新 選 組 大 事 典


新選組物語
しんせんぐみものがたり
 
 
子母澤寛の新選組著作の第三作。昭和六年に「文藝春秋」に連載された「野話聞書」のうち
 
「月下の死骸」を除く七編に加筆して、同年十二月に春陽堂から出版された。昭和三十年
 
にも鱒書房より出版、現在は前二作と共に中公文庫から出されており、「新選組物語
 
(八編)」に加えて「新選組」「新選組聞書―稗田利八翁思出話―」「流山の朝」を加えている。
 
「新選組」は昭和十年に出版された「維新歴史小説全集」(改造社刊)の第七巻「新選組」の読
 
物の部分である。本書は題名の通り物語であり創作性が強い。
 
 
 

新徳寺
しんとくじ
(京都市中京区賀陽御所町四八)
 
臨済宗永源寺の末寺。文久三年二月二十三日に京に入った浪士隊が三月十三日に江戸へ出
 
立するまで本陣となった。浪士隊取締役十九人、五番隊・六番隊と共に清河八郎が宿泊し
 
た。京へ着いたその晩に清河は浪士組全員を新徳寺の本堂へ集め、尊攘建白書提出の大演
 
説を行ったといい、その本堂は当時のまま残されている。
 
 
 

新福寺
しんぷくじ
(東京都文京区白山三丁目一ノ二十三)
 
浄土真宗日日山礫川院新福寺。京都の東本願寺の末寺。近藤勇が東下した時の江戸での宿
 
泊所。当時住職の第二十世祐泰が病気で上京出来ず、梵字と袈裟を用いる許しを得るため
 
の嘆願書を、在京の近藤が代理で書いて東本願寺に提出。慶応三年十一月に近藤が東本願
 
寺家士間宮内あてに出した手紙が東本願寺史料に記録されている。その中に「下拙(私のこ
 
と)江府表寓住新福寺儀、毎々御厚情ニ相成、万々奉謝候」という文があり、江戸で世話に
 
なった事が書かれている。新福寺は戦災で消失したため記録などは残されていないが、江
 
戸切絵図で見ると今より寺域は広かったようである。伝通院から徒歩十五分、地下鉄茗荷
 
谷駅から徒歩十分、池袋〜上野公園間の都バスで白山二丁目下車徒歩二分。
 
 
 

神保山城守邸跡
じんぼやましろのかみていあと
(東京都墨田区菊川二丁目)
 
新選組原田左之助がここで死亡したとされる地。従来は永倉新八の記録によって「本所猿江
 
町神保伯耆守邸で死亡」とされていたが、伯耆守邸は神田、猿江町付近には山城守邸があっ
 
た。どちらの神保も慶応年間に大目付を務めており、永倉の記憶が混乱したと思われる。
 
原田左之助は近藤土方ら新選組と別れた後、永倉と共に精共隊として行動していたが、慶
 
応四年四月十四日に離脱して一人江戸へ引き返した。そこで上野戦争に備えていた神保山
 
城守の隊に合流、参戦したらしく、五月十五日の戦いで重傷を負い、翌々日にその屋敷で
 
絶命したと伝えられている。
 
 
 

杉山松助
すぎやま まつすけ
(天保九〜元治元・六・六)
 
名は律義。吉田松陰門下。萩(=長州)藩足軽から士籍に列す。文久三年五月、久留米
 
に赴き真木和泉の解禁に尽くし、真木らと東上して尊攘運動を展開、堺町御門の変後も
 
京都の長州藩邸に潜み、朝議回復の機会をうかがっていた。
 
長州藩の桂小五郎や同京都藩邸留守居役の乃美織江の手記によれば、元治元年六月五日
 
夜、杉山は池田屋の会合には出席していない。桂が池田屋へ出かける時に同行を請うが
 
許されず、「自分が出て行った後は門を固く閉めて誰も出入りさせてはならぬ」と命じ
 
られたが、事件の報が入ると桂の身を案じ、槍を抱えて屋敷を飛び出した。加賀屋敷前
 
で会津、桑名の藩兵と遭遇、斬り合いとなり腕を深く斬られ、血まみれになって駆け戻
 
り「御門お差し留め」と叫んで昏倒、手当の甲斐なく翌朝絶命した。享年二十七。墓は
 
京都東山霊山、萩市浜崎町泉流寺。会合出席者ではないものの、京都岩倉三縁寺の池田
 
屋殉難志士碑にも名前があがっている。
 
 
 

