新 選 組 大 事 典


異国橋跡
いこくばしあと
(北海道函館市豊川町七番三十一号)
 
現在の十字街警察派出所の所で、この脇通りは明治中期まで掘割であり、ここに
 
橋が架かっていた。栄国橋といったが、港中の築島が幕末に外国人居留地に指定
 
された為、異国橋の称が生まれた。土方歳三は、この異国橋の傍で政府軍の弾丸
 
にあたり、落命と記す書がある。土方落命の場所は他に「一本木」とする説もある。
 
また「鶴岡町」とする説もある。一本木は異国橋から約一・八キロ東にあり、鶴岡町
 
は両所のほぼ中間西寄りの場所である。土方は異国橋まで進出して奮戦、一本木
 
に引き返したところで敵弾に倒れたとする書もある。堀割は明治二十二年に埋め
 
立てられたため、異国橋は無くなってしまっている。
 
 
 

石坂周造
いしざか しゅうぞう
(天保三〜明治三十六・五・二十二)
 
宗順、名は信則、号は霞山、石油斎。信濃国水内郡桑名川村、現、長野県飯山市
 
の生まれ。十七歳の時、江戸に出て町医立川宗達の内弟子になった。のちに立川
 
の師の両国山伏町の幕府の針医石坂宗哲の養子になって宗順と称した。事情が、
 
あって千葉県神崎(香取郡神崎町)で医者をやった。
 
佐原(佐原市)で剣術の道場を開いていた村上俊五郎と知り合い、江戸に行って
 
清河八郎の主宰する虎尾の会に加わった。虎尾の会は尊王攘夷を目的にしていた
 
ので、幕吏に睨まれていたが、清河が岡つ引きを斬ったことで石坂も捕らえられ
 
伝馬町の牢に入ったが、文久二年暮、清河の赦免により、出牢して浪士組の道中
 
目付として上洛した。八郎が暗殺されると、いち早く現場に駆けつけ、親の仇で
 
あると偽って、見張り人を追い払い、八郎が持っていた同志の連名帳と、八郎の
 
首を持って山岡鉄舟の家へ届けた。
 
明治に入って静岡県榛原郡相良町で、石油事業に手を出した。妻の桂子は山岡の
 
妻英子の妹であった。清河八郎との関係や浪士組結成などの証言を「史談会」で
 
三度行っている。七十三歳で亡くなった。墓は東京都台東区谷中五丁目の全生庵。
 
 
 

石田散薬
いしださんやく
 
 
この薬は土方歳三生家が代々、宝永年間から伝える骨つぎ、打ち身の妙薬。原料は
 
多摩川、浅川などに野生する牛革草(みそそば)を、土用の丑の日に採集、陰干し
 
にして後、黒焼きにし、粉にする。服用の際には必ず酒で飲む。これと同じ原料と
 
製法の「虚労散」は、佐藤彦五郎家家伝のものだが、これは白湯で服用する。両薬
 
とも新選組の常備薬である。
 
「虚労散」は肺病の薬で、石田散薬原料の牛革草は当時、村総出で採集され、まるで
 
戦争のような騒ぎであり、その大勢の人々を指揮したのが若き日の土方歳三で、その
 
采配は見事だったという。さらにその薬を売り歩いたのも歳三だが、成績はあまり
 
芳しくなかった。行商先は武州、相州二十里四方に及び、甲州までわたるといわれる
 
土方家に現在、当時の卸先台帳が保存され、また薬を売り歩いた薬箱、薬つぼ(木製
 
京都から歳三が送ってきたもの)などがある。第二次大戦過ぎまで薬は売られていた。
 
 
 

石塚巌の殺害
いしづかいわおのさつがい
 
 
文久三年六月二十九日、大阪今橋筋の富豪で新選組の名を騙り、金品の強要を働いた
 
ところ、翌七月一日には今橋一丁目の佐々木某らの知るところとなり、宿としていた
 
道頓堀の升市に新選組隊士二、三人が踏み込み、八軒屋の京屋に連行。殺害後、斬奸
 
状とともに首級は天神橋中央に梟首され、胴体も投げ捨てられていた。新選組にとって
 
横田長兵衛に続く第二の天誅梟首事件であり、大阪では初めてのことだった。これに
 
よって新選組の威名は大阪にも浸透した。石塚を大塚とした記録もある。なお、
 
「佐々木某」は佐々木蔵之允のことと推定される。
 
 
 

和泉守兼定
いずみのかみかねさだ
 
 
古刀、関の孫六兼元とともに美濃を代表する刀工和泉守兼定の子孫である。初代
 
和泉守兼定の孫、四代兼定が奥州会津に移り住み、数えて十一代目が通称「会津
 
十一代兼定」和泉守兼定であり、幕末当時、実践刀として重宝された。新選組副
 
長土方歳三は、この十一代兼定を何振りも所有していたようだ。歳三佩刀中の一
 
振り、二尺二寸八分、慶応三年二月日の裏年記がある兼定が現在、日野市の土方
 
歳三生家に遺品として残されている。
 
この会津十一代兼定は、会津藩主松平容保が京都守護職を拝命の折、上洛して、
 
鍛刀した。在洛中、門人の刀工大隅守広光が記録した師の刀剣注文帳が現存して
 
おり、慶応三年一月四日付で「新セン組」「脇差一本一尺六寸 新選組 島田魅」
 
と記載されている。土方歳三をはじめ、刀の消耗の激しい新選組隊士たちは、斬れ
 
味の鋭い、この十一代兼定をこぞって帯び、市中巡回の任についていた。
 
 
 

