新 選 組 大 事 典
(京都市東山区泉涌寺山内町) |
本尊の釈迦如来は重文。正保二年以降、泉涌寺の塔頭。元治元年の上洛以来新選組参謀 |
であった伊東甲子太郎が分離脱退し、慶応三年三月十日戒光寺長老湛然の世話で孝明 |
天皇の御陵衛士を拝命する。同年十一月十八日、伊東は近藤勇の妾宅を訪ねた後で暗殺 |
され、七条油小路に遺体を引き取りに来た衛士らと新選組の決闘となり、伊東の実弟 |
鈴木三樹三郎、篠原泰之進、加納道之助、富山弥兵衛は薩摩藩邸へ逃走したが、現場に |
残った藤堂平助、服部武雄、毛内有之助の三名が激闘して討死した。四名の遺体は新選 |
組墓地のある壬生光縁寺に埋葬されたが、敵の手により葬られたのでは残念との意味で |
慶応四年三月旧同志の篠原らが戒光寺墓地に改葬した。 |
(天保十二・十一・十五〜大正四・三・十八) |
茨城県御前山村の産。水戸藩を脱藩後、岩倉具視や中岡慎太郎を知り土佐陸援隊に走る。 |
戊辰戦争時は東山道先鋒軍副参謀格。新選組流山布陣を知り、京都での坂本龍馬と中岡 |
暗殺や自身が襲われた過去から交戦を望んだが、近藤勇の投降により捕らえて板橋へ送 |
った。薩摩の有馬籐太らの同情論に対し、近藤の斬首を強硬に主張したと伝わる。その |
後宇都宮へ転戦し、後に伯爵、皇后の宮太夫等を歴任し天寿を全うす。墓は東京都港区 |
青山墓地。 |
(文政六〜明治二・二・二十六) |
金子劇蔵、堯運。武州新座郡根岸村の出。東叡山大慈院堯覚の弟子から真如院義厳につ |
き、二十六歳で住職となる。公現法親王から覚王院の名を賜り輪王寺宮執当となる。 |
慶応四年、上野の彰義隊を扇動、主戦論を唱えたが壊滅後は逃れ、六月二日には会津若 |
松城に入る。宇都宮で足を負傷し療養中の土方歳三と同十五日に会見。十八日、輪王寺 |
宮と若松を出て七月二日に仙台の眺海山仙岳院に入る。九月に捕らわれ東京へ移送、罪 |
状決定前に病死、または絶食による死ともいう。行年四十七。墓は都内台東区上野公園 |
の真如院。 |
戊辰に際して編成された仙台藩精鋭部隊。三十歳次男以下の藩士八百名から成る。別名 |
楽兵隊。指令は星恂太郎。平時は赤、戦時は黒の英国式隊服を用い、西洋式調練を行っ |
た。藩論が恭順に転向すると星以下二百五十名は脱走して旧幕軍に投じ、藩の追及をか |
わす為、星は春日左衛門の協力で梅田帯刀と変名し一時野村利三郎率いる新選組に潜伏 |
した。明治元年十月、軍艦回天で蝦夷に渡り、土方歳三の指揮下、間道より箱館に至り |
松前江差へも従軍した。翌年四月、官軍の分進に対し星と二小隊は木古内、三小隊が富 |
川に布陣、木古内戦三度を経て二十九日、伝習歩兵隊、衝鋒隊等と矢不来から有川にか |
けて激戦を展開する。五月十一日の箱館市街戦には土方、見国隊、神木隊らと出陣した |
が回復は叶わず千代ヶ岡へ退き五稜郭にこもったが、十八日に恭順、解兵した。 |
(文政元〜明治五・二・二) |
長田氏。政達。入替両替、大名貸を営む大坂の豪商、大川町に店を構える。「加作」とも |
呼ばれる代々の作兵衛のうち九代政達は京都三井家からの婿養子である。文久三年六月、 |
芹沢鴨は、大内真蔵、石沢千吉という者を同店へ差し向け、三十両を借り出し、いずれ |
命があれば返済するという証文を残した。使途は遊興費と思われる。翌元治元年十二月 |
