(二十八万石) |
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現、福島県会津若松市に本拠を置く。藩祖保科正之は徳川家康の孫、秀忠の庶子であり、 |
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後に兄の三代将軍家光の幕閣重鎮となり、徳川将軍家と存亡も共にするという最大の忠誠 |
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を重んじる家訓を作り上げた。 |
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幕末の藩主松平容保は高須家からの養子であるがよく藩風を守った。 |
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文久二年、幕府は尊攘過激派の横行する京都の軍事・政治の要として京都守護職を新設し、 |
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強兵で知られる会津藩に白羽の矢を立て、病弱を理由に大任を固辞する容保を説き伏せ |
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就任させる。会津藩は莫大な駐屯費を工面し藩兵千名を率いて上洛、容保は時の孝明天皇 |
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から最も厚い信頼を賜る。 |
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当初は浪士・志士らにも穏健な理解を示そうとしたが、幕府の尊厳を傷つける暗殺の横行 |
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や足利三将軍の木像梟首事件に至り、武力をもって彼らを取り締まる方向へ転じた。 |
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文久三年春に江戸から上洛した将軍警護の浪士組のうち残留少数派の身柄を預かり、後の |
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新選組活動の後見者となる。 |
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八月十八日の政変、池田屋事件、禁門の変と常に最前線にあり佐幕藩の筆頭であった為に、 |
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戊辰戦争では薩長新政府軍の最大の攻撃目標にされ、会津戦争の果てに敗れて全藩流罪と |
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もいうべき斗南藩移転の悲惨を味わった。 |
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(土方歳三の遺刀) |
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慶長年間の刀工康継は、近江国坂田郡下阪村の出で、下阪市左衛門といった。 |
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肥後大掾を受領。初め、結城秀康に抱えられ、のちに徳川家康から「葵の御紋」 |
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と「康」の一字を贈られて「康継」と改銘した。そんなことから「葵阪下」また |
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「葵御紋康継」と呼ばれた。爾来、越前と江戸に隔年住居したと云われる。 |
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銘は「肥後大掾藤原越前康継」「越前国住康継」「肥後大掾藤原下阪」 |
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「以南蛮鉄於武州江戸越前康継」などときった。 |
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この葵御紋康継を土方歳三が所持していたが、甲州勝沼の敗戦後、本所小梅村に |
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おいて日野の佐藤彦五郎に贈った。中子の表銘は葵御紋の下に「以南蛮鉄於武州 |
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江戸越前康継」ときり、裏銘は「安政六年六月十一日於伝馬町雁金土壇払山田在 |
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吉試之」と「同年十一月廿三日於千住太々土壇払山田吉豊試之」の二行にきって |
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ある。刃渡り二尺三寸五分のこの刀剣は、葵御紋康継の作というばかりか、山田 |
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在吉と山田吉豊の試し切りがされていることが、より一層その価値を高めている。 |
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山田在吉は、称を徳蔵、初名を左吉といい、七代首斬り浅右衛門こと山田浅右衛門 |
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吉利の次男で、吉豊は在吉の兄である。 |
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吉田松陰や頼三樹三郎らの処刑者として、その名を知られる山田浅右衛門吉利の |
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長男吉豊は、天保十年五月十五日生まれで、通称を初め源蔵、明治維新後、家督 |
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相続して、八代浅右衛門となる。のちに浅雄と改名して、明治十五年八月十三日 |
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父吉利に先立って亡くなった。墓は東京都豊島区池袋の祥雲寺に現存。戒名を性 |
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善院秀様吉豊居士と号するが、問題は山田家の寮が小梅にあったことだ。 |
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近藤勇が流山で投降した後の慶応四年四月十一日、土方ら新選組は小梅から市川 |
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に向っている。このことは、島田魁や中島登の書で確認できるから、この時、 |
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彦五郎のために、歳三が吉豊から贈られたばかりの刀を彦五郎に贈ったか・・・ |
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ただ、歳三の京都時代の佩刀ではないと思われる。 |
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(天保九・一・十五〜慶応二・一・二五) |
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名は貞一。周防国玖珂郡柱島地下医の長男。荻藩家老浦靱負家来赤禰雅平の養子 |
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となる。奇兵隊に入り、総官に進む。元治元年、俗論党藩政府と正義派諸隊との |
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調停を図ろうとして同志に疑われ、元治二年一月、奇兵隊を脱走、渕上郁太郎と |
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ともに上方へ走った。 |
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三月、京都で幕吏に捕らえられ、六角獄に入牢。幕府大目付永井尚志や新選組伊 |
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東甲子太郎の肝煎で十一月放免、長州訊問のため、広島へ下る永井の随員に加え |
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られた。近藤勇、伊東甲子太郎ら新選組隊士や渕上郁太郎も同行した。永井は幕 |
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府と長州との戦争を回避するため、赤根を通じて長州尊攘派の人脈に接近しよう |
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とした。赤根は広島から防長に潜入したが、長州藩の追捕を受け、十二月、柱島 |
