薩摩藩主後見人 |
文化14年10月24日、薩摩藩主島津斉興の第三子として生まれる。名は普之進、 |
又次郎、三郎。斉彬の異母弟である。母は、お由羅騒動で知られる、江戸の三 |
田四国町の大工の娘から斉興の愛妾となったお由羅。斉興がお由羅への執 |
着から、嫡出子斉彬ではなく、久光に家督を譲ろうとしたためにおきた藩内の |
対立から、斉彬の反対派に担がれて斉彬派に憎まれたが、斉彬自身は、久光 |
の器量を十分に認めており、安政五年に急死した斉彬の遺命により、久光の子 |
茂久(忠義)を藩主とし、久光はその後見人となって「国父」の尊称を受けた。 |
安政6年9月には斉興も死去し、久光は藩の主権を握った。久光は保守的で |
はあったが、小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通ら尊攘派を取り立てた。 |
文久2年3月16日、久光は江戸上屋敷新築を理由に、一千余の兵を率いて |
鹿児島を出発した。尊攘派志士は、倒幕につながると喜んだが、久光には倒 |
幕の意志はなく、安政の大獄で動きのとれない松平春嶽や一橋慶喜に幕政を |
ゆだね、朝廷から佐幕派を駆逐して改めて公武合体策を進めた。 |
鹿児島出発前に久光は西郷に下関待機を命じていたが、西郷は勝手に上洛し |
浪士の間を走り回っていたため、浪士を煽動していると疑われ、強制帰還さ |
れてしまった。そのため京、大坂では過激派の動きが激しくなり、九条関白 |
と京都所司代酒井忠義を殺す計画がねられた。久光は4月10日に大坂に着き |
14日には京に入った。4月23日夜、過激派の有馬新七、橋口荘介、森 |
山新五左衛門たちは、田中河内介、真木和泉らと呼応し、襲撃のために伏見 |
寺田屋に入った。久光は浪士鎮撫の勅錠を受けており、自藩から反乱者を出 |
さないために、この計画を知るや、奈良原喜八郎、大山綱良ら八名を差し向 |
け、有馬ら中心人物八名を斬殺させた。これが「寺田屋騒動」である。 |
過激派の鎮圧をした久光は、勅使大原重徳とともに江戸へ行き、一橋慶喜を |
将軍後見職に松平春嶽を政治総裁に付かせた。帰途8月21日、東海道を |
行く久光の行列にイギリス人貿易商人レノックス.リチャードソンら四人の |
英国人が相州生麦で遭遇し、大名行列を乱したとの理由で当番供頭、奈良原 |
喜左衛門がリチャードソンに斬りつけ、別の者がとどめを刺した。久光は、 |
脱走者の仕業と届け、対応せず、閏8月6日京に帰着。同9日、無位無冠の |
異例の参朝昇殿し、23日帰国した。 |
文久3年3月、再入京したが、京では長州人の人気が高まっており、久光の |
公武合体策の入り込む余地はなく、三日滞在で帰国した。 |
文久3年7月の薩英戦争で攘夷を実戦した久光は10月3日、三度目の入京。 |
相国寺の隣地に落成した二本松藩邸に落ち着く。8月18日の政変で、長州 |
は禁裏から追放されており、元治元年四月までの滞在中、叙位任官を果たす。 |
慶応2年、薩摩と長州は軍事同盟を結び、久光は四度目の入京。翌慶応4年 |
1月、錦旗を掲げた薩長の在京兵力が鳥羽伏見で幕軍を敗り、戊辰戦争の始 |
まりとなる。 |
維新後は西郷、大久保を憎み、鹿児島に引きこもったといわれる。明治7年、 |
左大臣となるが、その唱える征韓論が入れられず、帰国。隠居生活をおくる。 |
明治になっても丁髷を切らず、欧化思想を嫌い、漢方医にしか脈を取らせな |
かったといわれている。 |
明治20年12月6日没。享年七十一才。国葬の礼を賜る。 |
墓所は、鹿児島市福昌寺。 |
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