一力亭
いちりきてい
(京都市東山区祇園町南側五六九)
 
『仮名手本忠臣蔵』によって大石内蔵助が遊んだとされている茶屋であり、勤王芸者
 
中西君尾の遺談に、近藤勇は一力を根城によく遊んだ、ともいう。文久三年十月十日
 
一力において開かれた諸藩周旋方の会合には新選組を代表して近藤勇も出席し、
 
公武合体論を提唱し、大いに議論を交じわしたとされる。
 
 
 

一本木関門跡
いっぽんぎかんもんあと
(北海道函館市若松町三十三番)
 
江戸時代に一本の柏の大木があったので一本木の地名が生まれ、ここが箱館と
 
亀田の境であった。旧幕府軍が蝦夷を占領すると、ここに南北にわたる柵を設け
 
関門を構えた。明治二年五月十一日、土方歳三は新政府軍の掌中に落ちた箱館の
 
弁天台場を奪回するため、額兵や伝習の小隊を率いて亀田側から一本木関門を
 
出たところで、敵弾に狙撃され、落命とする書がある。
 
土方歳三戦死の地については、他にも「異国橋」「鶴岡町」などとする書もあるが
 
函館市では一本木の大木のあった付近と想定される場所に「土方歳三最期之地」と
 
した石碑を建てている。この辺一帯は一本木町に合併されて廃町となった。今は
 
「土方歳三最期之地」の碑を小緑地に移し(もとは若松小学校の所にあり、のち、
 
グリーンベルトに移していた)若松小学校も廃校し、関門の模型を建てて小公園
 
にしている。
 
 
 

一本木の戦闘
いっぽんぎのせんとう
 
 
一本木とは、函館市若松町、旧若松小学校付近の旧地名。古来、この付近に一本の
 
柏の大木があったことから地名になったとされる。明治二年五月十一日、新政府軍
 
は総攻撃の日、前夜、箱館山の背後に陸軍部隊を上陸させ、早暁から奇襲攻撃によ
 
り、箱館を突き、弁天台場を孤立させた。旧幕府軍の状況は五稜郭の裏手の神山四
 
稜郭、権現台場を早朝に撤退し、本拠地五稜郭では千代ヶ岱陣屋を残すのみとなる
 
ため、孤立した弁天台場を奪回するべく、陸軍奉行並土方歳三は添役の安富才助と
 
少数の手兵を指揮して一本木関門に進み馬上、敵の銃弾を受け、戦死した。
 
しかし、土方歳三の戦死場所を一本木、鶴岡町、栄国(異国)橋ともいい、いまだ
 
確固たる場所は不明である。新選組嚮導役中島登は[一本木関門ヨリ打込進ンデ
 
異国橋辺ニ至リ馬上ニ指揮シ遂ニ銃丸ニ当リ落命被致」と。同頭取差図役島田魁は
 
「砲台ヲ援ト欲シ一本木街棚ニ至リ戦フ己ニ破リ異国橋近ク殆ド数歩ニ官軍海岸ト
 
砂山トヨリ狙撃ス数人斃ル、然ルニ撓ム色無シ己ニ敵丸腰間ヲ貫キ遂ニ戦没」と。
 
土方歳三付属の立川主税は日記に「一本木ヲ襲ニ敵丸腰間ヲ貫キ遂ニ戦死シタモウ
 
土方氏常ニ下万民ヲ憐ミ先立テ進シ故ニ士卒共々勇奮フテ進ム故ニ敗ヲトル事ナシ」
 
とある。立川主税によって土方の郷里にもたらされた歳三最期の状況メモには「五月
 
十一日朝四ツ時/一本木鶴岡町/土方討死 小芝長之助使者/一本杉(木)江来リ
 
/土方引渡ス/安富才輔ハ馬ヲ牽キ五稜郭江行」とあり、四人の土方戦死の場所は
 
まちまちである。
 
小芝長之助は探索掛として活躍し、明治年間を生きているが、現在時点では、この時
 
のことを書き残したものはない。土方の戦死場所が諸説ある中、現在は一本木が定説
 
化し、平成四年暮れ「土方歳三最期之地」が近くの交通分離帯のある通称グリーン
 
ベルト内から隣接する小公園に移され、新選組ファンに親しまれている。
 
 
 

伊東甲子太郎道場跡
いとうかしたろうどうじょうあと
(東京都江東区佐賀一丁目)
 
北辰一刀流道場。鈴木大蔵こと伊東甲子太郎は、文久年間に
 
義父誠一郎の跡を継ぎ、道場主となる、五、六十人の門弟を
 
抱え、元治元年にともに上洛することになる、中西登と内海
 
次郎が師範代を勤めていた。
 
 
 

