徳川慶喜 
 とくがわ よしのぶ 

十五代征夷大将軍
 
  天保8年9月29日、水戸藩主徳川斉昭の七男として江戸小石川に生まれる。母は有栖川宮家  

  の吉子。父斉昭は水戸学の家元として尊皇論の象徴的存在でもあり、幕政へも度々意見して  

  隠居謹慎させられた程の剛直な大名である。幼い七郎麿は水戸の国元で武骨な藩士たちの  

  手に預けられ、武七分書三分という厳しい帝王学を教え込まれながら育った。  

  11歳の時に御三卿の一橋家養子に入って当主となった。御三卿は御三家のような大藩とは  

  違うが、将軍家の後継候補を出せる家格である。一橋家の先々代未亡人直子は義理の祖母  

  だが7歳違いで慶喜は直子と姉弟のように睦まじく、穏やかな青年期を江戸で暮らす。  

  しかし、時の13代将軍家定が心身共に弱く、諸外国が日本近海に迫る危機感も高まってお  

  り、将軍継嗣問題が紛糾、慶喜は俄に注目の的となる。一方は紀州藩主で幼少13歳の慶福  

  を推す譜代の臣大老井伊直弼らであり、一方は既に21歳の成年に達し、英明で名高い一橋  

  慶喜を推す松平春嶽、島津斉彬ら雄藩大名の派であった。幕閣、大奥が水戸斉昭の子であ  

  る慶喜に難色を示すのは勿論で、結局は慶福が14代将軍家茂に擁立されて決着を見る。  

  しかし、日米修好条約を井伊が天皇の許しを得ずに締結、これを水戸斉昭らが攻撃した事、  

  さらに幕府を度外しての密勅が水戸に遣わされるに及んで安政の大獄が起こり、慶喜を後  

  援した大名らは排斥され、慶喜自身も一橋邸内に於いて隠居謹慎の身となる。この頃には  

  一条家の姫美賀を正室に迎えていたが、養祖母との親密さを嫉妬され、漸く生まれた女児  

  も死亡、公私共に慶喜にとって失意の時であった。  

  万延元年に井伊大老が暗殺されて旧一橋派が復権し、島津久光の策を入れた朝廷の意向に  

  よって、幕府では文久2年に慶喜を「将軍後見職」、松平春嶽が「政治総裁職」と任命、  

  連立して将軍家茂の補佐となる。25歳にして政権の表舞台に登場した慶喜は幕政改革に着  

  手。洋式軍制の導入、洋書調所の設置、参勤交代の緩和、公武合体の推進、安政の大獄で  

  捕らわれた志士の大赦等を実行する。これに先立ち、朝廷からの「幕府による攘夷実行」  

  の要求は強まり長州を中心とする尊攘激派が京都で公武合体派や佐幕派の人間をテロ行為  

  で襲う事も頻繁になり、慶喜・春嶽は京都守護職の新設を行い、京都における幕権強化を  

  はかる。文久3年には将軍自身が上洛して孝明天皇に拝謁、加茂神社、石清水八幡宮での  

  攘夷祈願行幸にも同行の運びとなる。石清水での攘夷節刀拝受の儀式には家茂名代として  

  出た慶喜が腹痛を訴えて留まり拝受を避けるという手段を使う。もとより諸外国の脅威を  

  知っている幕府には即断での攘夷は到底実現不可能な事はわかっており約束を先延ばしに  

  していたのである。しかし家茂が天皇に抗しきれず5月10日を攘夷期限と約束させられ、  

  激怒した慶喜は将軍後見職の辞表を朝廷と幕府に叩きつけた。  

  慶喜がそのままに放っておかれるはずもなく、禁裏守衛総督に任じられ、禁門の変で長州  

  系が一掃された後は、京都守護職松平容保と京都所司代松平定敬の補佐のもと勢力を強め  

  た。時には「神君(家康)以来の傑物」とまで評される程、頭脳明晰だった慶喜は、松平  

  春嶽(越前)、島津久光(薩摩)、伊達宗城(宇和島)、山内容堂(土佐)ら「天下の四  

  賢侯」と呼ばれる雄藩大名をも「天下の大愚物」と罵倒したといい、将軍家茂ですら慶喜  

  に位を譲って辞職を考えた程であったという。写真や軍服等、西洋の文化を好み、豚肉を  

  食べる「豚一公」とあだ名されたり、春嶽からは「ネジ上げの酒飲み」と閉口される程で  

