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慶応四年一月、江戸帰還時に新選組隊士が乗艦した幕府軍艦。木製のスクリュー艦で、 |
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全長二百二十四尺、幅三十三尺、三百五十馬力。一八六四年米国製。慶応三年末以来、 |
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幕府軍艦開陽丸などとともに大阪天保山沖に停泊。翌四年一月、鳥羽伏見の戦い後に、 |
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下坂した新選組隊士は同月十日、富士山丸、順動丸の二艦に幕兵らと分乗し、東帰の途 |
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についた。富士山丸には負傷隊士、順動丸には可動隊士らが乗艦したとされ、新選組の |
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隊士の多くは富士山丸への乗艦を記録されているが、順動丸に乗艦した幕臣柳本柳佐は |
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同艦中で新選組負傷隊士を目撃しており、一定しない。両艦は十一日に兵庫沖を出航し、 |
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途中、紀州由良に停泊後、十四日に横浜で負傷者を下艦させた後、十五日に品川へ着港 |
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した。富士山丸は同年四月二十四日、西軍に接収された。 |
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(京都市伏見区市営桃陵団地) |
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徳川時代に伏見の町とその周辺八ヶ村を管轄した奉行所があった所である。定員は奉行 |
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一名、与力十騎、同心五十名であった。安政六年に奉行に就任した林肥後守忠交(上総 |
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請西藩主)が慶応三年五月に病没した後、幕府は後任者を任命せず、京都町奉行に業務 |
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を兼帯させた。新選組との関係について述べると、慶応三年十二月九日の政変後、新選 |
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組も前将軍に従って下坂したが、同月十六日には伏見に戻って奉行所に宿営した。一方、 |
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薩長両藩も、それぞれ先遣部隊を伏見へ進駐させたので、旧幕、薩長両勢力の前線部隊 |
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が、伏見で対峙する形となった。翌四年一月三日、鳥羽伏見での開戦にあたり、伏見口 |
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で新選組は繰り返し薩長陣地へ斬り込みをかけたが、装備に勝る敵の防衛線を突破でき |
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ず、逆に薩軍の砲撃により、奉行所は炎上し、新選組も会津その他の友軍とともに伏見 |
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を放棄して後退するのを止む無きに至った。 |
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明治二年四月、春を待っていた新政府軍は甲鉄以下四隻の軍艦と輸送船二隻に陸兵千五 |
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百人を乗せて青森港を出航、蝦夷乙部へ向かった。これを迎え撃つ土方歳三は、四月十 |
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日、二股に到着し、台場山を主陣地、天狗岳を前衛陣地として待ち受けた。新政府軍は |
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同日、駒井政五郎を長として江差を出発、十一日午後、天狗岳を攻撃し、これを落とし、 |
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台場山に迫ったが、土方軍の抵抗は堅く、戦闘は十六時間に及んだが、ついに抜く事が |
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出来ず、新政府軍は稲倉石に後退した。土方軍は弾薬三万五千発を消費したという。仏 |
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国教師ホルタンは上司のブリュネへの報告書に「味方ノ働キ驚クベシ、一人モ怠ケル者 |
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ナシ、顔ヲ見ルニ火薬ノ粉ニテ黒クナリ」と兵の活躍ぶりを絶賛している。土方軍の兵 |
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力は伝習歩兵隊、衝鉾隊、砲兵隊、工兵隊の二百余名で現地募集の生兵もいたが、その |
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奮戦ぶりを大鳥圭介は「兵は新旧にあらず、その訓練の精粗と質の強弱とにある」と評 |
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価している。後退した新政府軍は約三倍の六百人、松前、福山、長州、津軽藩兵であっ |
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たが、射撃陣地の構築すらままならず、多くの死傷者を出した。二十三日、新政府軍は |
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再度、攻撃に出たが、土方軍の強い抵抗に遭った。二十四日滝川充太郎率いる伝習士官 |
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隊二小隊の増援を得た土方軍は夜間、敵陣に斬り込むなど、果敢な行動に出て、新政府 |
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軍は敗走した。この時、兵を指揮し、自ら陣を躍り出た軍監駒井政五郎は戦死し、動揺 |
