乾退助
いぬい たいすけ

土佐藩士
 
天保8年4月17日、土佐藩士馬廻役の乾正成の子に生まれる。幼名を猪之助。後に通称を
 
退助、諱を正形、雅号を無形。後年、戊辰戦争の時に乾姓から先祖の名である「板垣」に戻した。
 
土佐では上士の家格で、改革派の参政・吉田東洋の私塾生となり、隣町に住む後藤象二郎
 
とは幼友達である。
 
腕白で勉強は好きでなかったという退助は19歳で江戸勤めとなるが翌年城下での不行跡で
 
処罰を受け、その頃から読書に目覚めたようである。許されて高知に戻り、万延元年24歳
 
にして220石の家督を継ぎ、免奉行から内用役、藩主山内豊信(容堂)の側用役、近習目付、
 
馬廻組頭、町奉行と栄転を重ね、元治元年8月には大目付(大監察)となる。藩主側近を経
 
て藩内の取締り側の立場に立った退助ではあるが、自身が直接に参加する事はなかったも
 
のの、武市瑞山が発足した土佐勤皇党に理解を示すようになり、重臣小南五郎右衛門らと
 
共に勤皇党の考えを支持していた為、次第に後藤象二郎とは意見の違いを生じた。先年の
 
吉田東洋暗殺は勤皇党の所業であり、土佐藩主山内容堂は公武合体派である。文久3年か
 
ら元治元年にかけ、京都に於いては長州藩ら尊攘激派が失墜し、土佐藩でも藩内の勤皇党
 
に大弾圧を加え、大目付でありながら勤皇党よりの考えを持つ退助は立場に苦しみ、僅か
 
数ヶ月(慶応元年1月)で解任となる。武市の切腹に対する怒りが退助を武力討幕の方向へ
 
走らせ、江戸へ出て騎兵術や蘭式兵学を学び、慶応2年に藩の仕置役に任ぜられ軍事改革
 
を行ったが容堂に忌避され側近から離れてゆく。慶応3年5月、退助は江戸から京都に向
 
かい、急進的な武力討幕派である中岡慎太郎、福岡孝悌、谷干城らと会い挙兵の必要を説
 
いた。中岡の協力で薩摩の西郷隆盛、小松帯刀、吉井幸輔らに紹介を受けた退助は、5月
 
21日「薩土討幕の密約」を結ぶが、これは私的な盟約であり、一方の後藤象二郎は、坂本
 
龍馬の「船中八策」を妙案として、山内容堂に大政奉還建白の方向を進め、戦闘回避策を
 
とった為、退助は藩の要職から外されるが、藩軍事上の必要から方隊司令に任ぜられ、銃
 
を主とする兵制改革を行っていた。
 
しかし慶応4年1月、遂に薩長新政府と旧幕府の武力討幕戦=戊辰戦争が鳥羽伏見を緒戦
 
に勃発すると、29歳の退助にもようやく陽の目を見る機会が訪れる。迅衝大隊司令に任ぜ
 
られ京都に派遣、1月20日には高松城の接収に当たり、2月9日に東征軍の東山道先鋒総
 
督府の参謀となる。大軍監は谷干城。退助は土佐郷士の精鋭・迅衝隊を率い、京都藩邸に
 
て容堂に謁見。容堂が出陣の将士に杯を与え「天なお寒し、自愛せよ」と労いの言葉をか
 
け、これが一同の勇を奮わせたという。退助の下に大軍監、小隊司令、半隊司令があり、
 
兵数600、輜重人夫を加え1千名。服装は伊賀袴に陣羽織であるが、イギリス式洋式銃隊の
 
土佐最強部隊である。2月中旬、東山道官軍右翼隊として、鳥取藩を加え1400名で京を進
 
発。美濃で本隊と別れ旧徳川領である甲州に向かい3月5日甲府城を無血占領。江戸から
 
甲府城の抑えに向かった幕臣大久保剛こと新選組局長近藤勇率いる甲陽鎮撫隊は行軍に難
 
渋し官軍に先に甲府を占拠された為、勝沼で交戦したが、圧倒的な武力の差と銃砲による
 
挟撃に適わず1日で敗退している。
 
慶応4年6月、退助は更に奥州街道を進撃。会津若松城直撃を目指して3000の兵で母成峠
 
を突破し、翌日には十六橋、その翌日には戸ノ口原に白虎隊らを討ち、城下に突入すると
 
いう戦勝をあげ、後に御太刀料金300両が下賜された。退助はこの会津攻略での町民農民の
 
働きを見、自由民権運動の着想を得たといわれる。帰国後は土佐藩大参事となり藩政改革
 
に着手したが、士民平均の利を説いて朝野の注目を受けている。
 
明治4年、新政府参議となるが同6年、西郷隆盛ら征韓論派の辞職に伴い退助も下野し、
 
翌年「民選議員設立建白書」を提出し高知に「立志社」を創立して自由民権運動の魁とな
 
った。西南戦争が勃発すると私憤の為に人員や財を失わせ逆賊になったとして西郷を批難。
 
自身は大阪の愛国社決議に加わり、明治14年に自由党を創立。党首(総理)として全国各地
 
を遊説し、翌15年4月6日、講演先の岐阜中教院で刺客に胸部を刺され犯人と揉み合って
 
数箇所に負傷する。騒動の時、取り囲む党員らに、板垣一人が死んでも自由が滅びるわけ
 
ではないから嘆く事はない、という意味の事を言ったとされ、これが翌日から「板垣死す
 
とも自由は死せず」という名文句となって喧伝された為、自由民権運動は更に広がりを見
 
せ、退助は民権の神様のように崇められ肖像が売れたという。犯人は愛知の小学校教員で
 
相原といい、捕らえられ無期徒刑となり北海道へ送られるが後の明治22年憲法発令記念大
 
赦で東京に帰り退助を訪ね詫びたといわれる。
 
退助は負傷から回復した後に旧友後藤象二郎とのヨーロッパ外遊に出るが、その後に自由
 
党を解党。明治20年には固辞を許されず伯爵を受け、爵位は一代限りにすべきだと論じる。
 
後に立憲自由党を起こし、60歳の時には伊藤内閣に迎えられ内務大臣に就任した事もあり、
 
政界引退後は正二位に叙し、大正8年7月16日に没すると従一位を追贈された。墓は東京都
 
品川区北品川興源寺。郷里の高知市薊野(あぞの)に分骨墓がある。享年83歳。
 
■ 御 家 紋 ■
 

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