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元治元年六月五日早朝、一人の男が壬生屯所に連行されてきた。 その男の名は、枡屋喜右衛門といい、西木屋町の薪炭商の養子である。 新選組は、以前から彼の動向を注目しており、探索方を使い見張って いたところ、不穏な動きの内定を掴み、踏み込んで捕縛連行したのである。 早々に取り調べが行なわれたが、百戦錬磨の兵である。名を訪ねると 「古高俊太郎」と名乗り口を閉ざしてしまう。古高というと勤王志士の間では 名の通った男である。古高邸を調べると武器弾薬など多数発見されており 証拠が揃っているのに関わらずである。前川邸で調べは続けられ、土方が 取り調べに加わり、足の甲に五寸釘を打ちつけ、其処に蝋燭をつけて 傷口に流し込む。流石の古高も昏倒し、陰謀を喋った。 「風の強い日を選んで、御所風上に火をつけて混乱に乗じて帝を連れ出す」 「守護職を暗殺し、新選組を急襲し壊滅させる」屯所内は色めきだった。 枡屋の押収品は、具足十一両、槍二十五筋、木砲五挺、弓十一張、 矢五百筋それに火薬で、後に四条千本の別宅から、つづら六杯分の 大筒の弾と川舟に六杯分の鉄砲と大筒が見つかった。 御所に放火し、その動乱に乗じて一気に佐幕派を倒すというのは、 机上の策では無かったのである。近藤は直ぐ様、守護職と所司代、 奉行所に通報し、指示を待ったのである。容保公は、會津、桑名、 一橋、彦根、加賀藩などの兵を集めて3千人を導入し祇園、木屋町 三条通一帯を取り囲む予定だったが、その支度に手間取り、合流時刻 五つ刻(午後八時)を過ぎても現れなかった。志士を逃すのを恐れた 新選組は、単独で祇園の会所を二手に分けて、旅篭の改めを開始した。 単独行動に出た新選組の隊士は、総勢三十四人でそれぞれ、鎖帷子、 竹胴、刀、手槍など斬り込み用で武装し、宵宮で賑あう路地へ出た。 近藤隊と土方隊に別れ、三条小橋と三条縄手へ鴨川を挟んで虱潰しに 調べて廻った。近藤隊は鴨川西岸の河原町通を、土方隊は、鴨川東岸 祇園から縄手通を調べて商家や茶屋を御用改めしていった近藤隊が 三条小橋の西にある旅篭の前で足を止めたのは午後十時過ぎである。 |
軒下に鉄砲と槍が十挺ほど立てかけてあるのを、行灯の灯かりのなかで見た近藤は、手を上げて隊士たちを制止した。 空かさず、沖田総司がこれを縄でからげた。近藤勇は、玄関から堂々と「主人はおるか、御用改めであるぞ」と声をかけ、八方に目を 配って、上がり込む。旅篭の名は「池田屋」といい、主人の惣兵衛は長州人で、前々から志士らを面倒見ていた 今回の志士の集まりは、以前から計画していたものでは無く、古高捕縛による対策を協議するものである。したがって古高自身、 この集まりを知る訳が無く、自白出来ようにも出来る訳がなかった。子母沢寛の記述によると「密偵方の山崎烝に 池田屋に潜入させていた」という事実は否定されたのである。氏の創作でしかない。 惣兵衛は、慌てて二階の志士らに声を掛けたが、近藤に殴り倒され、その状態を察した北添佶磨が、階段口で近藤と出くわし、 斬り伏せられる。志士らの状況を知る為、近藤は、沖田総司を連れて二階に駆け上がる。階段下は、永倉新八と藤堂平助を 待機させて、戸口には、残りの隊士を囲わせた。近藤勇の書簡には、一刻(二時間)となっているが、事実は半刻位ではなかろうか、 その後に土方隊が合流し、小人数で戦っていた近藤らは、斬を捕縛に切り替えて戦った。その間にも応援兵は参戦せず、 會津、桑名、一橋、彦根、加賀藩の各藩は、遠巻きに兵を固めて池田屋を静観していたのである。この変での死者は、 志士側の宮部鼎蔵、北添佶摩、大高又次郎、吉田稔麿ら七名で、新選組は、三名、安藤早太郎、奥沢栄助、新田革左衛門である。 近藤勇の指揮、そして新選組の機動力、武勇を全国に知らしめたのである。 |
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