近藤勇が京都守護職御用として大坂二十二の豪商に銀子六千六百貫目、金なら七万一千 |
両を用立てるよう申し付けると、鴻池につぐ金額五千四百両を負担した。また、慶応三 |
年十二月八日土方歳三が当家を含む十家から四百両ずつ借り出しており、常に資金調達 |
源とされた。政達の墓は大阪市中央区中寺一丁目雲雷寺。 |
(弘化二〜明治二年五月十二日) |
幕臣。鉄三郎。慶応四年の彰義隊結成で第二黄隊隊長、のち頭並。上野の敗戦後、旧幕 |
府陸軍奉行並の松平太郎と陸軍隊を組織、海路奥州へ渡る。この時は新選組の相馬主計 |
と野村利三郎が隊に加わっている。その後は榎本武揚らの脱走軍に合流、蝦夷地箱館へ |
渡航。春日は榎本政権で歩兵頭並、陸軍軍隊長を努め、翌明治二年五月、亀田の戦闘で |
受けた戦傷により五稜郭内で没した。新選組田村銀之助の養父となり田村が最期まで看 |
病したとも伝わる。墓は東京都荒川区南千住一丁目の円通寺。 |
武州日野宿寄場名主の佐藤彦五郎(土方歳三の義兄)が、天然理心流門人を中心に、文久 |
三年に「日野農兵隊」を結成。慶応四年三月三日、甲陽鎮撫隊が甲府へ向かう途中佐藤 |
家に寄り、農兵隊の中から三十余名を選び新たに「春日隊」を組織し、彦五郎は隊長と |
して春日盛を名乗るが、近藤ら鎮撫隊と共に勝沼に参戦して破れ解散した。官軍により |
新選組や彦五郎の消息を留守家族が詮議されたという談話が伝わるが、当主の彦五郎は |
大久野に潜伏して難を逃れ、後に赦された。 |
(東京都港区赤坂六丁目十−三十九〜四十一付近) |
死後、土地を寄付した場所に建てられた氷川小学校正門脇に旧邸跡と記されており、 |
勝の談話集である書「氷川清話」はこの地の名から。勝は弘化三年に本所から赤坂田町 |
安政六年には赤坂氷川下に転居した。 |
慶応四年四月、五兵衛新田から流山へ転陣した新選組は近藤勇の官軍投降と捕縛という |
事態に急転し、土方歳三は少人数で江戸へ潜入、四日氷川下の勝邸を訪れ近藤の助命を |
頼んだ。海舟日記には「土方歳三来る。流山顛末を云う」とのみ記されている。 |
維新後の明治二年には新選組の生き残り隊士である梶谷麟之助が金銭の無心に勝を訪ね |
三両を与えられている。 |
(山梨県東山梨郡勝沼町勝沼) |
江戸時代は甲州街道の宿場で、十六町二十六間。旧柏尾村から等々力村の境まで。天保 |
十四年に戸数百九十二軒、人別七百九十六名。(男・三百九十四、女・三百九十二)本陣 |
は字上町、脇本陣は字上町と字本町にある。 |
慶応四年三月三日、甲陽鎮撫隊の大久保大和(近藤勇の別名)ら約百七十名が本陣、脇本 |
陣、問屋、鍵屋などに分宿し「護国隊御止宿所」の札を立てた。鎮撫隊隊士の大半は無 |
造作に髪を束ね白布の鉢巻、筒袖の着物に袴、脚絆に草鞋ばき、短い鉄砲と大刀を綾に |
結んで背負っており、髷を結う者はわずかだった。鶏卵一個、鼻紙一帖買うにも二分金 |
を投げ「釣りはいらん」と言ったという。当時は二分で米六升が買えた金額である。馬 |
は十頭ほど本陣前に繋いでいたが、宿営する時は荷問屋田中新右衛門方の厩に入れた。 |
子母澤寛「新選組始末記」「新選組遺聞」「新選組物語」の三部作を昭和三十七年出版 |
の全集(中央公論社)第一巻として再編集し補筆削除をしてまとめたもの。昭和四十二年 |
