新 選 組 大 事 典


種田流槍術
たねだりゅうそうじゅつ
 
 
柄の長さ一丈一尺を定寸とした素槍を用いる。備中松山藩出身の谷万太郎の他、原田左
 
之助、島田魁らも使ったといわれる。流祖は大島流二代目大島雲平高賢の高弟種田兵馬
 
正幸である。槍の稽古には定寸を用いるが、実戦用には手の内に合わせて切り詰めた。
 
幕末期、この流派は槍・剣に対して最も良く使われ、工夫精錬された型数をもって、宝
 
蔵院流に次ぐ位置を占めていた。
 
 
 

玉野家
たまのけ
(東京都杉並区阿佐ヶ谷北三丁目)
 
元禄年間に住みついた大地主の家で、慶応四年甲州敗戦後の近藤勇が、部下三名と共に
 
三日間身を寄せたという伝承がある。勇の泊まった部屋は母屋からの離れで、倉とは廊v
 
下で通じていた。垣や大木が植えられ、表裏からも見えにくかった。部屋の一部は床に
 
抜け穴があり、万一の時は郊外に逃れられるようになっていた。現在は茶室として使わ
 
れている。
 
当時の当主豊次郎(天保十三年生まれ)の妹ダイが、三鷹の野崎村の医者吉野泰三に嫁
 
いでおり、勇は吉野と親交があり肩の鉄砲傷の治療も受けた縁で、玉野家に来たという。
 
滞在中、豊次郎の妻に勇が何か手伝いたいと申し出たため、土間にあったゴボウをキン
 
ピラ用に切ってもらった、また、「勤王方から仲間に入れと言われたが、ケツしゃぶれ
 
(相手を嘲笑する多摩言葉)と言ってやったよ」と笑っていた、という話がある。
 
 
 

だんだら羽織
だんだらばおり
 
 
新選組の隊服の通称。文久三年四月二日、大坂今橋筋の富商平野屋五兵衛方からの百両
 
の借金を元手に、揃いの羽織を大丸呉服店に注文して製作した。浅葱色の地で、裾と袖
 
に白く山形を染め抜いた割羽織だったという。このだんだら模様は芝居「仮名手本忠臣
 
蔵」にある赤穂義士の装束を模倣したもので、彼らの義士に対する憧憬がうかがえる。
 
芝居の羽織は白黒だが、浅葱色は武士の切腹裃の色でもある。
 
しかし、隊士の増加に伴い、全員に行き渡らず、もともと夏服として作られた麻の安手
 
の羽織だったため次第に誰も着なくなったといい、文久三年中は羽織の目撃談が多く残
 
っているが、元治元年になると確実なものはない。池田屋事変、蛤御門の変の頃までは
 
使用していた形跡があるが、それ以降は全く姿を消している。
 
 
 

千葉周作道場跡
ちばしゅうさくどうじょうあと
(東京都千代田区神田東松下町)
 
北辰一刀流玄武館。斎藤弥九郎の練兵館・桃井春蔵の士学館と並び江戸三大道場と呼ば
 
れた。区立千桜小学校敷地内に玄武館跡を示す「右文尚武」の碑がある。ここで山南敬
 
助が免許、藤堂平助が目録を受けたといわれているが、安政五年頃には阿比留鋭三郎と
 
大槻銀蔵が在籍していた記録もある。
 
 
 

長州下り
ちょうしゅうくだり
(慶応元年十一月・二年一月。但し広島まで)
 
