新 選 組 大 事 典
近藤勇の和歌はあまり残っていないが、以下のものと、他には中島登の所持していた和 |
歌で「偸州」という号の署名入りのものがある。 |
・小野路村の橋本道助宅の花見の宴で詠んだ歌 |
山守の使いは来ねど 馬に鞍 置いてぞ待たん 花の盛りを |
・井上通泰著「南天荘墨宝解説」(春陽堂・昭和五年)所載 |
(殷箕子) |
かくれても 臣てふ道をつくしたることは調べの名に残りけり |
(夢) |
ぬばたまの夢にてみれば もろこしも枕のやまのあまりなりけり |
(小楠公) |
吉野山 花と匂はむ あづさ弓 引きかえさじの きみがことの葉 |
(文久二・二・十五〜明治十九・六・二十七) |
近藤勇と妻ツネの間に生まれた一粒種の娘。瓊子。勇が浪士隊参加で上洛した後は母と |
江戸で暮らし、タマ七歳の祝いに、勇は京都西陣織の帯を贈った。古代紫の地に小さく |
鶴が飛ぶ柄の、金糸金箔入りの高級品であり、後に三つに裁断されて刀袋に直されその |
一つが現在勇の生家分家の宮川雄三家にある。 |
父の死後は宮川音五郎(勇の長兄)方に母と身を寄せ、十五歳の折音五郎の息子、勇五郎 |
二十六歳と結婚、近藤姓を残す。明治十六年八月七日に一子久太郎を生み、もともと体 |
が弱かったタマは、明治十九年六月二十五歳の若さで早世する。母のツネは悲嘆のうち |
に六年後に死去。遺児の久太郎は成長して日清戦争に出征し、高力屯で戦病死した為、 |
近藤勇の直系はここで断絶した。タマの墓は、菩提寺である東京都三鷹市大沢六丁目の |
竜源寺にある。 |
(天保八・九・十〜明治二十五・七・二十) |
近藤勇の妻。江戸の清水家(御三卿の一つ)家臣松井八十五郎の長女に生まれ、若い頃は |
一橋家の祐筆を務めた。万延元年三月に勇と結婚。一説に、ツネは顔立ちは良くないが |
心ばえがゆかしいので勇が選んだ、と伝わる。勇の生家分家の宮川元克氏の話では、ツ |
ネは生まれつき唇に傷があったそうである。文久二年に一女タマ(瓊子)を生むが、勇と |
の結婚生活は実質三年ほどのもので、文久三年に夫が浪士隊参加の為上洛した後は養父 |
周斎と娘の世話をしつつ江戸の留守を守る暮らしであった。武家出身のツネであるから |
夫の単身赴任を当然の事として耐えられたのであろう。養父周斎は慶応三年に病死し、 |
夫勇の刑死後は、宮川音五郎(勇の長兄)宅にタマと身を寄せた。音五郎の子・勇五郎を |
婿に迎え一子久太郎という初孫を得たのも束の間、娘のタマが病死する。ツネ自身は再 |
婚せず、孤独と忍耐の多い生涯を終えた。夫と娘の墓がある三鷹市竜源寺には、ツネの |
墓石、墓碑銘はない。 |
(東京都千代田区富士見一−三−八辺り) |
近藤勇の妻ツネの実家松井家付近は古地図で見ると武家屋敷が多く、当時は静かな屋敷 |
町であった。現在JR飯田橋駅、東京方面と反対側の改札口を出ると左が警察病院、右 |
は大通りを隔てて神楽坂方面となる。左の警察病院方面の坂道の勾配が緩やかな辺りを |
歩き、病院を過ぎて反対側左奥の井上歯科付近がツネの実家跡にあたる。レストランや |
喫茶店、商店が建ち並ぶ賑やかな場所で、往時とは様相が変わっている。 |
慶応四年、甲州出陣に敗戦した新選組は武蔵国五兵衛新田から流山に転陣した。江戸は |
既に新政府軍によって押さえられ、勝海舟と西郷隆盛の会談によって幕府軍の行動は一 |
切認められない情勢になっており、旧新選組の人数も十人程に減っていた。ここへ来て |
近藤が土方と袂を分かち一人で投降する事になったのは、土方は会津へ転戦する覚悟で |
近藤にも死に場所を選べと説得したが戦意を失った彼の承服を得られなかったとする説 |
もある。しかし、鳥羽伏見の敗戦以降、刀槍で勝負する武士としてより軍人として目覚 |
めつつあった土方に対し、若年寄格という名誉を受けていた近藤は、飽くまで武士とし |
て身を処したいと考え、部下の今後も考えて去らせ、頭領として自らが出向いたのであ |
ろう。 |
(嘉永四・十二・二〜昭和八・二・十三) |
近藤勇の長兄宮川音五郎次男。慶応四年四月、板橋で処刑される叔父勇の最期を偶然目 |
撃し、直ちに親類たちと協議し、勇の門人寺尾安二郎の協力を得て、一夜をかけて首の |
ない遺体を掘り返し三鷹の竜源寺に運んだ、との談がある。明治九年二十六歳の時、勇 |
の娘タマ(瓊子)十五歳と結婚し、近藤姓を継ぎ、後に一子久太郎をもうける。この結婚 |
の条件として宮川家では土地を分け家を新築する約束だったがなかなか実行されず、勇 |
の未亡人ツネが怒り畳を裏返して自害を図り、ツネはその後も度々自殺を企てたと伝え |
られる。勇五郎と義母ツネの折り合いはあまりよくなかった。タマが早世すると勇五郎 |
は三度目の妻カンを迎え新吉他五人の子をなし、自身は勇の刀流を継ぎ、天然理心流五 |
代目となって多数の門人を育成した。顔立ちは好男子の事業ずきで、朝鮮朝顔の栽培や |
材木屋も手がけたが不成功であった。新選組の取材に来る作家の子母澤寛を「コモザワ」 |
と呼び「あんてこともねえ」(どうということもない)が口癖だったという。享年八十三。 |
墓は東京都三鷹市竜源寺、戒名は武徳院忍翁尚勇居士。 |