えており、これは新選組の亡霊が怒っているのだと噂になって
不審な事故も続くので、結局はもとあった場所に戻されピタリとおさまった、という。


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