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に潜伏中を捕縛された。山口の鰐石で斬処される。二九歳。墓は岩国市柱島西栄 |
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寺。柳井市阿月願成寺にある。 |
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(東京都千代田区丸の内二丁目) |
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慶応四年一月二十三日から、新選組がしばらく江戸屯所とした大名邸。現、三菱銀行 |
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本店。江戸帰還、品川釜屋で休陣した新選組隊士は幕府から大名小路邸を鍛治橋の、 |
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元日向高鍋藩主秋月右京亮邸を屯所としてあてがわれた。 |
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永倉新八の記録では、一月二十日に通達されたという。この折、約三十名の負傷隊士 |
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らは、和泉橋医学所などに収容されていたため、可動隊士は多くなかった。 |
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新選組の金銀出入帳には同月二十三日以降、二月十五日まで四度にわたって大工仙蔵 |
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なる人物に計九十両を支払った記録があり、邸内の修繕が行なわれたものと思わる。 |
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また、二月十五日には同屯所で総額一六四両一分の給金が隊士たちに支払われた記録 |
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も残されている。江戸屯所近辺での公的活動の記録は伝わらないが、隊士らは二月十 |
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二日から、上野寛永寺大慈院で謹慎中の徳川慶喜の護衛のために出動している。 |
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(天保十三頃〜?) |
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前名は江上太郎。会津藩士。父は江上又八といい、会津田島の代官をしていた。 |
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江上、秋月、原田氏は、その祖先が中国からの帰化人で同族だったため、秋月姓 |
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を称す。藩主松平容保に従って上洛していたので、早くから新選組とは接触が |
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あったものと思われる。 |
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慶応四年三月、会津藩が江戸藩邸を引き揚げるにあたって登之助は江戸に残り、 |
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藩庁の了解のもとに脱藩の形式をとって幕府軍に投じ、歩兵差図役並に任じられ |
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て第七連隊付となる。その後、伝習隊に転じ、第一大隊の隊長となって大鳥圭介 |
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の率いる幕府脱走軍と合流して宇都宮などで新政府軍と戦う。この時土方歳三は |
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登之助のもとで参謀を勤めている。年齢的にも、実戦経験からいっても、土方の |
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方が上であったが、会津藩士である登之助を立てていたのである。会津戦争以後 |
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登之助の消息は詳らかでない。明治十九年七月、加波山事件で投獄されていた、 |
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下館の玉水嘉一が、小菅集治監で武士風の黒い獄衣を着た者から声をかけられた。 |
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その者は「拙者は秋月だ」と名乗ったが、おそらくそれが登之助だったらしいという |
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元治元年六月十日未明、東山清水産寧坂の料亭明保野に不審の浪士が集合している |
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との情報を入手した新選組は、武田観柳斎、浅野藤太郎を指揮者として隊士十五名 |
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と当時応援のために隊に出向していた会津藩の青年五名を同所に急派した。 |
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捜査の結果、浪士集合の事実はないことがわかったが、居合わせた一人の武士が |
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現場から逃走しようとしたので、柴司(会津藩士柴幾馬の弟)が、これを制止しよう |
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として槍で相手に傷を負わせた。この武士は土佐藩士麻田時太郎で、単に同所で |
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飲酒中の者であったことが解ったので、会津藩では土佐藩との関係に悪影響が生じる |
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のを恐れ、見舞いの使者を派遣したが、土佐藩は麻田の挙動も不適切であったとして |
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彼を自刃させたので、両藩の関係に微妙なかげりが生じるに至った。が、事態を憂慮 |
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した柴司が自ら望んで六月十二日に自裁して土佐藩に陳謝の意を表した為に事件は、 |
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円満に解決した。 |
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(文政七・一・二八〜明治二四・十・二九) |
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粟田宮、中川宮、賀陽宮、尹宮、久邇宮、山城京都出身。皇族。親幕派の孝明天皇 |
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の信任が厚く、新選組にも理解を示しており、池田屋事件では松平容保らとともに |
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倒幕派の襲撃予定者とされていた。『朝彦親王日記』が伝わり、そこには慶応二年 |
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四月の新選組の奈良出張にサラシ三十枚、同年十二月には用向きは不明ながら銀二 |
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十枚を授けた記載があり、翌年三月には近藤勇の話として、兵庫開港決定に落胆の |
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様子が記されている。幕府目付の原市之進暗殺に際しては、後任に近藤勇の登用を |
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会津藩に進言し、また、自身の侍臣として用いたい旨を松平容保に内談していた。 |
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王政復古により参内を停止され、翌年八月には徳川慶喜と陰謀を企てたとの嫌疑で |
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広島藩に預けられる。復権後は神道の振興などに尽力した。享年六十八歳。墓は、 |
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京都府京都市東山区の泉涌寺泉山陵墓地。 |
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