新 選 組 大 事 典
土方軍が蝦夷地江差進攻の途中、天然の要害である大滝山を利用した松前軍と戦った。 |
大滝は上ノ国の小砂子・石崎間にあり標高五四三メートルの山裾が海岸近くに落ち込み |
十三曲がりと呼ばれる道が中腹を走る。明治元年十一月十一日松前を出発した土方軍は |
十四日、大滝に大砲を構え防御する松前軍と交戦、容易に落ちず、土方は額兵隊一小隊 |
を率いて谷や山肌を縫い、敵陣の後方へ回り攻撃させた。松前軍は背後高所からの射撃 |
を受けて動揺し、隊長の戦死で江差に潰走する。土方軍が大滝を撃破して江差に入るの |
は十六日。しかしこの時、榎本艦隊の頼みとする軍艦開陽丸は風浪の為座礁していた。 |
(天保十三〜慶応元・一・八) |
高知出身土佐藩士。土佐勤王党の一人。正義、正樹。文久三年に脱藩し、翌年の禁門の |
変に参戦。敗走後は大坂に移り田中光顕や那須盛馬らと倒幕運動に参加する。石蔵屋政 |
右衛門方のぜんざい屋に潜伏していると谷川辰吉の密告により新選組の内偵を受け、谷 |
万太郎らに踏み込まれて闘死した。行年二十四。池田屋事件の際に捕縛された土佐人の |
大秋鼎は同一人物か。 |
(東京都千代田区神田小川町三丁目) |
神道無念流道場、撃剣館。永倉新八が初めて剣を学んだ。永倉は弘化三年頃に入門し、 |
十五歳の嘉永六年には切紙、三年後には本目録を授与され、その翌年に脱藩、百合元道 |
場、坪内道場と巡り、近藤勇の試衛館と出会う。錦華小学校南東の一角にあたる。 |
(京都市東山区縄手通り三条下ル西側) |
京阪電鉄三条駅南口を出ると石碑がある。小川亭は近江屋卯兵衛を名乗る肴屋「魚卯」 |
として諸藩用達、肥後藩邸出入りの商人であった。二代当主の死後、当時は女性名義の |
肴屋存続が許されなかったため、旅館「小川亭」に転業し、初代卯兵衛妻リセと二代美 |
濃吉の妻テイ(天保五年当時二十九歳)の未亡人二人が営んで諸藩志士の世話をした。 |
小川亭は離れが鴨川に面し逃亡しやすく勤王倒幕の謀議の場に好都合であった。元治 |
元年、肥後の宮部鼎蔵の下僕忠蔵が新選組に捕らわれ南禅寺山門にさらされるとテイは |
宮部に知らせ、桝喜から小川亭に居を移らせた。テイは池田屋事件後に犠牲者の回向を |
続け、大正十二年四月廃業、七月に九十歳で永眠。 |
(天保七〜明治四十一・四・二) |
沖田総司の次姉。越後三根山藩士中野伝之烝由秀・二十三俵二人扶持の妻。慶応四年の |
幕府瓦解後、二月二十五日には藩主牧野播磨守に従い、夫と共に江戸から領地(現・新 |
潟県西蒲原郡)へ去った。明治後は東京に戻り、東京下谷で七十三歳で没した。 |
(不詳〜慶応三・四・二十六) |
京都壬生の光縁寺に墓碑がある。過去帳にも身元記載はなく、戒名は「真明院照誉貞相 |
大姉」とある。同寺には沖田姓の檀家がなく、新選組隊士の埋葬場所であったことから、 |
沖田総司個人の関係者と思われる。また総司の戒名「賢光院仁誉明道居士」との対比か |
ら彼の内縁の妻であったとも言われている。後年過去帳に「大阪酒井意誠」なる人物が |
弔いに訪れたことが記載されているが、その後の記録はなく、墓に眠る女性や総司との |
関係は不明。 |
福島県いわき市の某神社に所蔵されていた短冊。「動かねば闇にへだつや花と水」とい |
う句と、裏面に別人の筆跡で「従五位新選組沖田総司」とある。句の内容は総司の晩年 |
を思わせるが当人の作かという真偽は明らかではない。 |
年賀状三通と一般の書簡四通を残す。そのうち、元治元年三月二十一日付で佐藤彦五郎 |
に宛てたものは山南敬助の死を伝える。山南の切腹は二月二十三日だが沖田は「去月二 |
十六日、山南兄死去仕候間、ついでをもって一寸申上候」という形で記している。期間 |
も短くそれまでの交流からも単に記憶違いとは考えにくく、二十六日が当人の葬儀であ |
った可能性もある。 |
沖田総司は池田屋事件当夜に持病の肺結核(労咳)が再発して喀血昏倒した、と一般的に |
知られる場面だが、当事者の永倉は昏倒のみを伝え喀血については触れておらず、猛暑 |
の当夜、他の原因により倒れたことも考えられる。翌月の禁門の変には九条河原に出陣 |
