岩城平藩主 |
文政2年11月25日、譜代5万石の陸奥盤城平藩主安藤信由の嫡男として江戸藩邸に生まれる。 |
幼名を欽之進、欽之助。諱は信睦(のぶゆき)、後に信行。雅号を鶴翁、欽斎、晩翠。弘化 |
4年8月父の死により家督を相続。嘉永元年に奏者番、同4年寺社奉行、安政5年若年寄 |
を歴任。同6年には大老井伊直弼の意を受けて、水戸藩に直接下された密勅の返還を迫り |
同藩士からは威嚇を受けたとの恨みを買った。万延元年、井伊の抜擢により老中となり、 |
外国御用取扱の役を与えられ同じ老中脇坂安宅と共に外交の任にあたる。しかし3月3日、 |
井伊が桜田門外で水戸浪士らに襲撃を受け暗殺されると安藤は直ちに彦根藩邸に出向き、 |
「掃部守(かもんのかみ)様ご負傷のお見舞い」と称して首のない遺体に対面、怪我の様子 |
を尋ね将軍の上巳の節句の中止の旨と長々とした見舞いの言葉を話し掛けて帰る。老中の |
自分が面談したという事で、あくまで大老は「負傷」であり浪士に襲われ即死ではないと |
いう芝居を打ち、幕府の体面を保ち、彦根藩と水戸藩との対決も回避したのである。 |
井伊への反発の後で政権を担当する事になった安藤は反井伊派であった下総関宿藩主久世 |
広周と政権を連立し、安政の大獄で弾圧を受けた一橋慶喜、松平春嶽、山内容堂らの謹慎 |
を解いて調整を図り、新政権下で閏3月19日、雑穀、水油、ろう、呉服、糸の五品江戸回 |
令を交付。貿易統制に乗り出し、さらに国益主法掛を設け流通の安定化と全国市場を幕府 |
支配下に置いた財政建て直しを図る。また大規模な軍事制度を改革して近代兵制を取り入 |
れようとするが案だけに終わり、後に幕府による文久の軍事改革に引き継がれた。安藤の |
政治的才能は特に外交面で発揮され、自らも西欧の見識に通じ、外国奉行・堀織部正ら有 |
能な官僚を用い、事務局の用意した答弁に任せず臨機応変に自らが処理するという、殿様 |
芸を超えた手腕が群を抜いており、外国公使団からは幕僚最高の信頼を得ていたといわれ |
る。 |
対ロシアの国境は北緯50度を譲れないと主張する樺太定境談判、アメリカの触手を封じる |
小笠原諸島再開拓、第一次遣欧使節派遣を実現、フランス代理公使ド・ベルクールの失言 |
に断固抗議して謝罪させる等、日本側の立場を保持する事に努めた。プロシア(ドイツ)と |
日普修好通商条約を締結する際には、折衝役の堀織部正が強硬な使節オイレンブルクに迫 |
られ周辺同盟30ケ国となし崩しの同時締結の妥協的な草案を提出すると、安藤はこれを即 |
却下しプロシア一国との条約を厳命。堀が翌朝理由を告げぬまま自邸で切腹した為、プロ |
シア側が前言を取り下げ一対一の条約を承諾したが、この切腹事件は安藤の後の世評にも |
影響する事となる。外国の急激な交易参入は、西欧と日本の金銀価値の格差による輸出超 |
過を生み国内物価が四倍にも跳ね上がるという不況を招いていた。井伊体制の弾圧に対す |
る反動、また、何よりも時の孝明天皇が外国人を激しく忌み嫌い、「自分の治世中に異人 |
が日本に踏み込む事は皇祖に申し訳が立たず国民の信を裏切り後世への恥、開港は許さず、 |
もし外国が強要すれば戦いも辞さず」と公言する程であった事は、攘夷=尊皇=幕府への |
反抗を増長するもととなった。だが朝廷と幕府が一体として融和すれば幕府権力は回復し、 |
反対過激派を自然消滅させる事になる。その為に、井伊直弼の頃から、姑息ながらも最も |
即効性のある具体策として、天皇家から将軍の御台所(正室)を迎える政略結婚が考えられ |
ていた。誰にでも解る一体化、「公武合体(公武一和)」の象徴である。 |
安藤は孝明天皇の異母妹である和宮親子内親王の江戸降嫁を願い出、14代将軍徳川家茂と |
の婚儀成立に尽力。共に15歳であり既に別々の婚約・縁談があったのだが、公武合体が最 |
優先とされ、最終的にそれぞれの縁談を潰しての結婚となる。和宮自身が未知の関東への |
輿入れは「幾重にもお断り申し上げ」と拒絶し、中山忠能(後の明治天皇の外祖父)や議 |
