17. 永倉新八が7回もケガした記録 ..04/03(Sat) 02:33[17]

永倉が73歳の時、晩年の覚書として、孫達が成長したら見せるように、と
したためたのが「七ヶ所手負場所顕ス」という四枚の和紙である。
思い出すままに書きつけていって順不同だが、名誉の負傷ばかりでなく
自分が酔って喧嘩した時のことまで正直に残している。

1 元治元年七月
大和国(正しくは山城国)天王山に、真木和泉らを追って攻め上った時、
敵方と数回の鉄砲の撃ち合いの時、腰に銃弾が当たった。

2 慶応四年四月
精共隊副長として、下野国壬生城の戦いで二の腕に銃弾が当たった。

3 慶応四年閏四月
精共隊副長として、宇都宮領高原宿から日光街道、茶臼山に出陣し
人差し指に傷。

4 元治元年六月
池田屋事件で、藤堂平助が眉間に重傷を負った後、手の平に傷を
負い、一針縫った。

5 元治元年七月
禁門の変の時、新選組が公家日野邸内にこもった長州人を追って
出撃した時、人差し指に傷。

6 文久三年七月
大坂力士乱闘事件の時、島田魁が横にふった脇差で誤って腕に傷。

7 慶応四年二月
鳥羽伏見から江戸に引き揚げ、深川の品川楼で仲間と共に三日も
酒を呑み続けてから外に出て、酔いのため橋の上で三人の侍と
ぶつかって刃傷沙汰となり、目の下に傷。

陣羽織を改作したチョッキにも、銃創2箇所と刀傷5ヶ所であると
記している。いずれも軽傷だったことや、負傷しても手拭で傷を
縛ったり、痛みを我慢してそのまま戦い続けた事などが書かれている。
幕末維新の頃、文字通り命懸けで頑張った証を残しておきたかったのだろう。
半世紀もたってなお、新選組時代をいかに誇らしく思っていたかが
書面文末の署名から感じ取れる。

「明治四十四年十二月十一日 京都守護職松平肥後守御預り
  新撰組副長助勤長倉新八載之改メ杉村義衛治備七拾三歳」


18. 暴れん坊の左之助 ..04/13(Tue) 14:22[18]

伊予松山藩の内藤素行が子供の頃に見た原田左之助は苦みばしった美男だった。
・江戸三田の藩邸で中間奉公をしており、ある時先輩たちからしばられて
猿ぐつわをかまされ、さんざんに水をぶっかけられ責められていた。
左之助は子供の機嫌をとって遊ばせてくれる面白いところもあったので、
素行が可哀相に思って理由を人にきくと、左之助は泥酔して帰り、普段から
周囲に逆らう強気なところがあるので、決まりによって罰を与えている、
とのことだった。
・素行が郷里松山で再び左之助に会った時は少し上の若党になっていたが、
奉公先の親類筋の子供であるのに別に頭を下げるでもなく知らん顔をしていた。
・ある時、西洋式の進軍に使う太鼓に紐をくくりつけたものを腹に抱え、
なぜかフンドシ一つの裸でその太鼓をドンドン叩きながら道を歩いていた。
仮にも武士なら普通やらないことだなと驚いていたが、その後新選組の幹部に
なったと聞いたので「なかなか大した奴」だと感心されたという。
・藩の上士と口論になって「腹の切り方も知らぬ下司め」と罵られたので
頭にきて本当に腹を切った。が、九死に一生で不思議と助かってしまい、
その後は切腹のマークとばかり○に一つ引き(横に一本線)を自らの紋にして、
「金物の味(刀傷の痛み)を知らねえ奴とは違うんだ、みろ」と傷あとを
見せてすごんでいた。
・壬生にいた頃、ふたことめには斬れ斬れといい、短気でせかせかしていた。
・新選組に入った間者を斬った後につい「ああいい気持ちだ」と笑ったら
近藤勇に叱られた。
・京都で結婚した時は妻まさが腹の傷あとを見つけて驚いたが、切腹の
理由については「女子供にゃわからんことだ」と言った。
・関東へ戻った後、近藤たちと別れたが会津行きの途中に永倉とも別れて
一人で江戸へとって返し、彰義隊に加わって戦死した。しかし、生き延びて
満州に渡って馬賊になり大出世してひそかに帰国したとか、日清戦争の時に
日本軍に参加していたとまで言われている。


19. 沖田総司の恋 ..04/13(Tue) 14:22[19]

総司が京都にいた頃「医者の娘と恋仲になったがある時近藤が訓戒して別れさせ
女性のほうは他人に嫁いだ。」という話は有名である。
また、光縁寺には「沖田氏縁者」という成人女性を示す戒名の故人がいる。
その後も総司の恋人は誰だと諸説飛び出すがいまだに確定しない。

