江 戸 基 礎 知 識 録

暦と季節
日本の暦は、平安時代から明治六年までは陰暦(太陰太陽暦)であり、中国の暦をほぼ そのまま使用している。太陰は月の満ち欠け、太陽の運行は次に置くので、一年は十二ヶ月とは 限らず、一年も三百六十五〜六日とは限らない。 「伊勢暦」は江戸時代の代表的な暦で、伊勢国宇治や山田で発行され、伊勢神宮の御師 が年末になると神宮のお札と共に配る。折本で二百万部刷られたという。

年 号
年号は元禄五年、のように元号と数字をつける。しかし現代のように天皇の一世一元制 ではなく、天皇交代や陰陽道の慣例、災害、或いは理由なく宮中の発表によって元号は 変わるので、その情報伝達の不統一を補うためにも干支による年号の呼び方がある。
〔十干〕
甲(こう) 乙(おつ) 丙(へい) 丁(てい) 戊(ぼ) 己(き) 庚(こう) 辛(しん) 壬(じん) 癸(き)
これを「五行」…木(き)火(ひ)土(つち)金(か)水(みず)に二つずつ振り分け、 それぞれ陽の兄(え)、陰の弟(と)に当てて読む。
甲(きの・え) 乙(きの・と)   丙(ひの・え) 丁(ひの・と) 戊(つちの・え)己(つちの・と)  庚(かの・え) 辛(かの・と) 壬(みずの・え)癸(みずの・と)

〔十二支〕……子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥 (ね、うし、とら、う、たつ、み、うま、ひつじ、さる、とり、いぬ、ゐ)

この十干と十二支を組み合わせ甲子(きのえね)乙丑(きのとうし)丙午(ひのえうま) 等、六十種類の「干支」が出来、六十年で一巡すると還暦、本卦がえりといい目出度い ものとした。慶応四年の「戊辰戦争」等は、この干支の音読みからのものである。

月 日
陰暦の一ヶ月は、大の月が三十日、小の月が二十九日である。これは満月から満月の間 (朔望月)が、29.53日であることから。また、朔望月×12は354.36日になる。 よってこれらの調整をするために大の月、小の月を定め、三年に一度ほど閏月を設ける。 しかし、各月の大と小、閏月の有無はまちまちであり、その年の暦を見ない限り誰にも わからない。

旧暦の四季
現代と違い、立春の頃に新年が始まるので、暦通りに四季が分かれる。  春……一〜三月、夏……四〜六月、秋……七〜九月、冬……十〜十二月 年によって閏月が入ったりしてずれが生じるが、現代では春は三月頃からであるから、 昔の季節のほうが一ヶ月前後早く来る。 四月朔日(一日)と九月朔日が更衣(衣更え)の日と決まっており、一斉に夏物と冬物 に分かれる。

時 刻
江戸には時計というものは無きに等しく、市民は大らかに、日の出や日の入りに合わせ、 つまり朝と晩という自然の明るさに従い生活していた。照明代が高価だった為もある。 時間の単位は現代のような二十四時間制ではなく、当時は十二刻制である。 約二時間が一刻、約一時間が半刻、その半分の約三十分が四半刻。 それも日の長さによって変わる不定時法であり、最小単位は四半刻であったが、それで 不便はなかった。何時何分、という細かい単位が出来たのは、暦と同じ明治六年一月一 日からの事である。

十二刻
江戸時代の時刻は十二刻制で、十二支をあて深夜零時を「子の刻」として始まるが、 こちらの呼称は単純明快さに欠ける。 一般には、深夜零時を「夜九ツ」として、九・八・七・六・五・四とし、昼も同様に 正午を「昼九ツ」として九・八・七・六・五・四とし、中間の時刻を「半」とする。 なぜ9からかというと易学で宇宙の根源「陽」を表す数だからであり、それぞれ9の ×2、×3……として一の位のみを呼ぶからという。 下記の現代時刻は昼夜の長さが同じ春分、秋分の日に当てはまるが、日の出と日没の 間をそれぞれ六等分したので、夏は昼の一刻が長く、冬は夜の一刻が長くなる。
0 時 ……夜九ツ ……子の刻
1 時 ……九ツ半
2 時 ……夜八ツ ……丑の刻
3 時 ……八ツ半
4 時 ……暁七ツ ……寅の刻 ……旅行の朝立ち
5 時 ……七ツ半

〔日の出の30分前を明け六ツとする〕
6 時 ……明六ツ ……卯の刻 ……起床。町木戸、三十六見附の御門、商店が開く。
7 時 ……六ツ半 ……………………職人の出勤
8 時 ……朝五ツ ……辰の刻
9 時 ……五ツ半
10 時 ……昼四ツ ……巳の刻
11 時 ……四ツ半