墨染
すみぞめ
(京都市伏見区墨染町)
 
慶応三年十二月十八日の夕刻、旧御陵衛士の篠原泰之進、阿部十郎ら数名が、京都から
 
伏見奉行所へ帰陣する途中の近藤勇を待ち伏せて銃撃、負傷させ、護衛の列に斬り込み
 
死者を出した場所、とされている。しかし、後年の阿部による史談会での談話や、当時
 
伏見に駐屯していた薩摩支藩都城隊の本営への報告記録によると、襲撃現場は墨染から
 
約一キロ南方の丹波橋筋付近だったようである。
 
 
 

角屋
すみや
(京都市下京区西新屋敷揚屋町三十二番地)
 
京都の遊郭島原の揚屋(お客を揚げて遊ばせる店)。
 
島原は以前から唯一の官許の遊郭であったが、寛永十八年所司代板倉宗重の命令でこの
 
朱雀野へ突然移転を命じられ、その混乱ぶりが前年の島原の乱に似ていたので「島原」
 
の名になったという。幕末の頃も、新選組屯所のある壬生から島原の灯りは見え、若い
 
隊士らの心を誘ったと思われる。
 
「角屋」は中でも格式が高く、表を格子造りにした木造二階建て。「緞子の間」「翠簾
 
の間」「青貝の間」などがそのまま残る。この店には西郷隆盛、久坂玄瑞らもよく遊ん
 
だといい、倒幕佐幕を問わず客を迎えた場所である。
 
新選組との関わりとしては、文久三年六月の宴会の最中、芹沢鴨が角屋の扱いが気に入
 
らぬと大暴れして七日間の謹慎を言い渡した事件がある。同年九月十八日の夜、同じ角
 
屋の会合で酔った芹沢は壬生屯所に帰り暗殺された。
 
現在、角屋玄関口前の柱の傷には「新選組の刀痕」という案内板が取り付けられている。
 
見学は申し込み制。(電話075−351−0024)
 
 
 

靖共隊の分裂
せいきょうたいのぶんれつ
 
 
慶応三年三月の甲州敗戦後、江戸に戻り近藤勇と袂を分かった永倉新八は、原田左之助、
 
矢田賢之助と共に、深川冬木弁天境内に住む旧友の芳賀宜道を訪ね、新組織の結成を持
 
ちかけ、すぐに話は纏まり趣意書を認めて同志を募集した。これに応じた元新選組の前
 
野五郎、林信太郎、中条常八郎、松本喜次郎及び幕臣、諸藩の脱走者など、約五十名で
 
精共隊を旗揚げした。陸軍奉行並松平太郎は精共隊を公認し、歩兵五十名を増派したと
 
いい、松平の指示で江戸城和田倉門内会津屋敷跡に屯営を移し、旧幕府第七連隊と共に
 
軍事訓練を行い、江戸開城前夜に脱走して北本所出村町霊山寺に集結。ここで隊の方針
 
について首脳部の意見が真っ二つに分かれ、伊藤隼之助以下五十二名を残し、永倉ら約
 
五十名は四月十二日夜、同地を発って第七連隊に合流、関東各地に転戦する。しかし副
 
長の一人原田左之助は日光進軍中の山崎宿で離脱、江戸に引き返し彰義隊に参加した。
 
 
 

西南戦争と新選組
せいなんせんそうしんせんぐみ
 
 
明治十年、征韓論に敗れ西郷隆盛が下野すると、西郷に同調する鹿児島旧士族や諸国の
 
不平分子らが蜂起し、明治新政府との戦いが始まる。当時の警察では鹿児島出身の者が
 
多数巡査になっていたが、西郷と共に帰国した為、旧幕府方の士族らもこの機に多く採
 
用される事となった。その中には、会津に残り藤田五郎と改名していた旧新選組の斎藤
 
一、戊辰戦時には勇猛で知られた佐川官兵衛(佐川は大警部に抜擢)ら旧会津藩士、下
 
野から蝦夷まで土方歳三と行動を共にした谷口四郎兵衛ら旧桑名藩士などがいる。
 
一説に、薩長に敗れ逆賊の汚名を着せられた者たちは「戊辰の仇」と唱えて参戦したと
 
いい、巡査たちの中には他にも新選組関係者がおり、殆どが「新選旅団」に所属した。
 
新選旅団の名を聞いて西郷軍の桐野利秋(もとの中村半次郎)は「またあの新選組がや
 
って来るのか」と驚いたという。
 
藤田五郎は豊後口警視徴募隊にいて半隊長を務め、敵に斬り込みをかけ砲門二門を奪う
 
が、宮崎県の三川内で銃創を受ける。一方、土方の小姓だった市村鉄之助は西郷軍に参
 
加し戦死したという。
 
 
 

