大久保一蔵 
 おおくぼ いちぞう 

薩摩藩士
 
  文政13年8月10日、鹿児島城下、下加治屋町に生まれる。名を一蔵、諱を利通。号を甲東。  

  父次右衛門は地下士の御小姓与琉球館蔵付の下級藩士で、母(ふく子)方の祖父皆吉鳳徳は  

  長崎や江戸で蘭学、医学を学んだ人物である。少年時代の大久保は胃弱で痩せて「竹ン筒ボ」  

  と呼ばれ勉強や武術でも目立たなかったが妹たちには「よか兄さん」であった。3歳年長  

  の西郷吉之助(隆盛)とは家も近く、薩摩独自の郷中制度のもと共に二才(ニセ=結婚前の青  

  年の事)頭として日を送った。だが嘉永2年、薩摩藩主・島津家の跡目相続争い(お由羅騒  

  動・高崎崩れ)の折、嫡子斉彬擁立派に父が連座して罷免、鬼界島に流罪。大久保一蔵も記  

  録所書役助という下役の勤めを解かれ蔑視を受けながら病の母と幼い妹三人を抱えた留守  

  家族の長として「辛酸の境遇」と回顧する窮乏にあえぐ傍ら、西郷と同様、行動力を尊び  

  経世の志と正義感を強く唱える「知行合一」の陽明学に傾倒する。その後は斉彬が次代藩  

  主となり父の流罪も許され、薩摩藩は激動の国内政治の渦中に入るが、友である西郷が斉  

  彬に見出され各地を奔走し次第に脚光を浴びるのに対し、大久保に日の当たる機会はなく  

  28歳で妻マスと平凡な結婚をし国元で暮らす。しかし安政の大獄の最中斉彬が急死、弟・  

  久光を後見人にその実子(茂久、後に忠義)が次期藩主と定まる。西郷は絶望し入水自殺未  

  遂の末に奄美大島へ退き、亡君斉彬と西郷を慕う「精忠組」の青年達は大久保に後事とし  

  て託される。大久保は隠居斉興の圧制の下にあって、亡兄の傑出には及ばぬまでも久光の  

  若さと才覚に期待し、下級藩士の身で藩主実父に近づく為、久光の碁仲間である吉祥院住  

  職真海のもとへ2年以上も囲碁を学びに通って情報を得る。久光の探す書物を差し入れて  

  時事の意見と同志の名を記した紙片を挟んでおく周到さであり、自ら股肱の臣を求めてい  

  た久光が彼を登用、万延元年閏3月に勘定方小頭、文久元年11月に小納戸役に昇進した。  

  久光は無位無官の身ながら前藩主斉彬の後を継ぐ公武合体派の雄として中央政界に乗り出  

  し、大久保は謀臣として持ち前の冷徹な実務能力を生かし、次第に藩政の中枢へ近づく。  

  同志の暴発を抑え時には利用し急進派からは反感を買うが、精忠組の凄惨な同士討ち寺田  

  屋事件や、生麦事件、薩英戦争等の危機を回避する。ある時、久光の逆鱗に触れ切腹寸前  

  の西郷に「オマンサアだけを死なせはしもはん、一緒に刺し違えて死にもそ」と絶望を嘆  

  き、逆に死を思いとどまらせる一幕があったという。西郷と大久保はまさに幕末薩摩の両  

  輪であり、絶大な徳望のある西郷を失って事を成すのは無理だと見抜いた上での言動とも  

  とれる。  

  薩摩藩は文久3年8月18日の政変で会津と組み政敵である長州藩を京都から追放したが、  

  翌年の禁門の変から二度の長州征伐の間に次第に倒幕へと政策を転換し西郷を代表に立て  

  犬猿の仲であった長州とも「薩長同盟」の密約を結ぶに至っている。世情不安で出兵を渋  

  る諸藩に業を煮やした幕府老中板倉周防守は薩摩が率先して欲しいと要請したが、大久保  

  は重臣が風邪と偽って代理交渉に出かけ、話が聞こえないととぼけた後、長州征伐の無益  

  を論破して退室、藩主名の書状で再三出兵を固辞した。一介の陪臣が老中をコケにした顛  

  末は幕権の失墜を諸藩に通達したも同然であった。幕府側で大久保の画策に鋭く対決し、  

  身分的優位からことごとく阻んできたのは禁裏守衛総督、後に最後の将軍となる一橋慶喜  

  であるが、公卿岩倉具視が朝廷に復活すると大久保は彼と結び、自らも宮廷工作が出来る  

  力を得、西郷と表裏一体に協力、遂に大政奉還、王政復古のクーデターを経て鳥羽伏見の  

  開戦に持ち込み錦旗を出させ、慶喜を「朝敵」として再起不能に追い込み武力倒幕を実現。  

  この間内心は「皇国の事すべて瓦解土崩、大御変革もことごとく水泡画餅と相成るべく」  

  と薄氷を踏む危うさであったが、開戦後、幕軍の反撃に怯える朝廷内は廟堂で悠々と煙草  

  をふかし昼寝までする大久保の態度で鎮静したという。新政府樹立後、戊辰戦争最大の戦  

  功者として西郷隆盛の名声は巨大なものとなったが、参与、参議として全体を掌握する立  

  場に立ち、徹底した現実路線を推進、事実上の宰相となったのは大久保利通である。  