12 時 ……昼九ツ ……午の刻
13 時 ……九ツ半
14 時 ……昼八ツ ……未の刻
15 時 ……八ツ半
16 時 ……夕七ツ ……申の刻 ……武家の夕食
17 時 ……七ツ半 ……………………職人の仕事じまい

〔日没の30分後を暮れ六ツとする〕
18 時 ……暮六ツ ……酉の刻 ……三十六見附の御門が閉じる
19 時 ……六ツ半
20 時 ……宵五ツ ……戌の刻 ……旗本屋敷の門限
21 時 ……五ツ半
22 時 ……夜四ツ ……亥の刻 ……町木戸が閉じる
23 時 ……四ツ半


時の鐘 番太郎
江戸の市民に時刻を知らせる「時の鐘」は明暦の大火前は日本橋石町のみ、その後は 上野や浅草など十一ヶ所に設けられた。まず注意を引くために捨て鐘といって三回、 その後に時刻の数だけ鳴らす。 また、町にはそれぞれ木戸が設けられており、夜四ツ(22時頃)には閉まるので、それ 以後は潜り戸からの出入りとなる。夜は「番太郎」「番太」と呼ばれる木戸番が拍子 木を打ちながら「七ツ半でござい」等と時刻を知らせながら町内を回った。

尺貫法
江戸時代の度量衡(計量の単位)は、明治八年にそれまでの規格を統一して尺貫 法と名づけられたが現在はメートル法に移行している。長さの単位である尺は 前腕の長さ、重さの単位である貫は銭貨千枚の重さ、であり日本の日常生活に 密着しているという点では便利であった。現代でも畳の広さを単位とするため 面積の単位「坪」は広く用いられている。 現代のメートル法の規制下にあっても、間取りを重視する木造建築では江戸の 住宅規格「1間」を基本単位としている。これは柱や梁に木材を使う経験から 生まれたもので、昔の日本人の身長であればほぼ6尺=1間で納まったからと いう合理性に基づく。ちなみに江戸時代を通じての平均身長は男が157.1cm、 女が145.6cmと推定されている。 中世以降に広まった畳の大きさ6尺×3尺が部屋の大きさを決める上での規準 となり、それに付随して襖、障子、箪笥、長持などの家具も畳に釣り合いのよ い数種類の大きさがあればよいことになる。この基本単位をモジュールという が、西洋建築でこの考え方が広まったのはようやく20世紀になってからであり、 江戸期の規格のほうが進んでいたことになる。 土地の測量には現代と同じような三角測量が用いられ、経緯儀で角度の測定と 標識間の実測による三角法で計算する。江戸中期以降は測量器具も進歩し、各 地で測量のやり直しが進んだ。

尺貫法と現代の単位
以下は明治8年に統一された時点での値である。( )内は読み方。

〔長さ〕
・1分=3mm  (ぶ)
・1寸=10分=3.03cm  (すん)
・1尺=10寸=30.3cm  (しゃく)
・1丈=10尺=3.03m   (じょう)

〔距離〕
・1尺=30.3cm
・1間=6尺=1.82m    (けん)
・1町=60間=109m   (ちょう)
・1里=36町=3.93km  (り)


〔面積〕
・1尺平方=0.09u
・1坪=6尺平方=3.3u     (つぼ)…1歩(ぶ)と同じ
・1畝=30坪=99u(0.9a)  (せ)
・1反=10畝=9.9a      (たん)…1段(だん)と同じ
・1町=10反=3000坪=99a  (ちょう)

〔重さ〕
・1匁=3.75g  (もんめ)
・1斤=160匁=600g  (きん)
・1貫=1000匁=3.75kg  (かん)

〔容積〕
・1勺=0.018リットル  (しゃく)
・1合=10勺=0.18リットル  (ごう)
・1升=10合=1.8リットル  (しょう)
・1斗=10升=18リットル   (と)
・1石=10斗=100升=0.18kl  (こく)


通貨
江戸時代は金貨、銀貨、銭貨の三貨が通用していたが、それぞれが独立してお り換算率は一定ではなく、たえず変動していた。 公的な換算率は金1両=銀50匁(元禄以降は60匁)=銭4貫文(4000枚)。 しかし実際には民間の時価相場で変わり、幕府が金貨の金含有量を下げると、 途端に交換率は悪くなる。 一般的に「関東の金遣い、上方の銀遣い」と言われ高額取引には東国では主に 金、西国では銀が使われたが、身分によっても貨幣の使用は違っており、上級 武士が金貨、下級武士と商人が銀貨、農民と町人が銭貨、に大体わかれる。 こうした三貨制度のため、江戸の町には両替商が多く、天秤で目方を量った。

