新 選 組 大 事 典


壬生浪士掟
みぶろうしおきて
 
 
新選組の隊旗は一般に子母澤寛の著作以来「局中法度書」と称され、隊士が大幅に増員
 
された慶応元年五月頃に制定されたと考えられるが、それ以前の「掟」が一箇条のみ池
 
田屋事変の記録中に伝えられており、脱走者の処分について「出奔せし者は見つけしだ
 
い同志にて打果たし申すべし」とある。
 
別に「屯所入口」から「局中法度」の説明文を参照の事。
 
 
 

壬生浪士組
みぶろうしぐみ
 
 
文久三年二月に上洛した浪士組のうち、近藤勇・芹沢鴨ら京都残留者二十二人と現地加
 
入の二人を加えた二十四人が、同年三月十二日に京都守護職の会津藩御預りとなり、彼
 
らは壬生村に屯所を構えた事から壬生浪士組を自称した。四月初頭には「精忠浪士」を
 
名乗った形跡もあるが定着していない。村人達は略して「壬生浪」(みぶろ)と呼び、
 
身なりの粗末さから「身ぼろ」と揶揄したともいう。「壬生狼」と恐れて呼んだとする
 
のは後世の創作であろう。壬生浪士組は八月十八日の禁門の政変の働きにより武家伝奏
 
から新選組の正式名称を授かったが、壬生屯所時代に有名な池田屋事変が起きた事など
 
から新選組といえば壬生という印象が強かったらしく、西本願寺移転以後の記録にも、
 
「壬生浪士」「壬生新選組」などと記されている。
 
 
 

見廻組
みまわりぐみ
 
 
元治元年に創設された幕府の京都公安警察隊。長は京都見廻役で小禄の大名か大身の旗
 
本、定員二名とし、その下には旗本でこれを補佐する少数の与頭と与頭勤方がおり、こ
 
れらの幹部が組の主体をなして、いずれも御家人で定員四百人の見廻組、同並、同雇を
 
統率した。職務上、見廻役は京都守護職と所司代の指揮下に置かれており、御家人から
 
なる直参部隊が見廻組である。
 
見廻組は伝えるに足る事績は余り残していないが、関係したといわれる最大の事件は、
 
後年隊士の今井信郎が語った坂本竜馬暗殺事件の実行犯とされる点であるが、発生当時
 
は新選組の所業ではないかと目されていた。
 
関係人物として有名な佐々木唯三郎(只三郎)は見廻組創設から瓦解時に至るまで勤続
 
した唯一の幹部職員であり、実力者であったと思われる。見廻組は戊辰の役緒戦の鳥羽
 
方面の戦闘で多くの戦死者を出し組織としては崩壊したが、今井など箱館まで転戦した
 
者たちもいる。
 
 
 

宮川助五郎
みやがわ すけごろう
(弘化二〜明治三・三・六)
 
土佐藩士。名は長春。文久二年、山内容堂身辺警護を目的とした五十人組の総領の一人
 
となる。京都では慶応二年九月十二日、三条制札を警戒していた新選組と土佐系浪士の
 
乱闘に加わっており、新選組隊士新井忠雄、今井祐次郎と斬り結んで傷を負い捕縛され
 
た。駕籠に乗せられ西本願寺屯所に連行、取り調べを受けるが、近藤勇が宮川の潔い態
 
度に感動して幕府に赦免願を出すものの入獄。慶応三年十一月十五日に大赦で六角獄舎
 
から釈放され、土佐藩邸の牢に入り、脱藩犯として本国に送還される直前に再び脱走。
 
翌年春、戊辰戦争に従軍して軍曹となり米沢に出張、功を立てる。しかし大酒のために
 
発病、東京で没す。享年二十七。墓は東京都品川区高輪の泉岳寺。
 
 
 

宮古湾
みやこわん
(岩手県宮古市)
 
鍬ヶ崎浦と呼ばれた。慶応四年十月十三日、蝦夷へ北上中の旧幕艦隊が投錨している。
 
宮古以北に良港がなく、北方航路では本州最後の寄港地となる事から、翌年官軍艦隊の
 
北上に際してここへ滞在する事を想定し、旧幕軍による甲鉄艦奪取作戦が計画され、三
 
月二十五日に両軍の戦闘による宮古湾海戦の場となった。湾を囲むように北から、浄土
 
ヶ浜穴崎台場入口に「宮古湾海戦記念碑」沢田に「官軍勇士の墓」夏保の丘に「宮古湾
 
戦蹟碑」藤原に「幕軍無名戦士の墓」などがある。
 
 
 

