幕 末 用 語 辞 典

武家伝奏
ぶけてんそう
武家伝奏は、室町時代から江戸時代にかけての朝廷における職名の一つ。 武家の奏請を朝廷に取り次ぐ役目を果たした。公卿が任じられている。 建武の新政の際に置かれ、室町幕府がこれを制度化したものである。 役料はそれぞれ250俵が与えられ、この他に官位禄物の配当があった。 江戸幕府の下では、1603年(慶長8年)に設置され、幕末の1867年(慶応3年)まで続いた。 室町時代には武家伝奏が改元や任官を幕府に通告し、公武間の意思疎通を図った。 また、足利義満以後武家伝奏を経由して室町殿の政治的要求を朝廷に伝える役目を果たした。 武家伝奏の方式が固まったのは戦国時代の永正年間以後である。 江戸時代に定員は二名。武家伝奏の任命には幕府の許可が必要であるが、 任命方式は同じ江戸時代でも変遷があり、江戸前期は幕府が人選を決定し、 朝廷は追認するのみであった。 中期ごろから朝廷が人選し、幕府が基本的に許可を出す関係へと移行した。 幕末には朝廷の人選に対して幕府には拒否権が無くなり事後報告を受けるのみとなった。 前期は幕府の朝廷抑制政策のため、中期ごろは誰が務めても大差がなくなり幕府にとって 人選の利益が薄くなってきたため、幕末は権力関係の逆転のためと考えられる。 江戸幕府の元では学問に優れて弁舌が巧みな大納言級の公卿が任じられ、 就任の際には京都所司代より血判提出を求められた。幕府に対する勅使には武家伝奏が任じられた。 幕府による朝政への介入が強まると、摂関家・議奏と武家伝奏の合議で朝廷の運営が行われるようになった。 王政復古の大号令に伴って廃止された。

尊皇思想
そんのうしそう
皇室崇拝の思想。徳川時代、朱子学の大義名分論に基づく尊王斥覇=徳を以って治める王 を尊び、力で支配する覇者を斥ける、という思想は、日本に於いては、国学および神道の 研究の隆盛により万世一系の皇室が尊重されるべきことを教え、皇室崇拝の思想を広めた。 尊皇論は、本来は幕府を否定するものではなかったが、幕末段階になって幕府の政治力が 衰え、また経済の発展に伴って幕府体制の流通機構の矛盾が激しくなると、尊皇思想は下 級武士、また地方の地主、豪農らを広く捉えた政治運動となり、攘夷論と結びついて尊皇 攘夷運動へと発展していった。

名 分 論
めいぶんろん
大義名分論ともいう。中国哲学で名称と分限の一致を求め、国家社会の階級的秩序を確立 しようとする儒家の思想を宋代の学者が強調。君臣の別をわきまえる封建社会の倫理的な 支柱として、日本では江戸時代の初期、朱子学に基づいて観念的に主張され、「神皇正統 記」「大日本史」など、国学や歴史編纂事業による復古思想の隆盛に影響を与えた。幕末 までには次第に、朝廷と幕府の区別を主張し天皇に対する忠誠を求める尊王論へとすり替 わり、幕府批判の政治論へと進んでいった。山県大弐はその著「柳子新論」で「天に二日 なく、民に二王なし」と説いて、天皇・将軍という権威の両立を否定したため、幕政を批 判する者として死罪に処せられた。この頃から名分論は幕府体制への批判となり、のちの 尊皇攘夷運動の思想的背景となった。

公武合体論
こうぶがったいろん
公武一和、ともいう。幕府の政局に重要な役割を果たした政策論。諸外国の圧力により、 徳川幕府の権力が衰えを見せると、比較して朝廷の発言力はにわかに増大し、難局を乗り きるためには、公(朝廷)と武(幕府)が合体して政情を安定させようとする動きが出て きた。最も具体的な方策として、万延元年、幕府は皇妹の和宮を将軍家茂に降嫁させ、公 武の協調を計ろうとし、文久元年、長州藩は朝廷を幕府に近づけようとしたが、いずれも 失敗。ついに薩長を中心とした勢力は幕府を改造、雄藩指導下に公武合体を謀ろうとした。 これは一時成功したかにみえたが、やがては薩長の倒幕論、土佐の公議政体論に分裂、公 武合体論は討幕運動に押しきられた。