〔金貨〕 計数貨幣
・1両=4分=16朱 ……一両小判
・1分=4朱 ………一分金
・1朱  ……一朱金

〔銀貨〕 秤量貨幣
・一朱銀、一分銀など金貨と同じような単位のものも中期以降に出たが、 重さも形もまちまちの丁銀(なまこ形)、豆板銀(丸)が主で、重量を秤で はかる。

 金一両あたりの銀相場
 ・寛永2年(公定)…60匁
 ・天明〜寛政………57〜58匁
 ・享和〜天保………64匁前後
 ・嘉永………………65〜66匁
 ・元治〜慶応………150匁前後

〔銭貨〕
・代表格は一文銭の寛永通宝で、寛永以後の鋳造でもこの名を使った。 他にも四文の寛永通宝、百文の天保通宝などがある。一貫文は「さし」と いう紐に一文銭を1000枚通して繋げたもの。

 金一両あたりの銭相場
 ・明暦の大火まで(公定)…4貫・4000文
 ・明和の末………5貫台
 ・寛政の末………6貫台
 ・文久……………8貫台
 ・慶応の末………10貫台



物価
江戸時代の物価が本格的に高騰を始めたのは幕府の権威が弱まってからで それまでは収入も低成長時代であり、例えば大工の手間賃が2倍になるの に、明暦3年から天保15年の185年間もかかっている。最も重要な物価は 米で、自由市場の変動価格によっており、飢饉の時などは一時的に激しく 上下し3倍に跳ね上がるという場合もあったが、米が出回るようになれば また元に戻るので、江戸期の大部分を通じては安定していた。その他の物 価も比較的安定しており、そば一杯が16文という値段は寛文8年から200年、 慶応に入って20文、24文と値上がりするまで変わらなかった。 銭湯の料金も天保頃までは概ね大人8文であったものが文久3年に12文、 慶応元年に16文。芋1升が天明や文化頃までは24文だったものが、天保年 間に32文、64文と上がり、幕末には100文を超えたという。物価に4の倍数 がつくのは明和5年(1768)に四文銭が新鋳され使いやすくて広まったため もある。

庶民の生活費
下記は文化文政期の上大工の生活費の一例である。

〔日当〕銀5匁4分(583文)……職人の賃金は固定相場で銀1匁=銭108文
  ただし、大火の後など急な需要の時には日当が10匁くらいに上がる。
〔実働〕年約354日(旧暦)のうち約295日(盆、正月、節句、雨の休業あり)
〔年収〕銀1貫587匁6分、約金26両半、一日に換算して日当約500文弱
〔年間の支出内訳〕 (本人、妻、子一人)
・ 米=3石5斗4升……銀354匁(金5両と銭5400文)
・ 家賃……銀120匁(金2両)
・ 調味料、副食、燃料……銀700匁(金11両と銭4000文)
・ 道具・家具類……銀120匁(金2両)
・ 衣類……銀120匁(金2両)
・ 親族知己の音信、冠婚葬祭費……銀100匁(金1両と銭4000文)
・ その他
〔支出合計〕銀1貫514匁(金25両と銭1400文)
〔残高〕銀73匁6分(金1両と銭1360文)

例のような上大工、左官などは比較的安定した収入を得られる中流の庶民 というところで、就業時間は日中で作業の合間に休憩が何度か入るため、 幕末の実測で4時間半と短い。他は鳶・仕事仕(上級)で日当300文、人足・ 仕事師280文。彼らの早出と居残りには増銭(時間外手当)がつく。 棒手振りの野菜売りで日当4〜500文というが増銭もなく商品にも原価がか かるため大工ほど豊かではない。

食費、副食費が最も大部分を占めるのでエンゲル係数は60〜70と高い。 燃料費は薪炭が主で灯油が高いので日照時間に合わせて生活する。 衣服は品物にもよるが新調すると高価なため庶民は古着を多用する。 江戸の住民の7割ほどが長屋などの借家住まいであったが、月々の家賃は 中心地の日本橋などは高く銀13〜16匁の二階つきの借家等もあり、四畳半 2室なら銀10匁程度。日本橋から2キロほど離れると九尺二間の裏長屋が 増え四畳半土間兼台所で500文、月数日の日当で借りられた。 教育費は寺子屋の多くが有識者のボランティアで、専業で謝礼をとる者も いたが、教科書は概ね寺子屋の備品で来た子供に貸していた。