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した兵士は戦意を消失したという。この戦いは指揮官土方歳三の地形を熟知した陣地構 |
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築と用兵の妙に尽きる。戦いの合間に自ら陣内を廻り、酒を配って兵士を労わったとい |
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う土方の心遣いにも士気高揚の配慮がうかがえる。二十九日、旧幕府軍は矢不来方面が |
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崩れた為、後方を遮断される事を恐れ、二股守備隊は撤退を決定し、地雷火を埋設して、 |
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混乱もなく、整然と五稜郭へ引き揚げた。 |
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(天保十・八・十〜慶応三・二・十八) |
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名は祐広。筑後国八女郡水田村百姓祐吉次男。真木和泉、大橋歳訥庵に師事し、久留米 |
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藩校明善堂の教授に迎えられた。文久三年脱藩、上京して尊攘運動に加わる。堺町門の |
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変後は長州免罪の為、奔走した。池田屋事変では負傷しながらも裸で川を渡って脱出、 |
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津和野藩邸に逃げ込んで数日潜伏したのち長州屋敷へ戻った。禁門の変に出撃、敗れて |
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筑前に下り、久留米藩の同志と第一次征長軍の解兵に努力した。慶応元年赤根武人と上 |
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坂、三月幕吏に捕らえられ六角獄に送られた。十一月放免されると、幕府大監察永井尚 |
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志に随行して、新選組の近藤勇、伊東甲子太郎その他と広島へ下った。赤根武人も一緒 |
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であった。永井は幕府第二次征長軍と長州との戦争を回避する為、渕上や赤根、あるい |
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は近藤らを使って、長州藩内の勤皇派に近づき説得を試みようとしたのである。渕上は |
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赤根と周防に潜入して長州人と密談、報告のため渕上だけ一旦戻った。その後五卿随員 |
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の久留米藩家老格水野丹後に、幕府に内通しているのではないかと疑われ、渕上は筑後 |
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山門郡東山村に逃れて潜伏した。慶応三年一月、九州へ下ってきた伊東甲子太郎、新井 |
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忠雄らが大宰府で水野丹後に会ったとき、渕上は変節したと吹き込まれた。彼らは渕上 |
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を三池郡嘉納村に誘い出して暗殺した。ときに郁太郎三十一歳であった。 |
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(1838〜1911) |
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幕府が招いたフランス陸軍教官団の一員。砲兵大尉。慶応三年に来日、砲兵教官として |
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幕府陸軍の訓練にあたり、隊員の軍装や大砲製造にも関係したが、ブリュネはカズヌーブ |
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と榎本軍に加わって北航、箱館戦争で戦った。榎本軍には他にも、仙台や宮古で加わっ |
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たフランス軍人がおり、ブリュネを長として計十名がいた。ブリュネは砲塁築造の指導 |
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をしている。明治二年五月二日、戦況の悪化を痛感したブリュネらフランス軍人は、フ |
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ランス軍艦コエトロゴン号で箱館を脱出(八名とも九名ともされる)、横浜に逃れ、サ |
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イゴン経由で本国に送還された。のち、リヨン防衛軍司令官になったが、明治政府も勲 |
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三等旭日章(明治十四年)や勲二等瑞宝章(同二十八年)を贈っている。画才に秀で、 |
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各地のスケッチなどが残っている。土方歳三とも親しかった。 |
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(文政十二〜元治元) |
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名は正順。初め頼母、俊太郎と称す。変名、桝屋湯浅喜右衛門。近江国大津に生れる。 |
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父は周蔵正明、近江国栗田郡物部村古高の旧族。父が大津代官石原清右衛門に仕え、後 |
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に山科毘沙門堂の家臣となり、正順は同門跡の近習になった。国学、和歌を烏丸光徳に |
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学び、梅田雲浜の門に入り、勤皇を志した。堺町丸太町に住み、彼の家は勤皇派の集会 |