赤心沖光
せきしん おきみつ
 
 
山南敬助愛刀の刀工と言われるが、その名はあらゆる刀工名鑑を探しても見当たらない。
 
東京都町田市小野路に新選組博物館とも通称される「小島資料館」(現当主小島政孝氏)
 
がある。小島家は代々の寄場名主で、四代前の小島鹿之助為政は近藤勇と義兄弟の契り
 
を結んでおり、近藤をはじめ土方歳三、沖田総司、山南敬助らが天然理心流の出稽古に
 
訪れた。その山南の手柄話が小島家「異聞録」に記載され資料として残されている。
 
「新選組局長助山南敬助岩木升屋江乱入ノ浪士を討取、打折候刀、此時会津公ヨリ御賞
 
美として金八両拝領いたし候」
 
その際に折れた血染めの刀の絵も一緒に記され、刀の銘は「摂州住人赤心沖光」とある。
 
記載内容から見て、山南が京都で隊士を率いて巡回中、岩木升屋で不逞浪士を討ち取っ
 
た事件を指しているが、この事について他の新選組関係書物では触れられていない。
 
 
 

関田家
せきたけ
(東京都府中市若松町)
 
旧道の甲州街道沿いにあり、幕末当時の地名は常久村という。関田家は代々製油業を営
 
む傍ら荒物屋も兼ねており「あぶらや」と呼ばれ、古老は「店で石田散薬(土方家伝薬)
 
を売っていた」と伝えた。また、出稽古に来る近藤勇の為に屋敷内に二間ある家を建て
 
た。甲陽鎮撫隊出兵の時は後方病院の役を命ぜられ、土方から兵糧、弾薬等の輸送人夫
 
手配を依頼した手紙があり、ここで沖田総司が一時期療養したという話もある。現在、
 
店は営業していない。
 
当時の当主勘左衛門の長男庄太郎は近藤勇の従弟宮川信吉と仲が良かった。庄太郎は慶
 
応元年四月の土方による隊士募集に志願したが、跡取りという事で断られ涙を飲んだ。
 
その後の七月四日には沖田総司から宮川音五郎(近藤の兄)宛の書簡に、「関田君方江
 
も宜敷伝声被下候」と書かれている。宮川信吉は慶応三年に入隊、天満屋事件で若くし
 
て落命したが、庄太郎は北多摩郡北多摩村村長などの要職を務め、明治二十七年十二月
 
三日、四十七歳で没した。
 
 
 

膳所事件
ぜぜじけん
 
 
文久三年、近江膳所藩(現滋賀県大津市)で、家老を正義派の藩士が要撃した事件から
 
同藩の動静は常に幕府の注目するところとなる。また膳所藩は長州藩の為に斡旋し、脱
 
藩の士を長州に走らせた事で一層立場を悪くしていた。慶応元年、長州再征のため上洛
 
した将軍家茂は膳所城に一泊する予定だったが、将軍暗殺計画の噂が流れ、京都守護職
 
から「膳所藩士保田信解一派は長州と通じ、将軍来泊の機に不穏の企てがある。これを
 
取り締まり駆除しなければ相当の処置をする」旨の通達があった。この年五月、川瀬太
 
宰が捕らえられた事もあり、膳所藩としては更に嫌疑を受ける事を恐れやむを得ず保田、
 
阿閉、田河、槙島の四名を切腹、森、高橋ら七名を斬首に処して、幕府に陳謝した。
 
 
 

銭取橋
ぜにとりばし
(京都市南区東九条南石田町・伏見区深草勧進橋町)
 
竹田街道鴨川上に架橋、正式名を会姓寺橋。現在の勧進橋。
 
元治元年六月、池田屋事変の報に触発された長州勢が大挙入京し、幕府諸隊は鴨川九条
 
河原に出動、二十七日、長州軍進発の報を受けた新選組は銭取橋下に布陣した。「新撰
 
組始末記」の著者西村兼文の目撃記録によると土方、沖田、永倉、武田の出陣が確認さ
 
れ、池田屋昏倒と伝わる沖田も最前線に復帰していた事がわかる。同日この光景を目撃
 
した会津藩士伊藤弄花は、同年九月十日記憶をもとに彩色の幕府諸隊宿陣図を描き、現
 
在会津若松市の鶴ヶ城内に所蔵されており、その中には、二枚の板を重ねた往時の銭取
 
橋の姿と、新選組の陣地、隊旗が描かれている。
 
また、ここは慶応二年六月二十二日、新選組の武田観柳斎が薩摩藩内通の罪で斎藤一に
 
斬殺された場所とも言われるが、実際は除隊処分後、討幕運動に暗躍した為隊士らに斬
 
られたもので、同時代の史料は武田の死亡地を油小路竹田街道と伝えている。
 
 
 