武家と公家の法度
江戸幕府は家康から家光までの初期三代将軍の頃、下記のように武家諸 法度と公家諸法度を制定し幕府に対抗しうる支配階級「武士」と「朝廷」 の勢力を抑える基本方針を固めた。この決まりに反して諸大名の改易、 減封などが相次ぎ、多数出た浪人の反発があったが、体制を強化した幕 府による鎮圧が成功し、その後長く戦乱のない泰平の世を得られたとも いえる。武家諸法度に著された文武両道や法の遵守、といった精神は、 武士が当然守るべき理念として、幕府に忠実であった会津藩の家訓や、 幕末の新選組の法度などに色濃く反映されている。「武士道」はいわば 幕府に都合のよいように定められた武家諸法度を発祥として、江戸期に 作り出されたもの、といえよう。
大名に対しては参勤交代を義務づけ、領地に長くとどまれないようにし、 江戸との往来で莫大な出費と労力を消費させ、また城の新築修繕、婚姻、 関所や津留(海の関所)の設置、大きな軍事輸送力を持つ大船建造、など を無断で行う事を禁止、幕府に反乱を起こす力を蓄えることを封じた。
朝廷、公家に対しては、「天皇は学問最優先」とし、官位を交付する権 限を抑え、朝廷が幕府を無視して独自の権威を示すことが出来なくした。
しかし、武家、公家の諸法度とも幕末に至ると守られなくなり、幕府は 諸藩と朝廷を制圧しきれず、再び浪人層の活動激化も現れる。

<元和令>(抜粋)……慶長20年(元和元年)7月

一、文武弓馬の道、専ら相嗜むべき事。
 文を左にし武を右にするは古の法なり。兼備せざるべからず。(略)
一、群飲佚遊を制すべき事。
令条載する所、厳制殊に重し。好色に耽り博奕を業とす。是亡国の基なり。
一、法度に背くの輩、国々に隠し置くべからざる事。
 法は是れ礼節の本なり(略)法に背くの類、其の科軽からず。
(二条略)
一、諸国の居城、修補をなすといへども必ず言上すべし。況や新儀の構営、
かたく停止せしむる事(略)
一、隣国において新儀をくわだて徒党を結ぶ者これあらば早く言上致すべ き事(略)
一、ひそかに婚姻を結ぶべからざる事(略)
一、諸大名参覲作法の事(略)
(二条略)
一、諸国諸侍、倹約を用ひらるべき事(略)
一、国主は政務の器用をえらぶべき事(略)


<寛永令>(抜粋)……寛永12年6月21日
一、大名小名、在と江戸との交替を相定むる所なり。毎歳夏四月中参勤致 すべし。従者の員数近来甚だ多し。且つは国の費え、且つは人民の労なり。 向後其の相応を以って之を減少すべし(略)  (第2条)
一、私の関所、新法の津留、制禁の事。(第16条)
一、五百石以上の船停止の事。(第17条)
一、万事江戸の法度の如く、国々所々に於て、之を遵行すべき事。(第19条)

右の条々、当家先制の旨に准じ、今度潤色して之を定めおわんぬ。 堅く相守るべきものなり。


<禁中並公家諸法度>………元和元年7月
一、天子御芸能の事。第一御学門也。(略)
一、摂家たりといえども、その器用無き者、三公摂関に任ぜられるべから ず。況やその外をや。
一、武家の官位は公家当官の外たるべき事。
一、紫衣の寺住持職、先規希有の事也。近年みだりに勅許の事、且は搦 を乱し、且は官寺を汚す。甚だ然るべからず。向後においては、その器用 を撰び、戒搗叶Tみ、智者の聞こえあらば入院の儀申沙汰あるべき事。


幕府の職制
幕府の構成は徳川家直属の親藩、譜代大名、旗本、御家人から成り立ち、 外様大名は排除され口出しも出来ない。 現在の内閣にあたるのが老中・若年寄で、次は三奉行(寺社・町・勘定)。 この三職で構成される「評定所」が最高裁判所になる。


                [  ]は採用資格
・将  軍
 ↓  ↓
 ↓ ・側用人……将軍側近の最高職。将軍と老中の取次。常置ではない。
 ↓
・大  老……幕府の最高職。定員1名。常置ではない。
  ↓
  ↓
・老  中……幕政全般を統括。定員4〜5[高禄の譜代大名]
・若 年 寄……主として旗本、御家人を統括。定員ほぼ4[小禄の譜代大名]
・寺社奉行……全国の寺社を統括。定員4〜5[譜代大名]