している事から、重度の発症とは考えられない。史料的に沖田が病気と明らかになるの |
は慶応三年十月十三日付で小島鹿之助が近藤勇に宛てた見舞いの文面や、隊士池田七三 |
郎が十一月に稽古を受けたが十二月は病中だったとする談話等であり、総司自身も郷里 |
に向けて「病気だったが最早大丈夫」と認めている事等から、この秋前後には他人から |
も病状を気遣われる程に進んでいたと思われるが、潜伏期間の長い病気だけに、罹患や |
発症そのものの時期はさらに以前、或いは幼少時からかもしれず、特定は困難であろう。 |
(天保四・四・八〜明治四十・十一・二) |
沖田総司の長姉。十四歳で婿養子の井上林太郎と結婚、沖田の家名を残す。沖田林太郎 |
は文久三年の浪士隊上洛に同行したが江戸へ戻り、新徴組組頭となる。幕府瓦解後、同 |
組を預かる酒井候の所領、出羽庄内引き揚げに伴い、林太郎、ミツ、子供四人も慶応四 |
年二月二十六日には江戸を立ったので、京都から戻り療養中の弟、総司の末期を看取る |
ことは出来なかった。明治五年、東京に戻り墨田区向島梅屋敷に住む。明治十八年、夫 |
林太郎が五十八歳で死去すると、ミツは仙台塩釜の長男芳次郎と同居するが、彼も貧窮 |
の中、同二十四年に三十九歳で早世する。その後は末子の卓吉と長女イシの婚家に身を |
寄せ、卓吉が成人して満州鉄道技手となり旅順に赴任すると、彼を追い七十四歳で大連 |
に渡る。翌年、卓吉と嫁ハルのもとで永眠、行年七十五。戒名は至誠院実誉妙精大姉。 |
(不詳) |
近藤勇の愛妾深雪太夫の妹。元は大坂新町遊郭吉田屋の御幸(ごこう)太夫という。 |
吉田屋は主を木村喜左衛門といい、夕霧・伊左衛門、また芹沢鴨に髪を切られた小虎太 |
夫の逸話で知られる。姉深雪の死後の慶応元年頃、近藤は妹の御幸ことお孝を、用達の |
京屋忠兵衛に仲介を頼んで身請けし、京都の休息所に住まわせた。島田魁の談話では年 |
は二十歳くらいの美人、原田左之助妻マサの談話では、近藤は「おこう、おこう」と呼び |
可愛がっていたという。彼女のいた醒ヶ井木の休息所には、油小路の変当夜の伊東甲子 |
太郎が招かれたり、病気療養で匿われた沖田総司が高台寺残党の襲撃を受け一足違いで |
免れた、という逸話がある。お孝は慶応三年十二月に新選組が京を去るまで近藤に尽く |
した。この間にお勇という一女が生まれ、後に馬関の芸妓として明治維新政府の閣僚の |
贔屓を受けた等という後日談もあるが、女児誕生の真偽は不明。 |
(不詳) |
戸塚村(東京都新宿区早稲田)の三味線屋の一人娘で佐藤家の遠縁。土方歳三の長兄為次 |
郎が義太夫を趣味とする事から於琴を知り、義兄佐藤彦五郎の世話で、歳三の許婚とし |
たと伝わる。長唄は名取り、太棹の名手で美人だったという。しかし歳三が「男子一生 |
の大事を成し遂げぬうちは」と結婚による拘束を拒んだため、歳三の死に至るまで婚約 |
者のままだったという。歳三も隊士募集の為帰郷した折には於琴の家に立ち寄った、と |
言われるが、その後の彼女の消息は不明、婚約は周囲の伝承による挿話である。 |
(生没年不詳) |
元肥前唐津藩士。父は尾崎嘉右衛門。別名俊蔵。戊辰戦時は白井勇、維新後は堀川慎。 |
箱館脱走軍役員外客員で、唐津藩旧世子小笠原長行の身辺の世話をした。慶応四年三月 |
三日、長行が江戸深川藩邸を脱出した時に供を命ぜられ、金銭出納の「簿暦」という会計 |
及び備忘録を残した。同年九月仙台から榎本艦隊開陽丸に蝦夷渡航となった長行に同乗 |
を許された藩士二人のうちの一人。のち桑名藩松岡孫三郎と十二月頃金策の為外国船で |
東京に戻り、翌二年一月から二月頃箱館に戻る。四月二十五日、長行が外国船で蝦夷脱 |
出の時にも同行した。 |
慶応四年閏四月〜五月、今市の戦闘における幕軍戦死者合祀墓。今市宿東木戸方面に野 |
晒しであった遺体を地元の人々が埋めたもので、西木戸付近にも同種の墓が数ヶ所ある。 |
永倉新八の遺稿には靖共隊で戦った矢田賢之助が今市で戦死、高徳宿高徳寺に首を葬る |
とあるが、矢田はこの和尚塚に合葬された可能性もある。現・栃木県今市市今市五十七 |
番地付近。 |