新 選 組 大 事 典


飛鳥井雅典
あすかい まさのり
(文政八・十・二五〜明治十六・二・二三)
 
武家伝奏。九二八石六升七合の従一位前権大納言雅久の長男。従三位権中納言から、
 
慶応三年九月には権大納言に任じられた。文久二年十二月、国事御用掛となり、翌三年
 
六月には武家伝奏に転じた。同年八月十八日の政変の時、御所へ出動した近藤勇や芹沢
 
鴨など壬生浪士の一行五十二人に対し、飛鳥井、野宮の両武家伝奏は、この日「新選組」
 
を命名した。
 
慶応三年十二月九日の王政復古に際し、公武合体派として参朝を止められた。翌慶応四年
 
一月、明治天皇の元服による大赦で赦免されたが、権大納言を辞した。
 
墓は京都市上京区寺町通り今出川下ル遺迎院にあったが、同院の移転に伴って昭和四十年
 
三月、左京区黒谷の金戒光明寺墓地に改装され、北垣国道の背後に建立された「飛鳥井家
 
之墓」に合祀されている。
 
 
 

油小路の変
あぶらのこうじのへん
(慶応三・十一・十八)
 
慶応三年十一月十八日、醒ヶ井通の近藤勇の妾宅に、伊東甲子太郎を招き
 
酒食の宴を持ち、亥の刻過ぎに帰途についた伊東が、油小路津屋橋付近で
 
新選組、大石鍬次郎らに襲われ、伊東は長槍で刺され、深手のまま実相山
 
本光寺に逃げ込み、落命。この亡骸を駕籠に乗せ、油小路七条の辻に放置
 
し、急報で駆けつけた高台寺党七名と、潜伏していた新選組の間で死闘と
 
なる。翌朝、現場には、手指、肉片、血痕、毛髪が飛び散っていたという。
 
高台寺党の討死は、藤堂平助、服部武雄、毛内有之助。伊東を含むこの四
 
人の遺体は、数日間現場に放置された後、満月山光縁寺に葬られ、翌年二月
 
十三日に泉涌寺に改葬された。また、辛うじて血路を開いた鈴木三樹三郎、
 
加納道之助、富山弥兵衛、篠原泰之進は、薩摩藩邸に庇護された。
 
伊東は、元治元年秋、江戸東帰中の藤堂平助と接触し、新選組入隊を決意、
 
同年十月十五日、隊士募集で東帰した近藤勇らと上洛した。伊東は漠然と
 
尊王攘夷論を掲げ、天皇中心の政治を目指そうと考えていたが、当時政論
 
の中心は京にあり、江戸での情報は役に立たなかった。新選組に参加し、
 
自らがその中心となり、そこを拠点に新勢力として、薩長土に対抗できる
 
力を持ちたかったのであろう。しかし、伊東のもくろみに反し、新選組の
 
組織力は強く、また、新選組の名を持って薩長と連結することは不可能で
 
あった。薩摩からの間者、富山弥兵衛より、薩長同盟があるとの情報を聞
 
き及び、時局が大政奉還に向かって動いていることを察知し、いち早い新
 
選組からの離脱を考えていたと思われる。しかし、新選組からの幕府の情
 
報も知っておきたかったし、また、離隊のためには近藤らを納得させる力
 
も必要であった。伊東は慶応元年十一月と同二年一月、長州訊問使に随行、
 
また、同三年一月に、宇田兵衛の名で隊内の同志と西国遊説し、太宰府の
 
三条実美ら公卿や、討幕派諸藩士と面会し、二月には久留米で真木外記や
 
水野渓雲斎らに分離について語った。そして円満分離の方法として、前年
 
十二月二十五日に没した孝明天皇の陵墓警護を思いついた。名目獲得の為
 
に篠原が、天皇陵のある泉涌寺塔頭戒光寺に働きかけ、伊東らが帰京する
 
二日前三月十日、ついに朝廷の伝奏方より禁裏御陵衛士拝命に成功した。
 
分離を実現したかのように見えた伊東らは、近藤、土方ら新選組幹部の殺
 
害を考えており、スパイとして高台寺党に加わっていた斎藤一はこのこと
 
を近藤らに注進。かねてより伊東が、長州の間者となる軍資金として申し
 
入れていた三百両の引き渡しを理由に、醒ヶ井の妾宅に招いたのであった。
 
表面上友好関係を築き、伊東は隊内で自由な行動を保証されたかのように
 
考えていたのであろうか。
 
この事件の一ヶ月後には高台寺の残党による報復として、近藤が伏見墨染
 
で狙撃されて負傷した。
 
 
 