(老中)
 ↓
・御側衆……将軍の側近。交代で宿直。定員5〜8[大身旗本]
・大目付……幕政の監察と大名の監視。定員4〜5[旗本]
・町奉行……江戸の市政を統括。月番交代制で定員2[旗本]
・勘定奉行……幕府直轄の民政を統括。幕府の金銭出納。定員4[旗本]


(若年寄)
 ↓
・目 付……旗本、御家人の監察。江戸城内の巡検。定員10[旗本]
・火付盗賊改……市中巡回と犯罪撲滅。定員不定、常置ではない。[旗本]


町奉行
単に「町奉行」とは江戸の町奉行を指し、優秀な旗本から選出した。役料 は3000石で江戸市中の行政全般を担当する激務。 だが、同じ江戸でも寺社地は寺社奉行、武家地は大目付と若年寄、江戸近 郊(御府内の外)は勘定奉行の管轄となる。 幕府は京都、大坂、堺など主要な直轄都市には奉行を置いたが、その場合 は「京都町奉行」「大坂町奉行」と地名を冠して区別する。 町奉行は江戸の町と町人に関わる行政、司法、立法、警察、消防すべてを 監督し、奉行所に役宅があり、任期中はそこに住んで二六時(12刻)緊急 に臨む態勢。任期はなく、1年で辞めさせられる場合もあれば死ぬまで勤 めた者もある。最も手腕をふるったのは大岡越前守忠相で、町奉行から晩 年大名に昇格したのは彼一人である。 町奉行所が取り扱った裁判件数は享保4年に民事・刑事合わせて1日平均 35件、年34,053件、うち受理26,070件。犯罪統計は明らかではないが、幕 末には御仕置(実刑)を受けた刑事犯が年間推定2500人とされる。

南と北の奉行所
町奉行所は2ヶ所にあり、俗称として南町奉行所と北町奉行所と呼ばれる。 2人の町奉行が南と北に位置する別な役所を持ち、1ヶ月交替の月番勤務 をしたため区別したのであり、管轄区域を南北に二分したわけではない。 町奉行所は一般的には「御番所(ごばんしょ)」と呼ばれ、文化3年以後 は数寄屋橋門内と呉服橋門内の南北にあり、それぞれ2500坪ほどで、表が 役所、裏が役宅であった。 南北の両奉行が1ヶ月毎の「月番」「非番」を繰り返すが、月番の時に受 理した事件は継続して担当する。従って、町民は訴え出る時にどちらの奉 行所にするか選ぶ事もできる。

江戸の町政
大江戸八百八町、と呼ばれる町を支配する行政機関といえば町奉行所しか ない。50〜60万人もの町人に対して、奉行所の役人は、幕末の最多の時で 南北あわせて350人ほど。両奉行所とも与力25騎、同心120人が定員である。 町奉行所は市政の司令部として要所を抑える役割を果たし、あとは警察、 行政すべてに敷かれている民間の自治制に任せる、というピラミッド型の 民政組織であった。その代わり、家康の命令通り市街地は地子(地代)免 除とした。町奉行の触れは町年寄→町名主→月行事→家主→店子の順で伝 えられる。

・町年寄……町役人の頂点。開府以来「樽屋・奈良屋・喜多村」3家世襲。
・町名主……数町〜10数町に一人。
・家 主(地主代理人)……五人組を構成する。毎月交替で月行事を定め、
              公用・町用を勤める。


自身番と木戸番
〔自身番〕
各町内の警備のために設けられた番所で、町内の寄合相談の場でもある。 常時3〜5名が詰め、交代で町内を廻り、公用、火の番、雑務を処理した。 そのため、纏や鳶口などの消火用具や、突棒などの捕り物道具も置かれ、 不審者を捕らえて訊問したり、犯罪の容疑者を拘留したりする。
〔木戸番〕
町の出入口には町内警備のため木戸が設けられ、その脇には番所が置かれ 番太郎または番太と呼ばれる住み込みの番人が2人いた。町内からの給金 では少ないため、駄菓子や蝋燭他の雑貨、夏は金魚、冬は焼芋などを売り 副業としていたため「商番屋」とも呼ばれる。