同社から改訂の単行本、昭和四十四年に角川書店から文庫本が同内容で出版された。 |
同著は「随筆とも小説とも記録とも史談ともつかぬもの(小松伸六氏の角川版解説)」で |
あり、記録や史談の要素が強い「始末記」から創作性の強い「物語」も入り混じった構 |
成となった。また、昭和二十四年に玄理社から「始末記」と「遺聞」を合わせた形の |
「新選組始末記」も出ている。 |
三条縄手の戦いの一環としての事件。文久三年八月二十一日、禁門の変の罪を問われ |
人相書で手配された桂小五郎を追い、新選組が鴨川の西、三条大橋北に出動。川沿い |
の妓楼を河原に梯子をかけて裏表から急襲したが桂はおらず、従者二人を捕らえた。 |
島田魁によれば明治後の祭木町、当時は石屋町に当たり、桂の馴染・芸妓幾松のいる |
三本木の吉田屋が三条大橋を挟んで至近にある。この時とは別に、吉田屋に潜伏中の |
桂を捕縛に向かった近藤勇がその座敷で、小五郎を逃した幾松が顔色一つ変えず静か |
に舞っていたのでそのまま引き下がったという有名な逸話は、架空である。 |
元治元年八月頃、新選組内部で起きた事件。永倉新八、斎藤一、原田左之助、尾関雅 |
二郎、島田魁、葛山武八郎の六人が、局長の近藤勇の非行五ヶ条を挙げ、増長と専制 |
があるとして会津藩に建白書を提出した。守護職松平容保の仲裁で収まったものの、 |
上長批判の罪で伍長の葛山が責任を取り九月六日に切腹した。永倉は謹慎処分となり |
当時作成された行軍録に名が記載されていない。 |
葛山が最も強硬な造反者だった為の切腹と考えることも出来るが、永倉自身は「副長 |
助勤三人が主導してあとの三人が従った」と証言。立場の軽い葛山のみが、隊内への |
一罰百戒の意味で死罪となった、とも考えられる。 |
昭和四十九年暮に発見された、二つの系統からなる文書で、近藤勇らが五兵衛新田に |
宿陣中、本陣とした金子左内家のもの。一つは新選組に関わるもので、代官佐々井半 |
十郎から松本良順・近藤勇への書状、近藤勇の写真、「のし 金千疋 大和」の謝礼 |
包み紙、等。その他は当主健十郎に関する文書で、代官所への届書や村民への口上の |
草稿、覚書一冊など。この「おほえ(覚え)」は新選組屯集当夜の三月十八日から書き |
始められており、新選組の日々の動向がわかる。 |
(東京都足立区綾瀬四丁目) |
通称左内家。五兵衛新田の名主屋敷で敷地三千坪、間口九間の長屋門と百四十坪の曲が |
り家造りの母屋と用水堀を持つ。慶応四年三月勝沼の戦に破れた近藤らが、浅草今戸を |
発ち下総流山への転陣の途中、この屋敷に滞在して兵の募集を行った。新選組の屯所設 |
営の先遣隊四十八名が同家の門を叩いたのは三月十三日の夜半で、以後四月一日までの |
十九日間、本陣となった。 |
(東京都品川区南品川三丁目) |
品川宿、品川寺門前の立場茶屋(もとは宿場間の馬子や人足の休息所から旅籠に発達し |
たもの)。釜屋は特に幕末には幕府の御用宿であり、幕臣が東海道往来中に休息、宿泊 |
した記録が多く残っている。新選組では、慶応三年十月二十一日、土方歳三が江戸で隊 |
士募集をした帰り、新入隊士ら三十名とともに昼食をとっている。翌年一月、鳥羽伏見 |
の戦の後、海路江戸に帰還した新選組が、十五日から二十三日まで滞在した。昭和五十 |
四年に立てられた釜屋跡の駒札は現存していない。 |