  欧米列強に対抗するには強力な中央集権の新国家を確立し、洋行を促進して新知識に優れ  

  た人材を登用する合理的な人事政策を進め、天皇を唯一の権威とする均一な組織体を作り  

  上げる事が急務であった。古い公家体質から天皇を切り離すと同時に人心一新の為、まず  

  は史上初の「江戸行幸」を既成事実として「東京遷都」を敢行。旧藩主を藩知事と改め、  

  薩摩藩主島津忠義に朝廷への10万石寄贈を提言する等の段階を踏み、藩政廃止に積極的な  

  木戸孝允を主軸に、版籍奉還、明治4年には最大の難関である「廃藩置県」を断行した。  

  「家臣が主君の地位を奪った」と旧主筋の島津久光が激怒する等、予測通り既得の身分職  

  業を奪われる全国武士階級の不平が噴出するが、同年11月から大久保、木戸ら新政府の主  

  要人物は岩倉を代表とする海外使節団として1年半にも及ぶ長期洋行に出立、最も難しい  

  時期の留守政府を西郷が引き受ける。洋行中はアメリカ、イギリス、フランス、ベルギー、  

  オランダ、ドイツを歴訪、大久保は同じ島国である英国の立憲政治や議会制度に関心を持  

  ち国民教育の重要性を痛感、特に新興国プロシア(ドイツ)の鉄血宰相ビスマルクに会い、  

  弱小国が数十年で列強に連ねた事実を知り強い感銘を受けている。  

  帰国後の日本で、外国の力を実見して視野を広げた現実派の大久保と、大功労者でありな  

  がら革命後の不平不満に悩む理想家の西郷は次第に溝を生じ、「征韓論」の是非をめぐり  

  正面から激論の対決を迎える。征韓論が敗れ西郷は参議を辞職して下野、江藤新平、板垣  

  退助、後藤象二郎、副島種臣ら留守政府参議も下野した。辞表を提出後の西郷が大久保邸  

  に訪れ「おいは帰る、後の事は頼む」と言い、大久保が「おいは知らん」と素っ気無く答  

  えると西郷が目を怒らせ「知らんとは何つうことか!」と言い捨てて出て行った、と同席  

  した伊藤博文の目撃談がある。永年の盟友が袂を分った瞬間であった。  

  大久保は洋行前から大蔵卿として指揮していた「地租改正」により年貢制を現金納税に改  

  め財政を安定させ明治7年には大蔵省より更に強権を集中した巨大組織「内務省」を作り  

  上げ地方行政、民政、勧業、保安(警察を含む)、土木、交通逓信を掌握する初代内務卿、  

  後の内閣総理大臣に匹敵する位置に就任。士族の反乱では、まず「佐賀の乱」で大久保自  

  ら福岡に出向いて殲滅し、台湾出兵に外征して一時的に不平士族の目を国外にそらした後、  

  続く明治9年の神風連の乱、秋月の乱、萩の乱を個別に撃破。農民一揆も多発する中、遂  

  に10年勃発の「西南戦争」を迎え、9月24日西郷の敗死を以って最大の内乱は終結。大久  

  保が西郷の死を知った当日は私邸に於いて座敷と廊下の間を鴨居に頭をぶつけながらグル  

  グルと歩き回り「目に一杯の涙を湛えていた」のを末妹が見ている。だが一国の宰相とし  

  ての大久保は漸く内憂が消え、鹿児島県民の救済等戦後処理に従事、今後は鋭意諸般の改  

  革にあたりたい、大いに一緒にやろうと腹心の伊藤博文、大隈重信に語る意気を見せ、明  

  治維新は10年迄を創業、20年迄が内治拡充、30年迄が完成の時期であるとし自分は第2期  

  の内治に専念し第三期は後進に譲るつもりと論じていたが実現を見る事はなく、翌明治11  

  年5月14日、出勤途上の馬車を旧加賀藩士族島田一郎ら六名に襲撃され、紀尾井坂におい  

  て斬殺された。当日所持の風呂敷包みの中には西郷隆盛の遺筆の文二通があったという。  

  「独裁者の暗殺」は一般民衆と言論界から歓迎すらされたが、大久保が度重なる勅命の発  

  布で各種政策を遂行出来た事は明治天皇の信任を得たからであり、閣議に於いても彼の出  

  席中は粛然とし死後は乱れた、自分の知識の不足を認め何時間も人の話を熱心に聞いた、  

  部下に権限を任せた事は口出しせず、失敗の責任も全て自分が負った、無名の留学志望者  

  の面会にも応じ聞き届けた、一度可とした事は絶対に覆さなかった、等、実際の大久保に  

  接した中では賛辞も多い。死の直前、人に求められて残した書は「為政清明」であった。  

  自家には僅か300円しかなく逆に8000円もの借金が残っていたが、全て出所の明瞭な金で  

  あったという。5月15日、詔勅により右大臣、正二位を追贈、2日後に国葬が行われた。  

  墓は東京港区の青山墓地。享年49歳。  

■ 御 家 紋 ■




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