開 国 論
かいこくろん
徳川幕府はその初期から鎖国を祖法としていたが、寛政年間には本多利明が著書で外国貿 易の利を説くなど、開国論はかなり早くからあり、田沼意次も開国を検討していたと云わ れる。幕末には外国船の来訪も頻繁となり、海外問題と関連し、世界の大勢を見れば開国 は避けられずとする者も多く、特に井伊直弼らは開国を断行して、徳川斉昭、松平慶永ら とも激しく対立した。中には、日本も欧米と真の対等条約を持つ事、洋式軍備の導入、欧 米への使節派遣の急務など、建設的な開港、開国論を持つ者もあったが、開国問題は幕府 体制を改変しようとする、薩長中心の尊攘派には幕府攻撃の手段として政治的に利用され た。しかし、倒幕の実現とともに薩長の新政府首脳は開国政策に変わり、積極的に西洋文 化を導入し、本来の尊皇攘夷論者達は置き去りにされた。

航海遠略策
こうかいえんりゃくさく
文久元年、長州藩が、長井雅樂の建策によって朝廷、幕府の間を周旋しようとした政策。 朝廷は鎖国攘夷の方針を変え、開国進取の線で、公武合体、海内一和をはかろうとする趣 旨であった。しかしこの政策はまず藩内外の尊攘派から反対を受ける。実行された和宮降 嫁が期待ほどの成果を挙げ得なかったように、すでに単なる公武合体策でのりきれる段階 ではなく、効果をあげないうちに、薩摩藩を中心とする幕府改造と雄藩主導権のもとでの 公武合体論に移行していった。

国益主法掛
こくえきしゅほうがかり
安政の開港以来、外国との交易の中で国内物価は急激に高騰し、士民の生活は著しく困難 になった。万延元年四月、幕府は士民の困窮を救済し、国産の充実をはかって国益を増す 目的で、評議機関としての国益主法掛を設置した。大目付、目付、町奉行、勘定奉行、同 吟味役などがその御用取扱を命ぜられた。下級旗本の救済、物価引下令の発布、年貢収納 の増加、国益会所の設置による物資掌握などが、その主要政策であったが、見るべき成果 を収めぬうちに、文久二年四月に廃止された。

尊皇攘夷運動
そんのうじょういうんどう
幕末に普遍化した政治運動。尊攘。古来の「尊王攘夷」の起こりは、中国で周の王室を尊 敬し異民族(夷狄)の侵犯を打ち払った事。日本の鎖国体制下では、儒学の中華思想を育 て、国学に基づく神道思想が国粋主義的思想を育て、朱子学の系統を引く水戸学などに色 濃く現れて尊皇思想を育成した。幕末には、欧米諸国との接触と、幕藩体制の矛盾により 引き起こされた危機感の高まりの中で、攘夷思想が結びつき、尊皇攘夷運動に発展してい った。この運動は広範囲の人々をまき込み、幕府が欧米との諸条約を締結する中、時の孝 明天皇が厳しく異国人を嫌悪されたこともあり、尊攘を唱えることは反幕府派の旗印とな って次第に倒幕運動へと転化されたが、実は佐幕側も多くが「尊皇攘夷」を唱えた事では 同じであり、雄藩でも、幕府同様、攘夷は不可能である事は、次第に察知していた。幕府 が瓦解すると、政権を掌握した薩長ら維新政府首脳は、いち早く開国政策に乗り換え、従 来からの「攘夷」主義者の願望が叶うことはなかった。

草莽の志士
そうもうのしし
草莽とは、草むらや田舎の草深い土地の意味である。幕末に国事に奔走した人々は非常に 多く、各層、各地域にわたっている。吉田松陰は晩年、朝廷、幕府、藩もなく自らのみを 頼みとする草莽崛起の論を記した。武士という既存の支配階級に属さず、在野=民間にあ って国事に奔走した者を特に草莽の志士と呼び、村々の地主や豪農層、浪人などに多かっ た。多くは尊皇攘夷の思想をもち、自ら運動に参加する者もあり、また志士の資金援助の 役割を果たす者もいた。薩長を中心とする倒幕勢力は、幕府を倒す手段として草莽の志士 を利用したが、維新が成功に移ると彼らを切り捨て、薩長中心の藩閥政権を確立すること に努力した。