捕り物
大正6年発表の岡本綺堂作「半七捕物帳」という小説以来、現代では「捕 物帳」と書かれることが多いが、町奉行所の公文書の題は「捕者帳」であ り、取り扱った中で殺人や強盗など主要な刑事事件の報告書として、当番 与力から町奉行に提出されたもの。 江戸の町家地では自身番と木戸番、武家地では辻番と自警施設が数多く設 けられていたので、幕末を除けば治安は平和であった。凶悪犯の捕り物と なると両奉行所から与力各1人、同心各2人が小者、中間を率いて出動し 月番が表、非番が裏から討ち入り、与力の指示で同心以下が召し捕るが、 立ち回りの場になる事はまれ。捕り物道具としては先がT字型の「突棒」、 鉤がいくつか重なる「袖がらみ」、U字型の「刺又」が番所の三つ道具と 呼ばれいずれも鉄製の先端に何十本かの針と、3メートルほどの樫の長柄 がつき、どの自身番にも用意されていた。

与力、同心、岡っ引き
町奉行所の与力、同心は八丁堀に住み、加増も栄転も全くない。罪人を扱 うので不浄役人と呼ばれ、一般の旗本・御家人と交際する事もまれだった ので、縁組は役所内の関係に頼ることが多く、幕末までには殆どの与力・ 同心が姻戚関係になっていたという。凶悪犯罪は年に多くて数件、で現代 の警察よりはずっとのどかな職場であった。

〔与力〕
町奉行の配下。禄高200石の武士で一代限りの抱席だが実際は世襲。手柄 をたてても出世することはない。八丁堀役宅に住む。本来の家格からする と将軍に拝謁できるはずなのだが、江戸城登城も出来ないなど、他の武士 からは差別されたが、下町に住み、町家等から役得があるので実際には禄 高より10倍以上の副収入があったといわれるほど懐は豊かで、世情や遊び にも通じており、言葉も町方風、身なりも洒脱で江戸っ子からは親しまれ た。与力は他の旗本のように殿様とは呼ばず旦那と呼ぶが、与力の妻は奥 様と呼ぶので「奥様あって殿様なし」と八丁堀独特の習慣に数えられる。 「火消しの頭、力士、与力」を江戸の三男と呼んだ。羽織姿は江戸後期の ものでそれまでは継裃。

〔同心〕
30俵2人扶持の武士でこれも抱席だが実際は世襲。与力1人に2人ほどつ く部下。同じく八丁堀に住む。第一線に立つ下積み役人。捕り物は三廻同 心の役目で密偵役の「隠密廻」(南北とも3名)、巡回・捕縛役の「定廻」 (6名)、その応援役の「臨時廻」(6名)。 同心が捕り物に出役する時は麻裏の鎖帷子を着込み、上に半切れ胴衣、下 に武士用の股引、紺足袋に草鞋、白の胴締め、白タスキ、白の向こう鉢巻 といった姿。手に持つ十手は1尺8寸(55cm)の実戦用、捕縄は逮捕用の 早縄で長さ4メートル弱。

〔小者〕
同心1人につき2、3人で、同心宅に住む奉公人。十手を持つ手伝い人。

〔手先〕
江戸で岡っ引きと言われる。他に目明し、御用聞きとも。同心から手札と いう証明書をもらった民間の協力者で本業は何らかの商売を営んでいる。 お上の御用にからむ役得目当ての者が多く、時代劇に描かれるほどの正義 の味方として親しまれたわけではない。

〔手下〕
下っ引き。岡っ引きの子分で、密偵をする行商人等。


お白洲
捕り物の中心は廻り方同心だが、取調べになると吟味与力の仕事である。 町奉行所での民事裁判は双方を呼び出して紛争の経緯を調べ、なるべく裁 判にはせず、どちらにも無理のないような和解をはかった。しかし、刑事 裁判となると吟味与力が何回もの取り調べで犯人に自白させ、口書(こうしょ) を作り爪印を押させる。自白第一主義であるから口を割るまでは拷問にか けてでも認めさせる。奉行所の拷問には次の四種類がある。
・むち打ち……箒尻(拷問杖)で肩を叩く。
・石抱き……真木という三角形の材木五本の上に座らせ石板五枚を乗せる。
・海老責め……拷問蔵で背中を折り曲げ頭と足をひとくくりにする。
・釣し責め……拷問蔵で両手を背後で縛り天井の梁に釣り下げる。
取り調べの結果、吟味与力の作成した調書に基づいて、人定尋問と判決言 い渡し「落着」を行うのが町奉行である。追放以下の刑であれば即決でただ ちに実行される。遠島以上の刑は老中へ書類を提出して同意を得なければ ならない。蹲踞(つくばい)同心を背後にして、庶民の被疑者が座る庭には 白い砂利が敷かれており、お白洲と呼ばれた。