奏役・徳大寺公純、和宮生母の実家である橋本実麗等、反対する公卿もおり、安藤は御所 |
に5千両、公卿らに1万5千両を投じて彼らを籠絡するが、最大の難関は孝明天皇であっ |
た。「先帝の皇女を野蛮な異人がうろつく江戸へ嫁に出す等は恐れ多い。難しい事だが、 |
条約を破棄しせめて嘉永初年(ペリー来航前)の状態に戻せば文句を言わず和宮を説得し、 |
縁組も承知しよう」と勅答を下したのである。外交に精通した者ならば今さら締結済みの |
条約を破棄して鎖国攘夷を行う等、不可能である事はわかりきっている。将軍や老中が殺 |
されて内乱になっても外難は避けるべきとしていた安藤は、大真面目に天皇に対する芝居 |
を打つ返答をした。「当節より七、八年ないし十ヶ年もたち候うちには、ぜひぜひ応接 |
(外交政策)をもって(ペリー以前の状態に)引き戻し候か、または干戈(武力)をふる |
い征伐を加え候。」今は無理だが10年計画で外国の排除を行いますといういわば空約束で |
ある。遂に降嫁を拒みきれず苦渋する兄帝や安藤の金策を受けた周囲の説得により和宮が |
「天下泰平の為、誠にいやいやの事、余儀なくお受け申し上げ候」と承知して、万延元年 |
8月に前代未聞の降嫁勅許が実現した。 |
安藤は内政での公武合体と、外交上幾多の功績をあげたわけだが、この二つが同時に政治 |
生命を絶つ元となった。先年の堀織部正切腹は安藤がプロシアとの間で不正取引を行った |
事へ一命を賭けた抗議だという噂、安藤が和宮降嫁を反対する孝明帝を退位させようと廃 |
帝の先例を調べたという噂が「アンコウ切り(魚の鮟鱇を料理する為に吊るし切りにする) |
」即ち「安公斬り」に繋がるのである。文久2年1月15日、江戸城での上元の節句の日、西 |
ノ丸に通じる坂下門(桔梗門と桜田門の間)付近は将軍拝謁に登城する在府大名の行列で |
ごった返していた。西ノ丸下(現在の二重橋前)老中官舎から礼装し駕籠に乗って登城し |
ようとする安藤信正の警護は45名。人馬の雑踏の中から頭巾の武士小薬平次郎が訴状を捧 |
げようと走り出て、短銃で安藤の駕籠を撃ち、弾丸は外れたがその音を合図に水戸浪士・ |
平山兵介ら計六名の刺客が襲撃した。平山が駕籠の背面から心臓を狙って刀を突き差し、 |
安藤は抜刀して、足袋はだしのまま門内に逃げ込み、大番所で遭難の様子を記録し若年寄 |
と目付に届けさせて帰邸。背中に二ヶ所(うち一ヶ所は深さ、長さ1寸)、頬に一ヶ所の |
傷を受けたが、桜田門外の変の再現には至らず、浪士6名はその場で討ち取られ、老中本 |
人の命に別条はなかった。安藤はこの後二ヶ月の静養に入るが、通訳を使者にイギリス公 |
使オールコックとの折衝を続け、自ら包帯姿で引見、オールコックはこれに感動し、開市 |
開港の期日延期に助力した。しかし回復して政務に戻ろうとすると大目付・目付衆の厳し |
い一斉反対にあう。背中の後ろ傷(敵から逃げる為の負傷)が武士道にもとるとする強硬 |
論、幕府官僚の主導権争いや経済問題の根深さもあり、安藤が米国のハリスと贈収賄を行 |
ったとか女性関係を暴露する事実無根の中傷が出回り、世間から「首はある、などと供方 |
自慢をし」(桜田門外と違い主君が命からがら生き残った事を安藤の供は自慢するだろう、 |
の意)「あんどう(行灯)を消してしまえば夜明け也」とまで強烈な揶揄を受ける。薩摩 |
の島津久光も安藤の復帰は「人心潰散、変乱の基」と反対。安藤は坂下門外の変の三ヶ月 |
後に老中を罷免され「勤役中不正の取り計らいこれあり」との罪で2万石の減録と永蟄居 |
の処分を受ける。内政外交とも多事多難な折、誰が頂点に立っても幕府擁護の立場からは |
限界があるのが当然で、酷評の矢面に立った安藤一人に罪を被せて現状を糊塗しようとす |
る幕府の犠牲になったともいえる。以後政治の現場に戻る事なく明治4年10月8日に53歳で |
没した。墓は東京都杉並区栖岸院。 |
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