佐 幕 論
さばくろん
「佐」は助ける、の意味。幕末、徳川政権の崩壊期に入ると、各地に尊皇攘夷運動が起こ り、やがて激化すると、単に朝廷を尊崇するのみではなく積極的に朝廷主導の為に活動す る「勤皇」となり、やがては幕府を排斥する倒幕運動にも発展していった。この情勢の中 で、二百数十年にわたり日本を治めてきた従来の幕府の主導体制を支持し、倒幕派に対抗 しようとする保守的な政治論も起こってきた。このような論議を佐幕論という。佐幕派も 「尊皇」の点には異議が無く「佐幕」=朝廷反対派の開国論者、と単純に位置づけるのは 誤りであり、佐幕派の中にも尊皇攘夷精神を持つ者が多く「尊皇佐幕」の立場がある。図 式ならば佐幕、対、倒幕、である。佐幕論は会津、庄内、仙台、米沢藩などのように、幕 府への義に殉じた東北諸藩に多かった。

天 誅
てんちゅう
「誅」は罪ある者を責める、討伐すること。罪人を殺すことの意があり、「天誅」は天に 代って不正を討つ、天罰、という意味の言葉。幕末政争の中では、尊皇攘夷の激派により 保守的な現状維持派の人々に対して使われた。この天誅は単に言葉のみでなく、実際に幕 府方と目される人々を暗殺するといったような形でもしばしば実行された。水戸の天狗党 は、西上する途中の富農、富商達に対して国恩に報ずる為という名目で献金を迫り、応じ ない場合は「天誅を仰せつける」と脅迫している。また、最初の倒幕挙兵である吉村寅太 郎らの軍は「天誅組」と名乗り、まず五条代官所を襲い、代官鈴木源内の首級を奪った。

京都守護職
きょうとしゅごしき
幕末の京都には、全国から尊攘派の過激志士が集まり、これを取締ろうとする幕府側の人 々が入り乱れ、天誅と称して暗殺が横行するなど、都の治安は著しく乱れていった。従来 の所司代、奉行所ではとても対抗出来ず、幕府はこれに対処し、京都の治安回復と維持、 御所を警護する目的で文久二年、京都所司代の上に守護職を新設。京都所司代の他、大坂 城代や、近国大名をも指揮する強力な権限を持っていた。親藩の中でも幕府への忠誠を最 も重んずる家風であり、藩兵の精強でも薩摩と並んで一二と謳われた会津藩が特に要望さ れ、藩主松平容保が初代の京都守護職に選ばれ、千名の藩士を率いて上洛して就任し、黒 谷の金戒光明寺が会津藩の宿所となった。容保は孝明天皇から最も厚い信任を得る事に成 功し、新選組、京都見廻組などの新制組織をも配下に預かって職務に当たった。元治元年、 第一次長州討伐の際に一時期のみ松平慶永が代ったが、再び容保が就任。慶応三年の王政 復古とともに廃止された。

薩長同盟
さっちょうどうめい
薩摩・長州の二藩は、京都政界の雄藩両巨頭でありながら意見を異にし、反目、衝突を繰 り返した。特に、尊攘派公卿を誘引して文久三年に長州藩が企てた大和行幸による攘夷親 征の実行を、当時公武合体を主張していた薩摩が、会津と手を組んで妨害、八月十八日の 政変で長州を追い落とした時以来、対立は激しくなり、元治元年の蛤御門の変とその後の 第一次長州討伐で、薩摩藩は長州攻撃の先頭に立ち、溝は一層深まった。長州からは「薩 賊」と呼ぶ程に怨恨は深かった。だが一方、両者が提携すれば対幕府の最大勢力となると いう現実的な考えも志士達の間に強くなり、土佐の坂本龍馬や中岡慎太郎らの熱心な斡旋 により、曲折を経たが桂小五郎と西郷吉之助の会見が実現。慶応二年一月二十二日、京都 の薩摩藩邸に於いて、六箇条からなる薩長の軍事、政治に関する同盟の密約が結ばれた。 当時朝敵であった長州は薩摩藩を介する洋式武器購入の手段も得ており、薩長同盟=薩長 連合の成立により、倒幕の実勢力は結集された。

