吉村貫一郎
よしむら かんいちろう

諸士取扱役兼監察
 
奥州出身で天保十一年生まれとしか、資料がない。新選組加盟は、慶応元年四月二十七日
 
で、新参名簿には、北辰一刀流、奥州吉村貫一郎、弐十弐才と記されるが、生年からする
 
と年齢は間違いで、数え二十六となる。また三月頃と考えられる組織録に既に名があり、
 
若干早い入隊も考えられる。南部盛岡藩士の次男に、藩内の剣術の部門で高弟と記され、
 
慶応元年に江戸屋敷を脱藩して新選組に入隊し鳥羽伏見で戦死したと伝わる「嘉村権太郎」
 
がおり、吉村貫一郎は、嘉村を吉村、太郎を一郎とあてはめ「誠を貫く」に相応しくした
 
脱藩後の変名ではないかと思われる。幕末の同藩内で、優秀な子弟を本場の江戸へ遊学さ
 
せた事、隆盛を極めた北辰一刀流に入門して位を得るには、相当期間の生活援助を得られ
 
る境遇にあった事が考えられる。脱藩まで次男部屋住みのままであれば独身であろう。
 
上洛後の吉村貫一郎は、諸士取扱役兼監察の役に任じられ、山崎烝や尾形俊太郎と肩を並
 
べ、さらに撃剣師範を兼務として、沖田総司、永倉新八、斎藤一ら最古参と同等の位置に
 
就いている。前年の池田屋事件で一躍有名となり絶頂期に向かう新選組の中で、五十名を
 
超す新採用者の中から、伊東派のような集団入隊でもない吉村がこの地位に抜擢されたと
 
いう事は、文武両道の才を認められたと特筆すべきである。入隊した年には近藤の長州訊
 
問使広島出張の同行に選ばれ、翌二年の再出張の際も、吉村と山崎は近藤帰京後も現地に
 
残り、征長戦の芸州口戦況の報告書を託し、九月まで長期探索活動をしている。帰京間も
 
なく三条制札事件の和解で新選組と土佐藩の宴会が開かれた折には、近藤・土方・伊東に
 
吉村が同席している。折衝も出来、護衛役も勤まると時には年長の山崎より重用された事
 
がうかがえる。翌三年には、監察方から服部武雄や篠原泰之進が御陵衛士に転出したが、
 
吉村は六月の佐野七五三助ら会津藩邸嘆願事件に出向いたり、柳原、正親町両卿を訪ね近
 
藤の建白書について陳情など、局長副長の用件にはいわば新選組公用方として常に活躍し
 
ている。これだけ目立つ存在でありながら吉村本人の実像は謎に包まれているのも、守秘
 
任務の多い監察として優秀だからこそ、逆に個人情報が少ないといえるだろう。
 
吉村貫一郎といえば貧乏子沢山の下級武士で、出稼ぎ目的で新選組に入り、鳥羽伏見に敗
 
れて大坂の南部藩仮屋敷へ逃げこみ郷里の妻子に惹かれて帰藩を願ったが、武士にあるま
 
じき行為と罵られ、一人腹を切らされた、との悲話が子母澤寛の筆で有名になったが、吉
 
村の妻子を探しても見つからなかったと結んでいるのは道理で、後から作られた虚構だか
 
らである。敗戦直後の大坂にはまだ多数の幕軍がおり、薩長が制覇していたわけではない。
 
後の奥羽戦争で官軍に抗戦した佐幕の南部藩が、一存で徳川直参の新選組を殺させるのも
 
不自然極まり、新選組の公用を勤めていた才気煥発の吉村が、旧藩以外に逃亡先を思いつ
 
かないとも、考えられない。鳥羽伏見の激戦には軍監として活動し、剣技むなしく銃砲の
 
前に散り遺体不明、本名の「嘉村権太郎、戦死」と記録されたのが正しいと思っている。
 
享年二十九。
 
■ 御 家 紋 ■
 
 

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