・近藤の養女?が修行中の総司に片思いをして断られ、懐剣でのどを突いて
 自殺未遂をしたが助かってその後は他に嫁いだというもの。
・旅館里茂の娘、きん
・新選組が池田屋事件の後に手当てを受けた医者で看護の仕事をしていた
女性、石井秩。すでに連れ子の娘が一人あったが総司との間にも女の子を
一人生んだ後この人が亡くなって光縁寺に葬られ、遺児二人が預けられた
先の親族が「大坂酒井意誠」という寺の記帳と関係があるというもの。
・新選組が治療を受けた医師岩田家の三女コウ。
姉スエが谷万太郎の妻になりコウが谷周平(近藤勇の養子)の婚約者のため
別れさせられたともいうが、コウはまったく別の人に嫁いでいる。

総司も二十代の若さで、むしろ女性との仲や別れがあっても当たり前、
色恋の話は、そうそう人に全部真実を語られることばかりでもなかろうし、
当人どうしの思い出で充分、のような気がする。


20. 高台寺党のおんなたち ..04/13(Tue) 14:22[20]

十一月十八日の油小路事件の後、篠原泰之進は現場を脱して後、薩摩邸へ
逃れていた。二十日の昼、篠原の妻萩野と、新井忠雄の妻小静、伊東の妾が
面会に来る。

萩野は「十九日の夜明け前から何だか胸騒ぎがして、寝室から起き
外へ出ようとすると、油小路へお供した小者の武兵衛が帰ってきて、
ただ大変だと言ったきり走っていきますので、高台寺の宿所へ行っても
どなたもおられず、宮川町(伊東の妾宅)へ行ってみたら、表口から侍たちが
四、五人追ってきて、今ここに篠原の妻が来たろう、差し出せと家主さんに
尋ねるのです。隙を見て裏口から川岸へ登って逃げ、ここまで来ました」と語る。
篠原の五歳の息子庄太郎は自宅に残され、新選組の探索の後、下僕の源蔵が
その子を守り家を脱して大坂に潜伏した。

新井忠雄は出張中で、京に戻る途中二十二日に伊勢四日市に宿泊した時、
乞食の格好をした女を見ると、何と自分を捜し歩いてきた妻であった。
そこで初めて伊東の暗殺と油小路の悲報を聞く。

篠原の妻萩野は薩摩藩留守居にかくまわれ、一時期大久保一蔵(利通)の
ところにもいたが、二十五日には伏見の薩摩邸へ駕籠で送られ、高台寺党の
同志達の為に炊事洗濯などの用を尽くし、鳥羽伏見の戦後、夫が赤報隊幹部と
して投獄された時は、自分を身代わりにしてほしいと願い出た。
まさに貞女の鑑だが、その後の消息は伝わっていない。
篠原は明治三年に後妻のチマと結婚し、遅くなってから新たに男児を
二人得て後半生をすごしている。


21. 芹沢鴨の幻のマンガ ..04/13(Tue) 14:22[21]

壬生の八木家で幼女の葬式があった。
八木家に当時息子達はいても女の子がいたという記録はないので、
これが八木さんの娘なのか、奉公人の家族などのことなのか不詳だが、
葬儀に際し、宿としてお世話になっていた隊士たちが手伝いをしたと伝わる。
芹沢と近藤は弔問客の記帳受付係として座っていたというのだが、
待ち時間の間に退屈になってくると、余りの紙に芹沢が面白い絵などを
いろいろ落書きしていた。八木家にしばらく残っていたのだが
年月の間に、いつの間にかフスマの下張りに使ったりして無くなってしまった。
もし現在まで保存されていたら間違いなくお宝ものとして珍重されたことだろう。


22. 近藤のゲンコツと加藤清正と関羽 ..04/13(Tue) 14:22[22]

近藤勇は口が大きく、余興としてゲンコツをあんぐりと口の中に
入れてみせていたという話はあまりにも有名である。
が、ただ面白がってやっていたのかというとさにあらず。
猛将として有名な「加藤清正」もゲンコツが口に入ったというから、
自分も清正公のような武勇にあやかりたいものだ、と言っていた。

近藤は、幼い頃、宮川家の実父久次郎から、三国志や水滸伝などの
英雄武功談を語り聞かせてもらうのが好きで、
唐土(中国)の韓信、張良、関羽、張飛、日本の九郎判官義経、
楠木正成、加藤清正などの話を楽しみにしていた。
特に関羽に心をひかれ「関羽はまだ生きているの」と
父にたずねていたという。三国志にならって佐藤彦五郎、小島鹿之助とも
義兄弟の契りを結んだし、日本外史を愛読し、書簡にも楠公や宋の岳飛の
ような武将を例にひき、自分も彼らのように義を尽くすと書くなど、
歴史を我が身に置き換えて、頑張ろうとしていた事がうかがえる。

今、多摩の地でも「近藤勇先生のような強くて立派な人になりたい」と
子供たちが剣道の稽古に励んでいる。先人を見習う心は持ち続けたいもの。


23. 土方歳三、かんかんに怒る ..04/13(Tue) 14:22[23]

