伊東甲子太郎武明
いとう かしたろうたけあき

新選組参謀・御陵衛士隊長
 
天保六年、常州志筑の鈴木専右衛門の長男として生まれ、名を大蔵といった。同隊士鈴木
 
三樹三郎は実弟である。江戸に出た大蔵は、深川佐賀町の北辰一刀流伊東誠一郎に見込ま
 
れて後を継ぎ道場主になった。この道場も他の道場と同じく攘夷の論争に明け暮れていた。
 
しかし、もはや日本の政治は京都を中心に動いており、江戸では遅れた机上の空論である。
 
同門で新選組隊士募集の為に下府していた藤堂平助に勧誘され、同志と共に京に上ったの
 
は元治元年十月のことで、伊東はこの年の干支に因んで甲子太郎と名を改めた。入隊早々、
 
参謀職を用意されており、破格の扱いで迎えられた。伊東の新選組入りはどうやら目論み
 
があっての事であった。「新選組の参謀の地位を利用し、遅れてきた志士の汚名を雪ぎ、
 
組を手土産に薩長に取り入る」胸勘定だったのである。同門の藤堂を使い山南を利用する
 
が、感情の起伏の激しい山南に自分の野望を露見されるのを恐れて断念。つきはなす。隊
 
務放棄の山南はさらに孤立し、人間不信のまま自害する。伊東は、山南の人柄は好いてお
 
り、非常に惜しんだ。
 
しかし、新選組で近藤、土方の基盤を揺るがす事は出来ず、その後の伊東は、九州を始め
 
諸国を交遊し、次第に倒幕思想を高めていくのである。
 
そして慶応三年三月、孝明天皇の御陵衛士を拝命し、山陵奉行戸田の傘下に転ずる。前例
 
のない新選組の分離に成功したのである。近藤らを騙して「我々は分離し、薩摩の動向を
 
調べる為に隊を離れる。我々が逐一動向を報告いたそう」と持ち掛けた。土方は、監察方
 
を使い伊東の入隊時から調べさせており、これ以上獅子身中の虫を隊に置くのは危険と察
 
知し了承。伊東側は新選組に間者を残して動向を探っていたが、土方も斎藤一を送り込ん
 
でおり、逐一報告されていた。伊東らは三条城安寺から五条東詰善立寺に投じたのち、六
 
月八日東山高台寺の月真院に屯所を構え、高台寺党と呼ばれる。
 
土佐の中岡が陸援隊を結成と同時に、御陵衛士からは隊士橋本皆助を水野八郎と改称させ
 
送り込む。新選組も同様に村山謙吉を間者として送っていたが、伊東は陸援隊の倒幕発起
 
を察知し、新選組に知らせて、自身の本心を悟られぬように謀っていた。伊東は、この時
 
点では薩摩と内通しており、密偵を土佐に潜り込ませて大政奉還を上申した坂本と中岡の
 
動向を探ると同時に、幕府や新選組の動向を把握して、御陵衛士の地位を利用して尊皇派
 
である事を強調して時勢に乗り、世間からは薩摩と同等の扱いを得るという目的ではない
 
だろうか。坂本が暗殺される前の日に坂本に面談し新選組が狙っていることを忠告し、暗
 
殺後も新選組の仕業と言うことを土佐藩や海援隊、陸援隊に述べている。この動向により
 
後年、坂本暗殺は薩摩より依頼された御陵衛士の仕業という説も出ている。新選組はすで
 
に直参の幕臣であり、幕府が坂本の罪を大赦した以上、坂本を狙う事は背任行為である。
 
近藤勇が背任行為を行うことは彼の人間性からはあり得ないのである。
 
すでに幕府は大政奉還を終え形勢が刻々と変動中であったが、幕臣取立ての前に分離し、
 
去就自由な立場に身を置き、今後の鍵を握る薩摩藩に近づく事の出来た伊東の策謀は、
 
時流に乗ったかとみえた。次には、倒幕を進めるために母体である新選組の武力吸収を考
 
案し、近藤勇暗殺を計画する。しかしその密計を間者として潜り込んでいた斎藤一によっ
 
てもたらされた新選組は、高台寺党壊滅を計画し、隊の運営資金を新選組に依頼されてい
 
た件を利用し、近藤の側女宅に伊東を呼び出す。慶応三年十一月十八日、伊東は酒宴の後、
 
帰宅途中の油小路木津橋通りで、大石鍬次郎らに闇討ちに遭い応戦虚しく、本光寺門前の
 
台石に腰を下ろし「奸賊ばら」と叫び絶命する。
 
尊皇家を自負した伊東も、王政復古の維新を目前にしながら、ついに才能を開ききらぬま
 
まに終わった。策士、策に溺れるであったのであろう。
 
 
波風の あらき世なれば 如何にせん
 
よしや淵瀬に 身はしづむとも
 
■ 御 家 紋 ■
 
■ 剣 客 剣 豪 ■

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