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所となるが、幕吏の目をくらますために骨董屋を装った。文久元年三月、薪炭商桝喜の |
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養子に入り、ここを本拠に勤皇活動を続けた。元治元年、古高を中心に志士たちは連判 |
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状に署名し、尊攘派暴発の決議をした。しかし、発動を目前に桝屋は新選組の手入れを |
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受け、古高は壬生に連行された。池田屋事変ののち、禁門の変が起こり、戦火は洛中を |
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焼き、六角獄に迫った。七月十九日、古高は獄中に処刑された。三十六歳。墓は東山霊 |
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山と福勝寺(千本出水西入)にある。 |
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元治元年六月五日の早暁、梅雨も明けて、祇園祭も間近いころ、西木屋町四条上ル真町 |
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の薪炭商桝屋喜右衛門が、突如踏み込んだ新選組に捕縛されていった。桝屋は家探しを |
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されて武器弾薬などが押収され、会津藩の提灯を数箇と長州藩士との連絡の手紙や尊攘 |
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一味の連判状も発見された。壬生に連行された桝屋は過酷な尋問のすえ、古高と知れ、 |
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風の強い日を選んで御所付近に放火し、参内する守護職、所司代らを襲う計画が判明し |
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た。新選組は直ちに守護職、所司代、奉行所に通報し、その夜、守護職以下の総力をあ |
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げて市中の一斉取締に出動することになり、新選組も武装して志士たちの潜伏先の捜索 |
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に出動した。一方、志士らは古高の奪還と善後策について相談のため、池田屋に集まっ |
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ていた。やがて近藤勇の「御用改めである」の声とともに池田屋の死闘が始まった。 |
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(北海道函館市谷地頭町四) |
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函館山中腹にあり、箱館戦争において戦死した旧幕府軍の鎮魂慰霊の碑。明治八年五月、 |
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榎本武揚・大鳥圭介らによって建立されたという。碧血の由来は中国の故事で「義に列 |
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した者の血は死後三年経つと碧色に化す」という伝承によるもの。裏面には「明治辰巳 |
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実に此の事有り、山上に石を立て以って厥(そ)の志を表す」という漢文が記され、新 |
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政府を憚ってか短い追悼の言葉となっている。埋葬されている旧幕戦死者の数は諸説あ |
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り、「函館碧血碑」八百十五人、「函館市史」七百九十六人、「函館案内」二百余人と |
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様々だが、明治四十年に作成された「明治辰巳之役戦没者過去帳」には土方歳三を筆頭 |
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に伊庭八郎ら五百三十余人が記録され、雑誌「旧幕府」に収められた「蝦夷戦死之輩」 |
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が基になっている。毎年六月二十五日には函館碧血碑会が碑前祭を行っている。碧血碑 |
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に祀られる新選組隊士は次の十六名だが、遺体が埋葬されているわけではない。 |
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土方歳三・野村利三郎・三好胖・小久保清七(吉)・蟻通勘吾・武(竹)内武雄・ |
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佐治寛・粕谷十郎・長嶋五郎作・乙部剛之進・津田丑之助・栗原仙之助・白戸友衛・ |
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勇二郎・惣八・玉置良三 |
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なお、函館には官軍戦死者の為の碧血碑もある事はあまり知られておらず、通常「碧血 |
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碑」といえばこちらの幕軍戦死者の碑を指すことが多い。 |
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(北海道函館市弁天町二十番) |
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弁天崎台場とも。徳川幕府が箱館港に築いた砲台場で、箱館開港後の警備の為増強。五 |
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稜郭と同じ武田斐三郎が設計した。周囲三百九十間余(約七百十メートル)の不等辺六 |
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角形で、高さ約三十七尺(約十一・二メートル)の石垣積み。大砲十五門を据えた。安 |
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政三年に着工、文久三年に完成。箱館戦争の際、旧幕軍がここを占領し利用した。明治 |