土方が宇都宮奪還戦で足に負傷した後、会津の七日町清水屋という
旅館に泊まり松本良順の治療を受けた。同宿で幕臣の望月光蔵が自室へ
面会に行くと、土方は立つ事もかなわぬ状態で床に伏し、枕の上から言った。

土方 「君も、私の下に入って味方したまえ」

望月 「(ムッとして)私ごときはもとより文官の身で、武張った事には
    生憎と習熟しておりませぬ。藩公の親軍に従事して薪炭兵糧など物資の御用
    でもお勤めするのみでございます。」

土方 「それは卑怯だな」(嘲笑)

望月 「………。」(無理に微笑して席を立ち背中を向け退室しようとする)

土方 「君達も志を立ててこんな遠方まで来たんだろう。どうしてそう
    臆病な事を言うのかね。我が身大事より、いま体を張って忠を尽くさなければ
    わざわざ会津まで来た意味がないだろうが。それに、会津公は今は謹慎中で
    親兵がご進発する時期でもない。やり方がわからんなら習って覚えればいい。」

望月 (ますます嫌な奴だ。ひとつ軍事談でも語って試してやろう)
   「私もかつて兵書は読んでおります。勇猛といい卑怯というも、それは
    兵の勢いと申すもので、強弱は軍形にもよりましょう。用兵に優れた将は、
    戦闘の勢いというものを見極め、あえて人をして戦わしむるのを焦らぬ。  
    ゆえに臆病者といっても用いる所はあります。土方先生もあえてお笑い下さいますな。
    なおかつ、会津藩は既に脱走兵を多く受け入れ、越後に進発の情勢をなしつつ、
    しかれども外面上はいまだ謹慎と表明しておりますが表裏を覆す事は小児をあざむく
    より甚だしいと申せましょう。また、宇都宮と白河は吾がお味方にとりましては
    望みを繋ぐ要路であり、ことに宇都宮城は最も大切な枢要の地であります。
    幸い、先生が力戦してこれをお見事に奪取されましたが、長くは持ちこたえられず
    一日の戦闘で敵に返してしまうことになり、再び奪回するのは至難の業。
    私は、誠に惜しい事と存じます。しからば、先生もまた怯懦と言わざるを得ますまい。
    それに、……」

土方  「黙れ!!」(枕を畳に投げつける)

望月  「な、何を無礼な。」

土方  「戦に出た事もねえ奴がつべこべと何をぬかす!
     刀や鉄砲の下をくぐった連中が、どんなに必死の思いで
     あの宇都宮を戦ったんだか、人の後ろに隠れて何もしねえ奴に
     わかってたまるか。
     あんたのおしゃべりを聞いてるとよけいに具合が悪くなる。
     聞きたくもねえ、うせろ!」

……と、望月が記録した原文の文語調をドラマ風にすればこんなところだろう。
望月は土方に大声で怒鳴りつけられても、大事の前の小事と我慢してせせら笑ってやり
部屋に戻っても笑ったと書いているが、気圧された悔しさと怒りのあまり、
声も出なかったというのが本当の所で、後年まで腹がおさまらなかったからこそ
事細かに残したものではないだろうか。
実戦の軍人土方歳三を前に、こうも軍事談を得々と述べる度胸があったのなら
大したものだが……
そもそも、同宿の望月を重傷の土方のほうから自室に呼び、汝、我らにくみせよと
いきなり言ったという書き出しに合点がいかない。土方来着の報に戦況を尋ね
訪れる人も多かったはずで、ご同宿のよしみと望月のほうから面会を願い、
文官幕臣の傍観的な態度に、俺の下で兵士と一緒に戦いたいなら話を聞いて
やらんでもないよと一蹴された、というほうが口論の発端として自然な気がする。


24. 土方の恋人は未亡人説 ..04/13(Tue) 14:22[24]

作家・司馬遼太郎の小説「燃えよ剣」で歳三の生涯の恋人として描かれた
「お雪」は創作だが、作品中の彼女は武士の未亡人で京都在住という
設定になっている。
ところが、これに先立って作家の池波正太郎の話がある。老母と何げなく
過ごしていた時、「そういえば、新選組の土方の恋人は経師屋の後家さん
だったんだってねぇ…」と、母が容易ならぬことを口にしたというのである。
驚いた池波が尋ねると、京都で土方の馬丁をしていた人の話、というので
昔伝え聞いたことがある、というのであった。
もちろん真偽を確かめようもないが、創作意欲を刺激された池波は、歳三と
京の経師屋の後家とのはかない恋を短編小説「色」という作品に書き上げた。
上洛した年には、プロの遊女や妓女にモテモテだ、と名前まで書いて郷里への
手紙で自慢した歳三だが、相手が堅気の女性という事もあれば、迷惑をかける
ことをはばかって、公言しなかったかもしれない。
また、芸妓の一人との間に女の子が生まれたという話もあり、甥の佐藤俊宣が
明治になって京を訪れ消息を探したが、子供は幼少で亡くなり芸妓も他の人に
嫁いだが亡くなっていた、と聞き確かめられなかったという。


N E X T B A C K




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