岩倉具視
いわくら ともみ

公家
 
文政8年9月15日、前権中納言、堀河康親の次男として京都に生まれる。
 
幼名、周丸。岩倉具慶の養子となり、14才で具視と名のった。岩倉家は家
 
禄百五十石の貧乏公卿で、生活は困窮を極め、自宅を博奕場に貸した
 
こともあるという。
 
嘉永6年1月、ペリー来航直前、岩倉29才の折、鷹司政通の歌の門人となる。
 
鷹司家は五摂家の一つで、政通は左大臣、関白、太政大臣、孝明天皇の
 
摂政という経歴を持ち、ペリー来航については、開国を主張していた。
 
その政通に岩倉は、対外交渉は朝廷が主導権を持つべきと説き、政通は
 
これを評価し、天皇近侍の侍従に推薦した。
 
安政5年3月12日、公卿のデモとも言える列参事件を起こし、日米修好通
 
商条約の勅諚案の改訂を要求した。以後、公武合体という方法で、逆に
 
天皇の権威を復元しようとする推進者となった。
 
和宮降嫁に尽力し、一応はこの策を成功させたが、「四奸」の一人として尊
 
攘過激派から命を狙われ、文久2年、官を辞して仏門に入り、法名を友山と
 
号して、居所も霊源寺、西芳寺、岩倉村とかえる逃亡生活となった。
 
閑居約五年の間に次第に討幕派の志士たちが岩倉を訪ねるようになり、桂小
 
五郎、大久保利通、西郷吉之助、坂本龍馬、中岡慎太郎、品川弥二郎らが出
 
入りした。慶応2年、坂本龍馬の仲介で、薩長同盟が成立、将軍家茂死去、
 
さらに、慶喜の将軍就任。同年末に孝明天皇が急死したのは、岩倉が毒殺し
 
たとの説もある。
 
慶応3年、大久保利通らと王政復古のクーデターを決行し、12月9日成立。
 
岩倉は維新政権の中心人物となる。新政府では、議定、副総裁、大納言など
 
を歴任し、廃藩置県を断行した。
 
明治4年から岩倉は、特命全権として、総勢四十六名の使節団を率い、米欧
 
十二カ国を歴訪、条約改正は不首尾に終わったが、富国強兵策の必要を痛感
 
し、西郷らの征韓論には強く反対した。
 
その後、伊藤博文をプロシアに派遣するなど、立憲天皇制の確立のために尽
 
力した。
 
明治16年7月20日、胃ガンのために59才で死去。
 
墓所は、東京都品川区、海晏寺。
 
■ 御 家 紋 ■
 

The music produced byDR(零式)さん
MIDI ON / OFF


佐幕人名鑑に戻る


このページは幕末維新新選組の著作物です。全てのページにおいて転載転用を禁じます。
Copyright©All Rights Reserved by Bakumatuisin Sinsengumi