幕命による近藤勇の西国出張。慶応元年十一月四日、長州訊問使・大目付永井主水正尚
 
志らに従い、近藤勇、伊東甲子太郎、武田観柳斎、尾形俊太郎の四名も広島へ下った。
 
同月二十日、国泰寺で永井らと長州代表宍戸備後介との第一回会談が行われた。長州側
 
は幕府の第二次征長は必然と覚悟し、表面は恭順を装うものの、防長二州全土を焦土に
 
しても無体な幕命には反抗しようという士民の意気込みを秘めていた。会談の後、永井
 
は懐中から書付を出し、給人(用人に次ぐ役目)近藤蔵之助(勇の変名)、近習を武田、
 
中小姓を伊東、徒士を尾形として「これは元京師新選組の者であるが只今は家来として
 
召抱えている。この者共を其方の国元へ差し遣わしたいので左様心得て取り計らって欲
 
しい」と言うと、宍戸は、それは防長二州の疑惑を解く為といってもかえって疑惑を増
 
す種であると主張、他所者の入国周旋を断固拒否した。二回の会談後、永井は十二月二
 
十六日に宿舎を引き払った。この滞在中、近藤はひそかにかの地の内情を探り、宍戸の
 
随員とも交わり今後の参考にし、京に帰ると詳細を会津侯に報告した。
 
慶応二年一月二十六日、大坂城で閣老小笠原壱岐守長行に長州処分裁許の伝達者として
 
任命があり、二月四日、小笠原は大目付の永井らを率いて海路広島に向かった。これに
 
先立って新選組では近藤、伊東、尾形、篠原泰之進の四名が一月二十八日に広島へ出発、
 
探索方として山崎烝、吉村貫一郎の二人が同行した。一行は二月三日に広島に入ったが
 
今回は交渉決裂の様相で、近藤と尾形が先に帰り、伊東、篠原は三月二十七日に京へ帰
 
った。探索方二人はその後も残って長州の情報収集を続けたと思われる書簡がある。
 
 
 

長州の間者
ちょうしゅうのかんじゃ
 
 
文久三年七月頃に入隊した長州系の新選組隊士達をさす。永倉新八の伝えるところでは、
 
いずれも長州出身とされる御倉伊勢武・荒木田左馬之允・松井竜三郎・越後三郎の四名
 
は桂小五郎から隊中偵察の命を受けて入隊し、京都浪人とされる松永主計と楠小十郎は
 
別途潜入した間者である、という。同年七月頃の名簿に松井以外五名は確認されている。
 
御倉ら四名は前歴から隊の国事探偵方の任を与えられたというが、その後彼らが幹部の
 
暗殺などを計画したため、新選組が反撃、同年九月二十五日、間者の一斉粛清を実施し
 
御倉・荒木田・楠の三名を壬生屯所前川邸で斬殺、他の三名は逃亡と伝わる。隊ではそ
 
の後彼らを芹沢鴨暗殺犯と喧伝した。近藤勇も間者の存在には苦慮し、大坂で一夜眠れ
 
ぬ夜を過ごしたと十月の書簡に書いており、間者の数は三名、暗躍を開始したのが八月
 
&中旬以降の事、と記している。
 
 
 

月形集治監
つきがたしゅうじかん
(北海道樺戸郡月形町)
 
明治七年の佐賀の乱に始まり、神風連の乱、秋月・萩の乱など打ち続く内乱で重罪囚が
 
続出したため、政府は十四年に月形にも集治監を置き、初代典獄の月形潔の招きにより、
 
杉村義衛(元新選組の永倉新八)が看守・剣術師範として明治十五年から十九年まで勤
 
務していた。明治十六年の寄留戸籍簿に「札幌県後志国小樽郡小樽村入船町一九九番地・
 
平民・杉村義衛・弘化二年四月生」とあり、遺稿の天保十年出生と記載が異なっている。
 
剣術師範を勤めた「演武揚」には旧幕臣山岡鉄舟の揮毫した「修武館」の額があり、そ
 
の名で呼ばれた。鉄舟が筆をとったのは杉村の仲介と伝えられ、大正八年の廃館まであ
 
ったが、旭川監獄に引き継がれて現在は旭川刑務所演武場に掲示されている。当時を偲
 
ぶ建物の一部は現在北海道行刑資料館(網走)に公開されている。
 
 
 

辻七郎左衛門
つじ しちろうざえもん
(生没年不詳)
 
もと江戸定府の備中松山藩士。通称を三蔵、後に左右。本姓は源、諱を忠貞、字を義卿
 
号を華潭。箱館戦争時の変名を神山七郎左衛門という。箱館脱走軍役員外客員で、板倉
 
勝静の身辺の世話をした。元の身分は御用人・公用人役で、禄高八十石。詩画に匠で温
 
厚沈着な人物。戊辰戦争に際して上野東叡山の宿坊に潜み彰義隊に呼応する動きを見せ
 
たが、五月十五日の戦争当日は不在で参戦していない。七月下旬、榎本艦隊鯨艦に乗船
 
し、後に別船で江戸を脱出。八月十二日朝出帆し、十九日夕、奥州寒風沢沖に着き塩釜
 
に上陸、二十日千台城下国分町庄司屋に至り勝静に会い同地に滞在する。後に蝦夷行を
 
決意した勝静と榎本艦隊開陽艦への同乗を許された二人のうちに選ばれた。蝦夷地滞在
 
中に詠んだ詩が伝わっている。
 
 
 