  もあった。いやもう結構、と口では言いながら結局は盃の酒を飲む、言葉と腹の中が違う  

  という意味で「二心の殿」等と呼ばれてもいる。  

  しかし一方、幕府の頭痛の種でもあった安政条約を朝廷に認めさせ勅許を得る等、政治的  

  手腕は発揮している。第二次征長の幕府不利な中で将軍家茂が急死、勝海舟に命じて停戦  

  を運び、周囲が再三要請する中で、将軍になる事は固辞する。老中や有力諸侯の推挙を受  

  けてという形をとり、自分の希望を飲ませてその後の幕政改革を推進する計算だった。  

  慶応2年12月、30歳で漸く空位の15代将軍に就き、軍制や経済にはフランス公使ロッシュ  

  の建言を積極的に取り入れ、フランスとの借款契約を内定し、兵庫開港や長州寛大処分の  

  勅許を得、幕府中心の中央集権体制を作るべく、次々と新政策を実施していった。西洋諸  

  国の法制を講義させ、次代の議会制度や遷都等も既に構想していた。実際に慶喜に会った  

  イギリス外交官は「端正で眼光鋭く口は引き締まり、笑みが優しかった。筋骨は逞しく男  

  らしく、疲れを知らぬ馬術家、傑出した個性、偉大な貴人。」とまで賛辞している。  

  しかし薩摩・長州・土佐等の雄藩が連合して倒幕に傾いた後では、時が遅すぎた。戦争回  

  避の起死回生策として、先手を打っての大政奉還を決断、次の国家体制へも最大大名であ  

  る徳川として参画するはずであったが、薩長は敢えて武力討幕を実現する為に、納地辞官  

  を強要する他、様々に幕府を挑発して、鳥羽伏見の開戦に持ち込んだ。「討薩表」奏上を  

  名分に京へ大挙した幕軍は兵数でまさりながら、薩長軍が用意し掲げた「錦旗」(天皇の  

  軍隊を示す旗)に士気を挫かれ敗北を喫する。大坂城本営の慶喜は、巻き返しの為将軍出  

  馬をと迫る家臣団に「事既にここに至る、例え千騎が一騎になっても退くべからず。汝ら  

  宜しく奮発して力を尽くすべし。もし、この地敗るるとも関東あり、関東敗るるとも水戸  

  あり。決して中途にやまざるべし」と明言、軍装の支度をする間待てと言った後で、主戦  

  力の会津、桑名の両藩主と僅かな供を連れて密かに城から脱出、小舟で軍艦に乗りつけ、  

  江戸へ帰ってしまった。これには幕臣が驚いただけでなく、京坂の町民までが呆れて「将  

  軍は軍艦で自分だけフランスへ落ちのびたらしい。大坂決戦かと覚悟していたのに」との  

  風評も出た。  

  初代将軍家康は、大坂城の豊臣家に勝ち天下をとり、朝廷をも圧した。最後の将軍慶喜は、  

  大坂城を捨てて天下を失い、「朝敵」である。正に、徳川幕府の日の出と日没の違いであった。  

  江戸では、再戦を主張する勘定奉行の小栗上野介を罷免し、勝海舟に全権を任せて上野に  

  蟄居謹慎し水戸へ退去、身柄を駿府に移住と決定し、以後政治的には全く沈黙の永い隠居  

  生活となる。散策の途中、慶喜とわかって敬礼する旧臣には挨拶も返さなかったという程  

  に徹底しており、幕臣として尽くした新選組の近藤勇、土方歳三の慰霊碑への揮毫を頼ま  

  れた時は無言のまま落涙するのみで、周りがいくら待っても、引き受けるか断るかすら、  

  答えなかったと伝わる。自ら前歴との無縁を貫く事で、天皇の世に反して旧将軍を仰ごう  

  とする不穏を防ぐ為、とも言われるが、心中は計り知れない。  

  明治31年、漸く明治天皇、皇后への拝謁を許され、旧江戸城である皇居を訪れ、爵位に授  

  かり、汚名は復された。自身は写真、油絵、弓矢等、趣味三昧の生活に没頭し、側女2人  

  に次々と子を設けて、大正2年11月22日、77歳で没した。  

■ 御 家 紋 ■




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