大政奉還
たいせいほうかん
幕政の行き詰まりにより、政権を朝廷へ返上した上で、新たな政務委任を受けるべきとい う考えは、折に触れ親藩、幕臣の中からも提唱されてきた。慶応三年には、既に幕府倒す べしの機運が高まり、薩長両藩を中心として、朝廷から討幕の密勅を発令させ、幕府を討 つという計画が進められていた。土佐の坂本龍馬の船中八策を原案に、親幕派の土佐藩主 山内容堂らは、幕府から自発的に政権を返上させることで武力討伐の理由を失わせ、新し い政体の中にも幕府が旧勢力を温存したまま順当に移行する事を意図する。山内容堂が後 藤象二郎を使として、十五代将軍徳川慶喜に建策し、慶喜が慶応三年十月十四日、ついに 政権を朝廷に返上することを上奏して、翌日勅許を得た。これを大政奉還という。このた め倒幕派の薩長は先手を打たれたが、王政復古を発し慶喜の辞官納地を迫ることで幕臣の 怒りを扇動し、武力討幕の戊辰戦争を引き起こす事に成功した。

王政復古
おうせいふっこ
慶応三年十月十四日、十五代将軍徳川慶喜が天皇に対し奉り、政権の返上すなわち大政奉 還を申し出て翌日許可されたが、朝廷が幕府に代わる政治機能をすぐに果たせるはずもな く、いまだ政権の実態は旧幕府に握られていた。この時点での政見は、土佐藩を代表とす る、徳川も含めた列藩会議で政治を執り行おうとする公議政体派に対し、薩長を中心とす る武力倒幕派とに分かれていた。薩長倒幕派は公家の岩倉具視と結び、同年十二月九日、 若年の天皇を動かして「王政復古の大号令」を発した。この号令は天皇親政、神武創業へ の復古を旗印としたもので、幕府、摂政、関白など従来の職を廃し、総裁、議定、参与の 三職が置かれた。政権交代の宣言である。だが同日夜の小御所会議において慶喜の辞官の 上に納地(領地返上)までが強引に決定された事は、幕府から身ぐるみを剥ぐに等しく、 慶喜が大坂城に退いても幕臣の怒りは収まらず、翌月には鳥羽伏見において戊辰戦争勃発 を招いた。

公議政体論
こうぎせいたいろん
幕末に於いて諸侯・公卿・諸藩士の有為の人材参加によって国政を議すべきことを主張し た論。坂本龍馬の船中八策にも、「上下議政局を設け議員を置き、万機を参賛せしめ、万 機宜しく公議に決すべき事」とあり、幕藩体制の次の政治の統合を図ろうとするものであ った。幕末最終段階、大政奉還後の政治案は、大きく分けて二つとなる。天皇を中心にい ただき政治を行うという点では一致していたが、徳川家・旧幕府を諸侯の一つとして残し たまま、これを含めて列藩同盟政権を創ろうという一派と、この際、幕府の旧勢力を排除 し、武力で徹底的に打倒しようとする一派とがあった。前者を公議政体派と呼び、土佐藩 を中心に尾張、越前、芸州藩などで構成されていた。穏健に大政を返上した徳川慶喜を国 政から疎外するのは妥当ではないと主張したが、結局は薩長倒幕派の策謀に押し切られて 戊辰戦争へと突入した。

五榜の掲示
ごぼうのけいじ
慶応四年三月、新政府が五箇条の御誓文の発布と共に旧幕府時代の高札を撤去し、その後 に立てた五つの制札。明治政府が人民に出した最初の禁令である。第一札は五倫をすすめ 殺人や盗みなどを戒め、第二札は徒党、強訴、逃散を禁止、第三札はキリシタンの禁止、 第四札は対外的には「万国公法」に従うこと、第五札は士民の本国脱走の禁止。このうち 前半の三項目は幕府の従来の方針をそのまま受け入れ永世の定法とされ、後半の二項目は 臨時の法とされた。明治新政権の本質を示すものとして注目すべき掲示である。


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