宮古湾海戦
みやこわんかいせん
 
 
明治二年が明け、旧幕府の発注していた米軍艦ストーンウォール号を購入、和名「甲鉄」
 
艦として強力な海軍力を得た新政府軍は、甲鉄、丁卯、戊辰、豊安、飛龍、晨風、春日、
 
陽春の八艦による箱館追討軍を編制、三月九日に江戸を発ち、途中の風雨による曲折の
 
末、三月十六日から二十二日にかけて宮古湾に集結した。一方箱館の旧幕府軍は前年に
 
榎本の頼みとした旗艦「開陽」を座礁で失っており、アメリカ領事からの通牒で官軍艦
 
隊の品川出航を察知しており、回天艦長で海軍頭の甲賀源吾の発案を経て、箱館襲来前
 
の宮古湾で最強の甲鉄を襲撃の後奪取し、両軍の海軍力を再度逆転する策を立てた。
 
その計画は総裁榎本武揚や海軍総司令の荒井郁之助らも認め、仏人海軍教官ニコールら
 
にはかり、「アボルダージュ(接舷攻撃)」と方法を定め、舷が低く内輪船である蟠竜
 
と高雄の二艦で両側から接舷、兵士が乗り移って敵兵を艦内に閉じ込め、舷が高く外輪
 
船で速力のある回天は他の敵艦を牽制し、甲鉄を制した後はそのまま箱館へ奪い去ると
 
いう計画であった。旗艦回天には司令官荒井、艦長甲賀、教官ニコールの他、土方歳三
 
と野村利三郎、相馬主計、安藤太郎ら数名の新選組と神木隊。蟠竜には仏人クラート、
 
林薫と彰義隊、遊撃隊。高雄には仏人コラッシュと神木隊が乗り込み、三月二十日夜半
 
に箱館を出発した。
 
旧幕軍三艦は八戸に近い鮫港に寄港したが様子がわからず、次に宮古の南方約二十キロ
 
にある山田湾大沢港を目指したが、暴風雨により離散、回天は覆いを破損しつつ二十四
 
日に大沢へ入港、遅れて高雄も到着したが蟠竜は脱落した。回天・高雄の二艦は敵が宮
 
古湾に停泊している事を知り、蟠竜を待たずに出航したが、高雄も機関故障により脱落、
 
三月二十五日早朝、回天一艦をもって宮古湾に進入した。回天は敵の目を欺く為、作戦
 
通り米国星条旗を掲げていたが、攻撃直前に日の丸を差し替えて掲げ、銃砲を連射し、
 
二度目の試みで甲鉄の左舷中央部に船首部から接舷した。回天は外輪船のため平行に接
 
する事が出来ず、さらに喫水線の違いから約二メートルとも三メートルともいう高低差
 
を生じたが、真っ先に一等測量の大塚波次郎、続いて新選組の野村利三郎が果敢に敵艦
 
へ飛び移った。甲鉄甲板上は白兵戦となり、回天艦上は他艦からも含めて集中射撃を浴
 
び、激闘となったが、甲鉄には連射用のガトリング砲を装備しており、旧幕軍は大塚、
 
野村も闘死、回天艦長の甲賀も指揮中に被弾するなど次々に戦死者を出し、戦闘三十分
 
で回天は退却、宮古湾を脱出し、自力で引き揚げていた蟠竜と共に箱館へ戻った。高雄
 
艦は羅賀に乗り上げ自焼、乗組員は捕らわれた。戦死者は十六人とも三十一人ともされ
 
負傷者は六人から三十数人まで様々な記録があるが、新選組では野村が戦死、相馬が負
 
傷。この戦いの後に海から流れ着いた幕軍兵士の遺体は、地元の民が墓を作り葬った。
 
 
 

宮部春蔵
みやべ しゅんぞう
(天保九〜元治元・七・二十一)
 
肥後の宮部鼎蔵の弟。名は増正。変名を田代五郎。文久二年、久留米から脱藩上洛し、
 
翌三年八月十八日の禁門の政変(堺町門の変)の後は長州に下って三条実美の護衛に加
 
わる。元治元年、長州藩主父子の雪冤工作の為上洛し、河原町御池の長州屋敷に潜んだ。
 
六月五日の池田屋の会合には兄の鼎蔵と共に参加、新選組との乱闘で手傷を負ったが、
 
白刃を潜り抜けて長州藩邸に逃れた。その後郡山藩へ勤皇入説に赴いたが成功せず、禁
 
門の変の当日に京都に戻った。長州軍が破れて天王山へ退いた事を知るとただちに山崎
 
へ走り、天王山で新選組、幕府諸藩兵を迎え、同志の真木和泉らと共に自決した。享年
 
二十七。墓は京都府大山崎町天王山と高知市吸江護国神社。
 
 
 