牢屋敷
江戸には日本橋繁華街の真ん中に、幕府最大の小伝馬町牢屋敷があった。 これは未決囚を収容しておくための現代でいえば拘置所にあたり、懲役刑 がないので刑務所ではない。裁判は比較的早く、長くても半年ほどで判決 が下り刑に処せられる。牢屋敷は2700坪ほどの広さがあり、その一角には 世襲の牢奉行・石出帯刀の屋敷があり、同心50人、下男(しもおとこ)38人 が囚人の監視にあたる。牢屋敷の練塀は約8尺の高さで内側にしのび返し がついており、表と裏に幅6尺、深さ7尺の堀をめぐらせ逃亡を防いだ。 牢と中庭をへだてて番所という見張り所もある。敷地内には死刑場、拷問 蔵、取り調べ用の穿鑿所(せんさくじょ)があり、小伝馬町の牢屋敷には、 町奉行所からの囚人の他、寺社奉行、勘定奉行、火附盗賊改役の管轄から も囚人が送られ、江戸後期には300〜400人程度が拘禁されていたというが、 慶長から明治まで一度も牢破りはなかった。牢にも何種類かあり、大牢、 女牢、百姓牢、無宿牢などに分かれているが、武士・僧侶・神職は「揚座 敷」「揚屋」に入れられ別扱いで、大名や500石以上の旗本は大名などに 預けられるので、犯罪を犯しても牢屋敷に来ることはない。牢内は自治制 で、牢役人と称する11人の組織があり、一番偉い「牢名主」は畳10枚を重 ねた「見張り畳」の上に座って牢内を取り仕切る。新入りが来ると、牢役 人たちが裸にしてキメ板で尻を叩き、牢名主の前に引き据え獄入りの儀式 を行った。しかし金銀をうまく持ち込めば地獄の沙汰も金次第、とばかり その後の扱いにも手心が加えられる。病人のみは「溜」という牢が品川と 浅草にあり、ここも牢屋敷の所轄で、死人が出れば検死に向かう。

刑罰
江戸幕府成立以前、戦国時代の刑罰は残忍で、磔、逆さ磔、串刺し、鋸挽 き、牛裂き、車裂き、火焙り、釜煎り、簀巻き等の死刑と、指切り、手切 り、鼻そぎ、身そぎなどの身体刑があった。江戸時代に入ってもこうした 刑罰は不文律として続いたが、8代将軍吉宗の寛保2年(1742)に「御定 書百箇条」が編纂され、初めて刑法らしきものが成立した。内容は民法・ 刑法と罰とが整理して書かれており、土地、証文、用水、盗賊、関所、人 別、賄賂、質物、廻船、殺人、男女関係、火事など庶民にも関係のある事 柄であった。この御定書百箇条は関係者以外が見ることは禁じられ、吟味 与力でも一覧する時は町奉行へ誓詞を提出して借用した。が、門外不出の はずが天保12年「青標紙」という出版物に収録され広く知られてしまった。 ここに定められた公権力による刑罰には下記のような種類がある。

〔正刑〕
 呵責(しかり)・押込・敲(たたき)・追放・遠島・死刑(6種)
〔属刑〕罪状によって正刑に追加されるもの
 晒し・入墨・闕所・非人手下
〔閏刑〕特定の身分の者だけが課せられるもの
・武士……逼塞・閉門・蟄居・改易・預・切腹・斬罪
・僧侶……構・追院・晒
・一般庶民……過料・閉戸(とじこめ)・手鎖
・婦人……剃髪・奴(奴婢にされる刑)

入墨は左腕に入れられる前科者の印で、江戸・大坂・京・堺など、土地に よって文様が異なり、隠すのを防ぐ為、腕までの彫り物(刺青)は禁止した。 手鎖は瓢箪形をした鉄制の手錠で、何日もつけたまま生活しなくてはなら ない。晒は僧侶への刑で寺社奉行が課すが、日本橋南詰の晒場に罪状を記 した札の側で三日間晒してから本寺へ引き渡す。女犯僧などが処せられ、 僧侶としては最高の刑罰にあたる。
以上の公的刑罰の他、民間ではもっと手っ取りばやい私的制裁があり江戸 では晒を真似た棒縛りが目立つ。曲者を裸にして十字形の棒の先に証拠品 をぶら下げて縛り付け町中を引き回す。座頭やばくち打ちの間では簀巻き といい、簀で巻いた上から縛りつけ川に落とす。石をくくりつける場合も あった。遊女は梁に吊るされ、着物で隠れる部分を遣手が短刀で傷つける 等の折檻をされた。