伊東甲子太郎らの分離
いとうかしたろうらのぶんり
 
 
本格的な勤王活動に邁進する為、新選組からの脱退を企む伊東甲子太郎は、その後も
 
京に留まる必要から、分離という形での脱退を計画する。そのために慶応三年一月、
 
伊東は新井忠雄を従えて九州太宰府に出張し、勤王派五卿や護衛の志士らと会見し、
 
分離に対する理解と協力を要請した。前年の十二月に崩御した孝明天皇の御陵衛士と
 
なるという分離の為の策は、この九州行きによって成り立ったものと考える。
 
三月十二日に帰京した伊東らは翌十三日に壬生で近藤勇、土方歳三と会談し、すでに
 
自分たちが御陵衛士を拝命したことを告げた。先帝の墓守りを勤めながら外部から
 
新選組を応援するという伊東らの主張を、近藤、土方は認めざる得なかったのだろう
 
この日、分離は承認され、二十日になって伊東一派十三名は隊を去っている。
 
 
 

伊藤松坂屋跡
いとうまつざかやあと
(東京都台東区上野三丁目)
 
弘化二年、土方歳三が十一歳の折、丁稚奉公した呉服店。現、松坂屋。同店では、
 
入店後五年間は帰省できない規則があり、新人の丁稚に煙草盆や大八車の掃除等の
 
仕事を専門に行わせていた。土方も、住み込み奉公で熱心に働いていたが、些細な
 
ことから番頭に叱責され、殴られたという。しかし、納得できない土方は激しく番頭と
 
口論した末、その日の夕刻、店を無断退出して、そのまま日野石田村の実家へ帰った
 
家族の説得に応じず、土方は再び伊藤松坂屋には戻らなかったという。同店に往時の
 
名簿の資料は残らず、土方が奉公していた期間などは不詳。その後、土方は実家で
 
雑用にいそしんだ後、再び江戸の某家へ奉公に出たが、ここでは女性問題で中途退職
 
したという。
 
 
 

伊藤安右衛門
いとう やすえもん
(生没年末詳)
 
諱は惟清。箱館脱走役員外客員で、板倉勝静の身辺の世話をした。元備中松山藩士
 
身分は取次上席格、万之進様御付御休息御用向兼で、禄高六十石。慶応四年二月、
 
板倉勝静、勝全父子が日光山南照院に難を避けたとき、江戸から同行する。四月に
 
なって、父子が新政府軍に投降謝罪し宇都宮藩へ御預けになったときも供をする。
 
まもなく、土方歳三ら旧幕脱走軍による宇都宮攻略戦に紛れて会津へと向かう。
 
勝全に付き添い同地の浄光寺滞在後に仙台へ至る。ここに蝦夷行を決意した勝静と
 
榎本艦隊開陽艦への同乗を許された松山藩士は二名で、その一人に選ばれている。
 
新選組には加入しなかったようで、明治二年四月二十五日に勝静が外国船で蝦夷地
 
を脱出したときに同行した。
 
 
 

糸里
いとさと
(生没年未詳)
 
島原輪違屋の遊女。文久三年九月十八日、真夜中、平間重助と
 
寝ているところを、ふとんの上から二突き突き立てられたが、
 
声を立てず、死んだふりをして命拾いした。
 
 
 

因幡薬師
いなばやくし
(京都府京都市下京区烏丸通松原上ル東側)
 
境内で虎の見世物が開かれた。オウムやインコなど色鮮やかな鳥もおり、市中で大
 
変な人気となったが、虎は人が入ったぬいぐるみで、鳥は染物との噂が立ち、芹沢
 
鴨は隊士数人とともに化けの皮をはがしに赴く。檻の前で脇差を抜くと、虎が大声
 
で吼えたために本物と認めて引き下がったという。「新選組異聞」初出のエピソードで
 
真偽は不明だったが、高木在中の日記によって文久三年九月から一ヶ月以上、見世物
 
興行が催されていた事が判明。この出来事がきっかけとなって、やがて佐々木愛次郎
 
とあぐりが結ばれたとされるが、愛次郎は八月に死亡。
 
 
 

猪苗代城跡
いなわしろじょうあと
(福島県耶麻郡猪苗代町古城町)
 
一国一城が原則である江戸時代において、会津藩内の出城として、猪苗代城が機能
 
していたことは、まれでもある。慶応四年七月二十九日、二本松城を落城させた西軍
 
は、いよいよ会津に軍を進めることとなった。会津の東の守りとして、猪苗代城の役
 
割は重要となり、土方歳三や新選組率いる山口二郎も、この猪苗代城に派遣され、
 
駐屯した。西軍の進軍が知らされたので新選組隊士たち東軍は、藩境の母成峠に向
 
かった。しかし、八月二十一日の戦いで母成峠は一気に突破され、猪苗代城に後退
 
したが、その勢いに押されて猪苗代城もあえなく落城してしまった。建物はすべて
 
この時代に焼失してしまい、今は石垣だけが残されて、往時が偲ばれる。
 
 
 

(参考 新人物往来社)
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The music produced byDR(零式)さん


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