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鶴ケ城 国指定重要史跡
- JR会津若松駅より徒歩20分
鶴ケ城は至徳元年(1384年)芦名直盛が作った東黒川館が始まりといわれ
奥羽の要であり鎮守の意味でも鶴ケ城は、名だたる武将・勇将が相次いで
入部し、その武人達が築いた広大な領土は領土は東日本一を誇る。歴代城主は
芦名氏1384年〜1589年→伊達氏1589年〜1590年→蒲生氏1590年〜1598年
→上杉氏1598年〜1601年→蒲生氏1601年〜1627年→加藤氏1627年〜1643年
→保科氏1643年〜松平氏1868年
鳥羽伏見の戦いにより戊辰戦争は切って落とされた。戦いは、京都から會津へ
移され、新選組も参戦。土方歳三は、鶴ケ城小書院にて松平容保公に謁見し
天寧寺の39代住職吟月雲歩から、近藤勇の為「貴天院殿純忠誠義大居士」の
戒名をもらう。1868年8月23日、會津城下に進軍した西軍に包囲され約一ヶ月の
篭城戦を戦い抜いたが、敢え無く降伏。明治7年に陸軍省の命令により取り壊された
その後、旧會津藩士遠藤敬士らにより、払い下げられ昭和9年に国から史跡指定を
受けた。城跡は競輪場などにも使われたときもあったらしい。昭和40年
に現在の天守閣が復元された。内部は郷土博物館になっている。歳三の愛刀として
有名な兼定の刀が何振りも展示され、他にも鎧兜や大太刀など圧巻である。
荒城の月は、土井晩翠が荒果てた鶴ケ城を見て作詞し、作曲は滝廉太郎によるもの。
- 阿弥陀寺
- 盤越西線七日町駅より斜め前
会津戊辰戦争の折、城下戦で死んだ会津人の屍は賊として西軍から埋葬を許可されず
腐敗し、鳥や犬に食われ、死臭を極めた。嘆願の末、やっと大穴を十六箇所に分けて
寺々に掘り、投げ込むように埋葬された。阿弥陀寺もそのひとつである。
山門の左奥に戦死者ら一二八一人が眠る墓所がある。そのすぐ傍には藤田五郎の墓が
ある。この墓所は味方の遺体の埋葬を手伝った高木時尾(藤田の妻)へ、松平容保から
賜ったものといわれている。また、この寺院の本堂は、鶴ヶ城内のお三階を移築した
もの。三階というが、本当は四階。藩主と重臣が密議を謀る時に使用した建物で、三階
と四階に通じる各梯子を取外し、誰も登ってこられぬようにして使った。裏に回ると、
この白い壁に当時の弾痕が、そのまま残っている。
- 天寧寺
- 会津若松市東山町石山天寧208
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応永28年(1421年)楠正成の三男 正儀の子、傑堂禅師が開山した
曹洞宗の名刹。慶応4年、城下で宿営していた新選組が會津藩により
この寺に宿営する様に命じられ駐屯する。墓所には、近藤勇の墓が
あり、土方歳三が建立したのであるが、首塚と伝えられたこともあった
現在では遺髪を埋めたものであるが、土方歳三が建立したものは
近藤勇の墓と刻まれ、現在よりも小さく(半分位の高さ)三つに
割れてしまった為改修され現在に至る。なお隣には土方歳三の墓が
有志の手により建立された
- 滝沢本陣
- 会津若松市一箕町滝沢
市内一箕町八幡。白河街道の滝沢にある横山家住宅であるが、会津の歴代
藩主が、参勤交代や領内巡視、猪苗代の土津神社祭礼の際の休憩所として
使われており、戊辰戦争では会津藩の本陣として機能した。新選組が母成
峠や白河口に向う時も立ち寄った。慶応四年八月二十二日、母成峠突破の
報を受け藩主松平容保が滝沢本陣まで出馬し、会津若松城から再度本陣へ
戻った土方歳三らと対面した。白虎隊もここに集結し、藩主の直命による
初陣を誉れに勇躍、戸の口原へ出陣した。会津バス市内循環飯盛山・鶴ヶ
城回り「滝沢」下車すぐ。開館は8時から18時(12〜3月は9時から17時)
無休。
- 白虎隊記念館
- 会津若松市一箕町飯盛山
戊辰戦争での白虎隊や、會津藩士の資料。新選組の近藤勇の鉢がねと状箱
土方歳三の状箱、鎖帷子、島田魁の袖章など。西軍の遺品や資料など。多数
- 母成峠
- 福島県耶麻郡猪苗代町母成
慶応四年八月二十日から二十一日にかけて、東軍と西軍が激突した場所。峠の頂上の駐
車場には「母成峠古戦場」という巨大な記念碑が建ち、参戦した人々の名前が刻まれ、
新選組は土方歳三が代表して書かれている。駐車場から少し間道に入ると、当時東軍の
戦死者を仮埋葬した場所に「東軍殉難者慰霊碑」があり、新選組隊士六名(鈴木練三郎
・千田兵衛・木下巌・英一郎・加藤定吉・小堀誠一郎)、会津藩士三十八名、二本松藩
士八名、唐津藩士六名の名前が刻まれている。頂上付近には当時の塹壕跡も見られる。
- 如来堂
- 会津若松市神指町中四合
戦国大名上杉景勝の築城した神指城南の外域に如来堂観音があったため、
集落の名として残った。母成峠の戦いに敗れた新選組は四散し、土方歳三ら
本隊は塩川、米沢、仙台等へ向かい会津若松を後にしたが、山口二郎、久米
部正親、池田七三郎ら十余名ほどは如来堂に拠って守備中、九月四日に西軍
の攻撃を受け、全滅とも伝えられる打撃を受けたが、脱出した者もいた。
現地は今も広々とした田畑や細い道に囲まれたごく小さな集落で、如来堂の
建物はその端にあたる。川を望んで見通しはきくものの、わずかな守兵では
防ぎきれるはずもない事が思い浮かべられる。
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