処刑場
死刑には下記のように軽いものから6種類ある。
@下手人
  斬首。埋葬が許される。
A死罪   斬首。死体は試し斬りにされ、弔う事は出来ない。
B火罪   火焙り。放火犯に限る。
C獄門
  斬首。斬られた首は小塚原か鈴ヶ森の刑場に3日間晒される。
D磔
  十字形で長さ2間の柱に罪人を寝かせて縛り、柱を起こして
  3尺ほど埋め、穂先の長い槍で30回突いて殺す。処刑後3日間晒す。
E鋸挽
  反逆罪に適用の極刑。引廻し後2日間晒し、鋸挽にして刑場で磔。

火罪や磔の処刑前には見せしめの為、裸馬に乗せて市中引廻しが行われる。 死刑の執行場所は斬首が牢屋敷内の首斬場。獄門、磔は小塚原か鈴ヶ森の 刑場、鋸挽は日本橋の晒場と刑場。武士の死刑ではいずれも首は斬られる が、種類は切腹と斬罪で、斬罪のほうが重罪。切腹が牢屋敷切腹場、斬罪 は小塚原。斬首刑は全て牢屋敷内で執行される。俗説では首を打つのは山 田浅右衛門とされるが、実際は町奉行所の同心が罪人に名前と年齢を尋ね 首をはねる。獄門(晒し首)の場合は首を俵に入れ刑場へ運ぶ。それ以外の 場合は首を抱かせて俵詰めにし、夜になってから死体を運び出させる。死 者が着ていた衣類は非人の役得になる。

首斬り浅右衛門
「首斬り浅右衛門」といえば、幕府御用物奉行御用という役職で、「御試」 といい刀剣の切れ味を試すために囚人の首を斬るのでそう呼ばれ、平川町 に住む山田浅右衛門家では死者の亡霊を防ぐ為に夜どおし必要のない部屋 にも灯がともっていた。山田家からは労咳の妙薬・浅山丸という家伝の丸 薬が発売され、刑死者の脳や肝を裏手の納屋の天井に干して製造したとい われている。「泥棒の肝っ玉で食ふ浅右衛門」「浅右衛門 肝をつぶして 銭をとり」等と川柳にまで取り上げられるほど広く知られた売薬で、何ら かの薬効はあったのかもしれないが、値段はかなり高かったようである。

火盗改と義賊
江戸時代も末に近くなると世情が不安定になり、ペリーの浦賀来航後、 開国問題をめぐっての政治の紛糾、安政2年の大地震による江戸の甚大な 被害の後、かつて大名屋敷ばかりを荒らした「鼠小僧次郎吉」が芝居化さ れ人気を博した。これを草分けに義賊を主人公とする「白浪物」が芝居・ 講談・小説の分野で次々と生まれ、こうした風潮のためか犯罪も多発、 町奉行所では取り締まれない武士や僧侶の犯罪者も摘発する火附盗賊改 (加役)が以前に増して重要視される不安な世となった。火附盗賊改とし て有名なのは幕末以前の鬼平こと長谷川平蔵であるが、この役は配下に専 属の同心・与力を抱え自宅に牢を持ち、吟味や裁決も自ら処理し、伝馬町 牢屋敷へ送る事も出来る。取締りには容赦がなく手荒だったという。

江戸の町で有名になった盗賊(一人で働く盗賊を小僧と称する)には、鼠 小僧の他にも稲葉小僧、田舎小僧、葵小僧など色々な逸話の持ち主がいる が、鼠小僧次郎吉は天保3年(1832)に鈴ヶ森で獄門にかけられ、小塚原 回向院と両国回向院の2つに墓があり、往年の人気が偲ばれる。次郎吉は 捕まる前の10年間に大名や旗本の屋敷専門に忍び込み、100回余りでおよそ 12000両の大金を盗んだ、と具体的に白状したが、被害者の武家からは恥を 怖れて1件も盗難届けが出されなかった。武家屋敷は外見は厳重でも、男 子禁制の奥向等があり最も侵入しやすかったというのが実際の理由である。 次郎吉は女房や妾に離縁状を渡しておき、発覚に備えていたというが、盗 んだ金は自分で使い果たし、困窮する庶民に小判をばらまいた等というの は嘘である。彼の実録と稲葉小僧の話を取り混ぜて義賊に仕立て上げ、白 浪物を得意とする講釈師・松林伯円が高座にかけ、河竹黙阿弥が歌舞伎 「鼠小紋東君新形」にして安政4年に市川小団次が主演し、同時に合巻が 同じ題名で出版され、不甲斐ない武士に一泡ふかせた庶民の味方・鼠小僧 のブームを起こしたのである。


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