徳川家茂 
 とくがわ いえもち 

十四代将軍
 
  弘化3年閏5月24日、紀州藩主斉順の長子として江戸赤坂の紀尾井坂藩邸に生まれるが実  

  父は既に亡くなっていた。幼名菊千代。翌年新藩主斉彊の養子となり、嘉永2年に4歳で紀州  

  55万石の13代藩主となり半年後に元服、時の将軍家慶に一字を与えられて慶福(よしとみ)  

  と改名した。少年藩主として文武共に日課を立てて研鑚、特に歌道に精進した。しかし、  

  嘉永6年6月のペリー来航を契機として対外的な危機感が高まり、13代将軍家定が病弱で  

  実子もないまま後継者問題が浮上する。一方は幼少であっても徳川家康以来の正統な血筋  

  を理由に紀州慶福を押す大老井伊直助ら幕府主流派(南紀派)であり、もう一方は既に成  

  人し英明で名高い一橋慶喜こそ国難の時の将軍として相応しいと推す、松平春嶽、島津斉  

  彬、川路聖謨ら、幕府中枢には参画していなかった親藩、外様大名、中堅官僚の一橋派で  

  ある。慶喜は水戸藩主斉昭の子であり、攘夷開国を巡る政治的対立の中、大老井伊の強権  

  によって弱冠13歳の慶福が次代の将軍に決定、14代将軍家茂となる。後見人をつけての就  

  任であったが、家茂は井伊に信任を寄せた。しかし、日米修好通商条約や将軍継嗣問題を  

  巡り安政の大獄、これに反動した万延元年の桜田門外の変によって大老井伊が暗殺される  

  に及び、幕府は弱体ぶりを露呈していた。老中安藤信正、久世広周らは、朝廷との結びつ  

  きを強める事で幕府の権威を回復させる為、前代未聞の事ながら将軍家茂の正室に現天皇  

  孝明帝の妹、和宮内親王を選び公武合体をはかる。既に有栖川宮という婚約者もある和宮  

  の強い拒絶にあい交渉は再三に及んだが、遂に「幕府が攘夷を行う」という条件を呑む事  

  で婚姻が認められ、大規模な江戸降嫁が行われ、家茂は文久2年2月江戸城に於いて和宮  

  との婚儀を終えた。文字通りの政略結婚ではあったが、共に十代という若い夫妻であり、  

  家茂の思わぬ優しい人柄によって和宮は救われる。同年7月には朝廷の意向を汲んで、家  

  茂は将軍後後見職に一橋慶喜、政治総裁職には松平春嶽を任命。翌3年3月には、将軍上  

  洛は229年ぶりという異例の事が実現し、家茂自身が京都に上り、公武合体の実を推進する  

  事になる。京での家茂は孝明天皇に従い、賀茂神社に攘夷祈願に向かうが、この際家茂の  

  立場は天皇の家来同等に過ぎず、朝廷の権威の高まりと幕府権威の失墜を世間の目にさら  

  すことになる。さらに長州系の攘夷勢力の画策によって5月10日を攘夷期限とされ苦境に  

  立たされる。この後家茂は大坂へ行き、4月23日、勝海舟の乗る幕府軍艦、順動丸で摂津  

  近海を巡視し、海舟から神戸海軍操練所の創設の必要性を求められ、即断で実行の命令を  

  出している。8月18日の禁門の変により5月の攘夷期限は免れたが、将軍家茂自身の上洛  

  は三度に及び、後見職の慶喜への将軍譲渡を思いつめる程に苦悩の多い在任であった。慶  

  応元年5月、第一次長州征伐の後で長州処分を自ら行うべく江戸を発し、宮中に参代後は  

  大坂城に入って、翌2年には長州処分案を決定したが、長州がこれを拒否、第二次征長が  

  始まったが幕府は苦戦を強いられる。若年ながら誠実に勤めを果たそうとした家茂は咽喉、  

  胃腸、脚気を病んでいたと言われ、7月20日、大坂城本営にて急死した。死因も強いスト  

  レス性のものではないかと推察される。暗殺説もあるが真偽は定かではない。江戸で待つ  

  妻和宮へ贈る為に用意していた京都の錦織物が遺品にあったといい、5年間の間に夫妻が  

  一緒に暮らしたのはわずか2年余りでしかなく、子は生まれなかった。享年21歳。同年中  

  に義兄で親幕派の孝明天皇がやはり急病により崩御して、公武合体策の実体は失われた。  

■ 御 家 紋 ■




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