  盟破難為再挙謀  龍窮虎困走荒陬
 
  奸魁猶在豈軽死  決策先航海外州
 
 
 
  拠越依呉謀不全  荒陬流寓思悄然
 
  萍蹤一歳無尋処  谷地岡頭又送年
 
 
 
辻は箱館新選組には加入しなかったようで、明治二年四月二十五日に勝静が外国船で蝦
 
夷地を脱出した時にも同行。二十九日に仙台領勝見浦に達し、五月十日寒風沢から松山
 
藩に関係のある商船に乗り換え、五月十三日上総国松部で勝静と別れて上陸、東京まで
 
陸行する。勝静が自首すると二十九日に重原藩を頼り、主人の身代りを買って出たが、
 
幸運にも切腹差し止めの命が出て免れている。六月七日より重原藩預けとなり、許され
 
た後は同藩に抱えられた。
 
 
 

坪内主馬道場跡
つぼうちしゅめどうじょうあと
(東京都千代田区富士見二丁目)
 
心形刀流道場。JR飯田橋駅に近い東京警察病院裏手にあたる。永倉新八は文久元年頃
 
から坪内道場の師範代となり、その縁で近所の試衛館を知り、近藤勇と出会う。年次は
 
不明だが、島田魁も同じ道場で剣を学んでおり、新選組以前に二人が知り合いだった可
 
能性もある。
 
 
 

鶴岡町
つるおかちょう
(北海道函館町大手町と若松町一部の旧名)
 
土方歳三の姉のぶの夫佐藤彦五郎のメモに、歳三は「一本木鶴岡町」で討ち死にしたと
 
記されている。彦五郎のメモは歳三の部下からの聞き書きであり注目すべきものがある。
 
歳三の戦死地を鶴岡町とするのはこの記録だけであるが、「一本木鶴岡町」とするのは
 
意味明瞭でなく、一本木は現在の若松町の一部の旧名で、鶴岡町はその西隣に位置した
 
地名である。歳三の戦死地を一本木関門付近とする記録もあり、その関門と鶴岡町中心
 
部とは約一キロの隔たりがある。佐藤彦五郎への報告者は一本木を大字、鶴岡町を小字
 
と考えたのかもしれない。一本木、異国橋、鶴岡町と三説ある土方歳三戦死地の確定は
 
今後の研究が待たれる。鶴岡町は昭和四十年、大部分を大手町に、一部を若松町に合併
 
されて廃町となった。
 
 
 

寺田屋
てらだや
(京都市伏見区南浜町二六三)
 
土佐の坂本竜馬の定宿として、女将お登勢、養女お龍の名と共に有名な伏見の舟宿で、
 
現在も当時の姿をとどめ営業している。文久二年四月二十三日、薩摩藩の同士討ち事件
 
「寺田屋騒動」の舞台にもなった。
 
一橋慶喜の宇治進発警備、不穏人物の捜索などで、伏見一帯は慶応二年一月中旬から厳
 
戒態勢となり、新選組は一隊が十九日に大坂八軒屋へ人別改めに出張、また一隊が伏見
 
奉行所からの要請を受け、数日間伏見近辺の御用改めを行った。
 
十九日に坂本竜馬が上京、寺田屋に一泊し、二十日には洛中に潜入。二十一日、新選組
 
が寺田屋を改めた時竜馬は不在で、在宿中の長州藩士三吉慎蔵は押入れに潜入して難を
 
逃れた。二十二日、幕府密偵が薩長の周旋をする要注意人物でもある竜馬の京都潜入を
 
確認。この日に薩長同盟締結。翌二十三日、竜馬は寺田屋に戻ったが、二十四日未明、
 
伏見奉行所捕方ら幕吏の襲撃を受け、お龍の助けと短銃による応戦で危うく脱出した。
 
これに新選組は加わっていないが、同時代史料には襲撃側の捕方を新選組と誤認して記
 
述したものが散見される。
 
 
 