雨戸の落書き
あまどのらくがき
 
 
前川邸の雨戸に記されたもので、中央に「新選組 局長 近藤勇」と三行、
 
右下に「壬生陣中作」とされた「寒雨淋々不結夢 真延旅免遇陣営」という
 
漢詩、中央から左に「子息同姓周平 女也 佐々木内 周平」とあったという。
 
部分的な写真は残っているが、雨戸は前住者が転居する際に持ち去ったという
 
ことで、確認されていない。また「会津 新選組隊長 近藤勇(花押)と書かれ、
 
裏面に「勤勉 活動 努力 発展」と大書されたものが褪色しながらも現存している。
 
 
 

阿弥陀寺
あみだじ
(会津若松市七日町)
 
会津戊辰戦争の折、城下戦で死んだ会津人の屍は賊として西軍から埋葬を許可されず
 
腐敗し、鳥や犬に食われ、死臭を極めた。嘆願の末、やっと大穴を十六箇所に分けて
 
寺々に掘り、投げ込むように埋葬された。阿弥陀寺もそのひとつである。
 
山門の左奥に戦死者ら一二八一人が眠る墓所がある。そのすぐ傍には藤田五郎の墓が
 
ある。この墓所は味方の遺体の埋葬を手伝った高木時尾(藤田の妻)へ、松平容保から
 
賜ったものといわれている。また、この寺院の本堂は、鶴ヶ城内のお三階を移築した
 
もの。三階というが、本当は四階。藩主と重臣が密議を謀る時に使用した建物で、三階
 
と四階に通じる各梯子を取外し、誰も登ってこられぬようにして使った。裏に回ると、
 
この白い壁に当時の弾痕が、そのまま残っている。
 
 
 

有馬出雲守則篤
ありまいずものかみのりあつ
(文政九年〜明治三十・十・三)
 
大阪東町奉行。文久三年五月六日、書院番頭から大阪東町奉行に進んだ。翌月の
 
六月三日、蜆橋で壬生浪士と大阪角力熊川熊次郎が死んだ。この一件の報告書を
 
「壬生村詰浪士総代芹沢鴨、近藤勇」の連名で、大阪東町奉行所へ提出した。
 
この時の東町奉行所が有馬である。ただし、有馬がこの時既に着任していて、この
 
事件に携わっていたが否か確証を得ることは出来ていない。しかも大阪の場合は
 
江戸と違って、東西両奉行において、与力の交流辞令が出されているから、西町
 
奉行所与力が取り扱った可能性もあり得る。ただ、この一件に関する記録にいまだ
 
出合っていない。有馬は元治元年五月十四日勘定奉行に転じ、同年十一月二十二日
 
江戸南町奉行、一ヶ月後に大目付、慶応二年八月五日、南町奉行に再任した。
 
墓は東京都港区南麻布の曹渓寺で、戒名は法林院殿仁翁三敬大居士と号す。
 
 
 

有馬藤太
ありま とうた
(天保八〜大正十三)
 
鹿児島生まれ。西郷隆盛に目をかけられて戊辰戦争で活躍した。東山道鎮撫総督
 
軍に香川敬三らと加わり、板橋を発ち、粕壁(埼玉県春日部市)で情報を得て、
 
越谷を経て流山の新選組を襲った。そこで、殆ど戦火を交えずに近藤勇を捕らえる。
 
有馬は「香川が近藤を捕縛したなどと間違いもはなはだしい」と後年語っているが、
 
「香川という奴は、嫌な奴」とも言っているから『新選組始末記』のいうとおり、
 
二人の仲が悪かったのは事実である。
 
有馬は近藤を武士として立派な男と評価しているが、香川を「近藤の首を落とした
 
責任者」としているのはどうか。処刑の頃、香川は宇都宮で戦っていたからである。
 
土方歳三軍によって一時、宇都宮城を奪われると、有馬は壬生城を守り通し、宇都宮
 
へ反撃する。この戦いで城は新政府軍が奪回するが、有馬は負傷して横浜の病院へ
 
送られる。後年『私の明治維新』を残している。
 
 
 