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二年五月十一日、新政府軍が箱館山南方から上陸、山頂を北下して箱館市街と弁天台場 |
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への総攻撃をめざした。箱館山を半小隊の少人数で警備していた新選組は新政府軍数百 |
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名の二ヶ所からの上陸に追われ、市街の新選組と共に弁天台場へ逃げこむ。ここに箱館 |
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奉行永井尚志以下の兵も入り、二百四十名となったが、弾薬や食糧が欠乏、五月十五日 |
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に降伏した。土方歳三死後の当時、新選組隊長は相馬主計であった。弁天台場は降伏後 |
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の旧幕兵の謹慎収容場所にも当てられている。明治二十九年に取り壊され、跡地には函 |
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館船渠株式会社が出来た。 |
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土方歳三の号、豊玉の俳句集。文久三年春の上洛前に、それまでの習作を自筆でまとめ |
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小冊子にし、実家に残したもので、土方家ではこれを掛幅に表装している。 |
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土方歳三の祖父は三日月亭石巴という文化文政頃の俳人で、歳三の長兄為次郎も閑山亭 |
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石翠と称し、義兄の佐藤彦五郎も春日庵盛車という号で秀句を残すなど、俳諧に親しむ |
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環境にあった事は想像できる。 |
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豊玉発句集には全部で四十一の句があり、技巧的に巧いとは言い難いが、歳三の感性や |
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女性的で細い文字など、人柄の一端を知る事が出来る貴重な資料である。その中には、 |
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白牡丹月夜月夜に染めてほし |
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春の夜はむつかしからぬ噺かな |
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公用に出て行(く)みちや春の月 |
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水の北山の南や春の月 |
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梅の花一輪咲ても梅は梅 |
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井伊公 ふりながら消ゆる雪あり上已こそ |
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などがあり、有名な「しれば迷ひしなければ迷はぬ恋の道」の無季俳句は線で囲まれ、 |
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その横に「しれば迷ひしらねば迷ふ法の道」と改作されている。上洛後は書簡に「報国 |
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の心忘るる婦人かな」とある位で句作を続けた事を知る事実は、特に残されていない。 |
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また、歳三の辞世の句と言われてきた「たたかれて音のひびきしなづなかな」は遊撃隊 |
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隊士で軍艦蟠竜乗組員の杉山文之丞の詠んだ歳三への追悼句という。 |
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(東京都台東区清川一丁目) |
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永倉新八の生家菩提寺。金智院妙音寺宝蔵院と称す。新義真言宗根来派。本尊は立上り |
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弁財天。明暦年中、浅草元鳥越町から現在地へ移転、元本所弥勒寺末。米沢藩上杉家の |
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祈願寺で、境内には赤穂浪士討ち入りの時吉良邸で忠死した新貝弥七郎の墓がある。 |
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同寺には永倉家と杉村家の墓碑が一基ずつあったが永倉の方は昭和五十九年に岡山市飽 |
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浦へ移転し今はない。移転時に十二個の骨壷が出、新八の実父蔵吉の遺骨もあった。 |
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永倉新八は明治後は杉村義衛となっているが、杉村家の墓は新八の養母・美佐子(操子、 |
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明治二十二年没)のもの。北海道から東京へ移った彼女は慣れぬ東京で新八の一家と暮 |
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らすうちに亡くなり、新八が施主となり、この寺に頼み込んで埋葬したと伝えられてい |
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る。なお宝蔵院の過去帳に「憲徳院義衛良行居士」と新八の戒名が記載されているが、 |
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遺骨は納められていない。 |
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