伝習士官隊
でんしゅうしかんたい
 
 
フランス式三兵伝習を受けた旧幕陸軍の一部。慶応四年四月、市川で大島圭介の指揮下
 
に入った大手町・小川町両大隊ら脱走諸隊が、蝦夷地渡島前後に再編成されて成立、滝
 
川充太郎を長とする二小隊が伝習士官隊。奥羽を経て、明治元年十月に箱館に至った。
 
同隊小泉喜三郎は土方歳三の一軍に属し、二十六日下湯川で新選組の野村利三郎と陸軍
 
隊長春日左衛門が対立した時に両隊の暴発を制止した。士官隊は翌二年四月、二股口を
 
応援、分進する官軍を迎撃。二十四日、伝習歩兵隊長大川正次郎が突出した滝川の無謀
 
を責めた時は土方が収めたという。二股の撤退後は、新選組と共に箱館市中を守り、五
 
月十一日、奇襲上陸した官軍兵と箱館山麓で戦い敗走、一本木付近で土方・額兵隊らと
 
合流して再戦。市街奪還はならず千代ケ岡に退く。十六日の同所陥落により五稜郭に籠
 
城。箱館病院入院中だった同隊士官坂根杢之助が官軍の和議勧告に際して五稜郭への使
 
者に立った。
 
 
 

伝習歩兵隊
でんしゅうほへいたい
 
 
伝習士官隊と同じくフランス式三兵伝習を受けた旧幕陸軍の一部。編成の過程も同様で
 
大手町・小川町両大隊と歩兵第七連隊などの脱走諸隊から再編された一隊。本多幸七郎、
 
大川正次郎以下三百余名。明治元年十月蝦夷地渡島。明治二年四月、官軍の上陸分進に
 
対し、手代塚靱負・山口朴郎両小隊が額兵隊らと共に木古内−矢不来で防戦。また大川
 
率いる三小隊が土方歳三指揮のもと衝鋒隊・伝習士官隊と共に二股口で激戦を展開した。
 
二十四日、士官隊(隊長滝川充太郎)の突出を怒った大川が叱責し、土方が双方を立て
 
て収めたという。矢不来・二股撤退後の五月一日夜、新選組、彰義隊、遊撃隊と七重浜
 
の官軍を襲い、三日、八日の夜襲に従軍。十一日諸隊と桔梗野方面に戦い、十八日の恭
 
順までは五稜郭に籠城・抗戦した。
 
 
 

天神横丁
てんじんよこちょう
(京都市中京区壬生辻町の一角)
 
四条烏丸口の綾小路通りだが、この地名は西靱負小路天神通りと混同されやすい。俗に
 
「壬生心中」と呼ばれる伝説の舞台となった場所。慶応元年梅雨時のある夜、新選組の
 
松原忠司が、ささいな事から紀州浪人西田(安斎とも)某を斬殺、悔恨の念にかられた
 
松原は浪人の住まいである壬生天神横丁へ遺体を送り届けた後、生活の面倒を見ながら
 
妻女のもとに通いつめるようになる。だが土方歳三に自らの非を咎められ発作的に切腹
 
未遂を起こして平隊士に降格、同年九月一日、二十七歳にして天神横丁宅で妻女と心中
 
して果てた、という話であり、子母澤寛の著作に載っている。この年の三月に新選組屯
 
所は洛西壬生村から西本願寺西六条境内に移転、天神横丁とは近距離にあった。当時こ
 
の区域は俗にいううなぎの寝床のような長屋が密集し、浪人風情が住むには格好の場所
 
だったため、ドラマの舞台設定に選ばれたと思われる。
 
 
 

伝通院
でんづういん
(東京都文京区小石川三丁目十四ノ六)
 
無量山伝通院寿経寺。徳川家康の母於大の方の菩提寺。現在、山門左側に「不許葷酒入
 
門内」の石柱があり、「浪士隊結成の処静院跡の石柱」という説明板が二枚立っている。
 
以前この石柱は処静院(所浄院)の前にあったが、同寺は後に火災に遭い廃寺となった。
 
伝通院門前(南隣)には福寿院(大黒天)があり、処静院はその北にあったといわれる
 
が、江戸切絵図や明治二十年頃の地図では西隣(現在の小石川三丁目二〜三番地)に表
 
示されている。文久三年二月、浪士隊は伝通院塔頭処静院を出発前の集会にも使用し、
 
八日に集合後、京都へ向けて出発した。処静院の細谷琳瑞和尚は公武合体論を唱え、山
 
岡鉄舟や高橋泥舟などとも交流があった為この場所を提供した。伝通院墓所には清河八
 
郎と蓮、七卿落ちの沢宣嘉などの墓がある。地下鉄の後楽園駅か春日駅から徒歩十五分。
 
 
 

(参考 新人物往来社)
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