有吉熊次郎
ありよし くまじろう
(天保十三〜元治元・七・十九)
 
名は良明。荻藩士。松下村塾に学ぶ。文久元年江戸上府、翌二年十二月高杉晋作
 
らと品川御殿山英国公使館を焼き討ちした。文久三年、学習院出仕となって上京
 
したが、堺町門の変のため帰国して、久坂玄瑞と八幡隊を結成した。暮れに再び
 
京に上がり、朝議回復を図る。
 
河原町御池の長州藩邸から池田屋の会合に出向いたが、新選組の急襲を受けると
 
白刃をくぐり抜けて長州屋敷へ逃れた。事件の顛末を本国に伝える為、六月七日
 
飛脚に変装して出立。十二日朝、山口に着いて藩庁に報告した。しかし、その内容
 
は重役の浦靱負が書きとどめている日記を見ると、吉田稔麿、杉山松助などの行動
 
について明らかに真相がぼかされている。
 
六月中旬、八幡隊隊長となって京都へ出撃、禁門の変で負傷し、鷹司邸において
 
自刃した。享年二十三歳。墓は京都東山霊山と山口市朝日山招魂場にある。
 
 
 

安藤太郎
あんどう たろう
(弘化三・四・八〜大正十三・十・二七)
 
旧幕榎本軍の回天艦乗組員。明治二年三月二十五日、土方歳三や野村利三郎らと
 
回天に搭乗、南部宮古湾の海戦に参加。その実録譚『美家古逎波奈誌』を残す。
 
箱館戦争の終結後、箱館の称名寺に収容され、青森の蓮華寺や弘前の最勝院など
 
で謹慎。赦免後、箱館時代海軍奉行を務めた荒井郁之助の妹ふみと結婚。明治新
 
政府の外務省翻訳官になり、欧米を巡遊した。その後、外務省通商局長や農商務
 
省、商工局長、さらにハワイ総領事などを歴任した。
 
元来、酒豪だった安藤は酒で失敗する日本の移民たちを目のあたりにして、敢然
 
として酒を断ち、禁酒運動に没頭。東京市麻布区本村町一一五番地の自邸で、七
 
十九歳の天寿を全うした。菩提寺は東京都杉並区永福町の理性寺で、父文沢の墓
 
碑も現存しているが、太郎夫妻はクリスチャンになった為、東京都港区の青山霊
 
園一種イ二〇号三側に埋葬され、墓碑もその地に建立されている。
 
 
 

医学館跡
いがくかんあと
(東京都台東区浅草橋四丁目)
 
幕府の漢方医学校。多紀氏の創設した私立医学校が前身であったが、慶応四年
 
一月、鳥羽伏見の戦いの負傷者が続々と江戸に護送されるあたり、双方ともに
 
その療養施設として利用された。新選組の負傷者は医学所に収容されたが、一月
 
二十七日に大町通南太郎ら二十八人が医学館に移されている。その後、新政府軍
 
の江戸入城に従い、医学館は医学所に合併されることになる。
 
 
 

医学所跡
いがくしょあと
(東京都台東区台東一丁目)
 
幕府の蘭方医学校。蘭方医の有志により神田お玉ヶ池に作られた種痘所が前身で、
 
神田和泉橋に移転後の万延元年に幕府直轄となり、翌文久元年に西洋医学所と改称
 
された。同三年には単に医学所と呼ばれるようになり、奥医師の松本良順が頭取に
 
就任する。慶応四年一月、鳥羽伏見の戦いにおける負傷者の療養施設となり、一月
 
十五日ごろに近藤勇、沖田総司ら三十人ほどが収容されている。遅れて十九日には
 
斎藤一が入院。また、横浜病院に入っていた島田魁ら二十二人も二月三日に引き移
 
っている。その後、医学所は新政府軍に引き渡され、東京府大病院となり、のち、
 
本郷に移転し、東京帝国大学医学部となった。
 
 
 

(参考 新人物往来社)
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