芹沢、平山の暗殺
せりざわ、ひらやまのあんさつ
 
 
芹沢鴨の時に粗暴な素行についてはよく知られているが、直接にその身を滅ぼす事にな
 
った原因は文久三年八月十二日の大和屋焼き討ち事件であると言われている。町奉行所
 
は黒谷の会津藩本陣に使いを馳せ軍の派遣を要請、会津側も出兵の用意をしたといい、
 
この所業が自ら預かる壬生浪士の筆頭局長芹沢一味によるものと知った守護職松平容保
 
は近藤勇、土方歳三らを呼び芹沢の処置を命じ、京都残留以来、芹沢と協力してきた近
 
藤も彼等の粛清を決意する。まずは芹沢の右腕である新見錦を祇園に於いて詰め腹を切
 
らせて勢力を削ぎ、九月中旬、島原遊郭の揚屋「角屋」で新選組の会合が開かれた夜、
 
芹沢本人の暗殺を実行に移した。その日付は九月十六日とも十八日とも言われるが、雨
 
が十六日に降り、十八日は晴天だったという当時の日記から、十六日とする史料が正し
 
いとの説が出ている。
 
会合の後の宴会で芹沢は大酔し、腹心の平山五郎、平間重助と共に、雨の降りしきる中
 
を駕籠で壬生屯所八木邸に戻った。芹沢は愛妾お梅、平山は島原桔梗屋の吉栄、平間は
 
島原輪違屋の糸里と、それぞれに女を伴い床に入った。平山は玄関で倒れたまま起き上
 
がれないほどに泥酔、日頃深酒をしない為殆ど酔っていなかった平間や八木家の男たち
 
に担がれ寝所に運ばれた。芹沢と平山は奥座敷の十畳間で互いの間に屏風を立てて寝、
 
平間は玄関脇の小部屋で寝たという。八木家の妻子も同屋敷内に就寝しており当夜の目
 
撃談は作家子母澤寛の筆が入り生々しい表現で残されている。
 
夜半、邸内が寝静まったのを確かめた刺客たちは激しい勢いで芹沢の寝所に飛び込み、
 
瞬くうちに芹沢、平山、お梅の三人を斬殺して姿を消した。平間は別室にいたためか助
 
かりその夜のうちに逃走、吉栄は厠に行っていて難を逃れたらしい。刺客の顔ぶれには
 
諸説あるが、一説に近藤、土方、沖田、山南、原田といい、沖田は顔に軽傷を負ったと
 
もいう。この暗殺の時に付いた刀傷が現在も八木家の鴨居に残っている。芹沢、平山の
 
墓は壬生寺に建てられ、同年十二月には残る野口健司も処分され、芹沢派は消滅した。
 
 
 

ぜんざい屋事件
ぜんざいやじけん
 
 
元治元年末頃、浜田辰弥(後の田中光顕)ら土佐系浪士は大坂城の焼き討ちを計画、大
 
坂に潜入し道頓堀鳥毛屋を経て石蔵屋というぜんざい屋(大阪市中央区瓦屋町一丁目四
 
十番)を根城に準備を進めていた。この陰謀を新選組谷川辰吉が察知し、元治二年一月
 
八日、谷万太郎、谷三十郎、正木直太郎、高野十郎でぜんざい屋を襲撃した。浪士の多
 
くは不在だったが、大利鼎吉を斬殺、本多大内蔵の妻を捕縛して武器弾薬と書類若干を
 
押収した。この時の奮戦で正木が右腕を四寸、谷三十郎は足、万太郎は胸元にそれぞれ
 
手傷を負い、正木と谷万太郎連記で近藤、土方に宛てた報告書が残っている。騒動のあ
 
った場所には「贈正五位大利鼎吉遭難之地」碑が建ち「ちりよりもかろき身なれど大君
 
にこころばかりはけふ報ゆるなり」の辞世の和歌が刻まれている。
 
 
 

(参考 新人物往来社)
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