幕臣、蝦夷共和国歩兵頭並 |
天保15年(又は14年、弘化元年とも)、心形刀流8代目伊庭秀業の嫡男に生まれ、称を初め |
八郎治、諱を秀頴。父秀業は老中水野越前守忠邦の推挙によって御留守居与力に取り立て |
られた直参旗本だが、八郎が赤子の頃、水野の失脚で職を辞し35歳で隠居。弘化2年養子 |
秀俊を迎え9代目家督を継がせる。安政3年の幕府講武所創設の折には秀業は指南役拝命 |
を辞退、秀俊を推挙し出仕させた。心形刀流伊庭秀業の練武館は北辰一刀流千葉周作の玄 |
武館、神道無念流斎藤弥九郎の練兵館、鏡心明智流桃井春蔵の士学館と共に江戸四大道場 |
と謳われたが同5年秀業が死没、実子八郎は若年の為九代秀俊の養子となる。つまり実父 |
が義理の祖父にも当たるという系譜である。八郎は実父、養父の薫陶を受けつつ幼少より |
儒家長谷部旅翁に素読、市河米庵に書を学び、練塀町の宮崎塾に漢籍を修め、講武所へ入 |
り、剣の腕では「伊庭の小天狗」と呼ばれる文武両道の青年に成長した。 |
元治元年、養父秀俊と共に将軍上洛に随従した八郎は、講武所剣術方、次いで奥詰として |
以後もしばしば14代将軍家茂警護に従い、年代の近い若き将軍から信頼を寄せられ、褒詞 |
を賜っている。石高300俵10人扶持という下士であっても、将軍を守る大任と名誉に預かる |
という直参の誇りは大きな励みにもなり、後年15代慶喜の恭順後も徹底抗戦に出た行動に |
影響を与えたのであろう。上洛中の八郎は任務の合い間には名所旧跡を散策して鰻や鴨に |
舌鼓を打ち、想いを寄せる人へ扇の土産を買う等、束の間の幸福な日々を過ごしたと伝わ |
るが、池田屋事変の混乱で江戸への帰途を急いだとされている。 |
幕府は長州再征後の慶応2年秋に軍政を改革し、10月22日奥詰槍術隊、講武所詰等を銃隊 |
に編成して遊撃隊と称し11月18日の陸軍所合併をもって講武所を閉鎖した。慶応4年1月 |
3日開戦の鳥羽伏見の戦において、八郎は遊撃隊として出陣、甲冑の上から胸に被弾した |
が奇跡的な軽傷で助かっている。江戸に戻って後、4月11日の江戸開城と共に八郎ら遊撃 |
隊士36人が脱走。榎本武揚の艦隊に投じたが、榎本は幕府の構想の下脱走を思いとどまっ |
た為に袂を分かち、木更津に上陸。上総請西藩主林昌之助忠崇に佐幕を説き、新生遊撃隊 |
を結成。200余名を率いて相模国真鶴に上陸。5月17日上野彰義隊が新政府軍と戦火を交え |
たという報を受けた遊撃隊は沼津に至り官軍の後方を衝こうとして一時は箱根の関を占拠 |
したが、箱根山崎の戦闘中、八郎は湯本三枚橋で左手に重傷を受け敗退。左手首が半ばぶ |
らぶらしており手当の者が処置に困ると、麻酔も無しに切り落として声も上げなかったと |
いい、熱海より海路品川沖の病院船の旭丸へ向かったと伝わる。この重傷によって八郎は |
戦線を離脱せざるを得なかったが、8月19日旧幕艦隊北走の折、美加保に乗艦。しかし銚 |
子黒生浦で遭難、上陸後は上総中島に潜伏。この頃すでに会津は落ち、八郎は又も旧幕軍 |
を追うべく11月25日横浜を出航し、箱館に到着。榎本武揚の旧幕脱走軍に参加した。その |
後12月3日に箱館を立ち、松前駐屯中の遊撃隊に合流し、旧幕軍蝦夷地政権の歩兵頭並と |
なる。元号は明治となり、江戸は東京と改称したが、旧幕府将兵は尚も抗戦を続けていた。 |
翌明治2年春を待って新政府軍は蝦夷共和国掃討の為襲来。4月17日、海陸官軍の猛攻に |
より松前が陥落。折戸台場に殿軍(しんがり)の遊撃隊は隊長岡田、頭取本山以下多くの犠 |
牲者を出す。翌日より隊は札刈、次いで木古内へ転陣、乙部上陸後、上ノ国から間道を進 |
んだ官軍の一軍は、4月20日早朝大挙して木古内を攻撃。これに対し遊撃隊、額兵隊を中 |
心とする脱走軍は激戦の末敗走する。この戦いで八郎は胸部に敵弾を受け重傷を負い、泉 |
澤より小舟で箱館へ送られ、病臥していた。5月11日遂に箱館総攻撃を迎え、陸軍では歴 |
戦の勇将土方歳三が戦死し、海軍も破れ、榎本軍の敗色は決定的となり、後は恭順か自決 |
かという決断を迫られるのみとなった。一説には榎本自ら重篤の八郎の病室を訪れ、「我々 |
もすぐに行くから貴公は一足先に行ってくれ」と一杯の毒を入れた茶碗を差し出すと、八郎 |
は笑って綺麗に飲み干し、間もなく眠るように息を引き取ったという。 |
時に5月12日、享年27歳。 |
明治34年6月14日、八郎の弟伊庭想太郎が紋付の羽織袴姿で東京市庁に現れ、元逓信大臣 |
で東京市政の実力者であり疑獄事件にも名を連ねた星亨を所持した剣によって刺殺。想太 |
郎は徳川育英会の幹事でもあり東京農学校校長を務めた程の教育者であったが、「星氏の |
行為は実にこの江戸主義に反し、許すべからざるものと信じたれば、江戸の士風を改むる |
にしかず」と供述している。「隻腕の美剣士」八郎を生んだ伊庭家の剛直な血筋を物語る |
後日談である。 |
八郎の墓は東京都中野区沼袋の貞源寺にあり、法名秀穎院清誉是一居士。 |
The music produced byふみふみさん