宮部鼎蔵
みやべ ていぞう
(文政三・四〜元治元・六)
 
肥後国益城郡田城村の出身。医者春吾の子。姓は中原、名を増美、称を鼎蔵、号は田城。
 
春蔵は弟。鼎蔵は山鹿流軍学師範の伯父丈左衛門の養子となり、嘉永二年に跡を継ぐ。
 
同三年、熊本に来た吉田松陰と親交を結び、翌年二月に江戸へ出て松陰に会い、暮れに
 
は共に東北地方を遊歴した。安政二年、弟らの喧嘩事件に巻き込まれ免職となり、帰省
 
中の文久元年十二月に清河八郎に会い、同二年上洛して勤皇の志士と交わる。同三年、
 
藩主の弟護美に従い再び上洛、親兵の総監になる。八月十八日の禁門の政変により、七
 
卿と共に長州へ下った。元治元年夏、松田重助、高木元右衛門と共に上洛、桝喜(桝屋
 
喜右衛門こと古高俊太郎)宅に潜んで政局打開策を練った。しかし鼎蔵の下僕忠蔵が新
 
選組に捕らわれ、南禅寺山門に晒されるという事件が起こり、小川亭の女将がそれを知
 
らせたため危険を察知、小川亭へ居を移して潜伏した。六月五日に古高が新選組の手で
 
捕らわれ、それまでの陰謀は露見する。同夜、鼎蔵は同志と共に池田屋の会合に集まっ
 
ていたところを新選組に襲撃され、奮闘の上切腹して果てた。墓は岩倉の三縁寺。
 
また、弟の春蔵も翌七月の禁門の変に敗れて、天王山で自決した。
 
 
 

深雪太夫
みゆきだゆう
(生没年不詳)
 
本名未詳。生まれは一説に金沢といい、近藤勇の愛妾の一人。大坂新町遊郭折屋の抱え
 
女郎で、元治元年頃、新選組御用達を務めた大坂八軒家京屋忠兵衛の周旋によって勇が
 
身請けし、京都醒ヶ井木津屋橋下ルの休息所に囲った。新選組諸士調役で勇の身辺事情
 
に明るかった島田魁の遺談によれば、深雪は当時二十三、四歳で背のすらりと高い美人
 
だったとある。勇も深雪には深い愛情を注いだようだが、彼女が一年ほどで病死し、忘
 
れかねて妹のお孝を新たな妾にしたと伝えられている。
 
なお大正十年に没した報知新聞記者鹿島淑男が、自著「近藤勇」の中で深雪太夫生存説
 
を書き、明治四十四年に偶然同じ汽車に乗り合わせた京訛りの老婆が深雪本人であり、
 
彼女が語ったという近藤にまつわる色々な話を載せているが、その内容は調査に基づい
 
ているものの、聞き書き形式を用いた創作であると思われる。
 
 
 

三善道長
みよし みちなが
 
 
刀匠及び刀の名。幕末会津刀の中で和泉守兼定、大和国秀国と同列に位置する刀鍛冶で、
 
「奥州会津住三善道長」と刻む。慶応三年十一月十五日、坂本竜馬・中岡慎太郎が暗殺
 
された当夜に、近藤勇はかねてから会津藩士山本覚馬に注文依頼していた三善道長二振
 
りを囲み、同じく藩士の永岡権之助・清治父子と新選組隊士数名を交えて、七条の近藤
 
妾宅で酒宴を開いていた。夜更けに山本ら三人は辞して帰り、油小路三条辺りで同藩士
 
遠山仲次、柳田虎雄の二人に出会い、「先程河原町三条下ル旅宿に於て、坂本竜馬・中
 
岡慎太郎が殺害された」と聞かされ、下手人が佐々木只三郎とも近藤勇とも取り沙汰さ
 
れている、と聞くと山本は「近藤にただ今逢ってきたゆえそれは違う」と答え、早々に
 
皆を伴い小川町の山本邸に帰った、という。三善道長の刀が近藤の坂本暗殺容疑のアリ
 
バイを示したということになる。
 
 
 

陸奥宗光
むつ むねみつ
(弘化元・七・七〜明治三十・八・二十四)
 
紀伊国和歌山出身。幼名を牛麿、小次郎。陸奥源二郎・陽之助。諱を宗光。雅号を福堂・
 
士峰・六石。父は全盛期には紀州藩寺社奉行、勘定奉行として禄高八百石にすすんだ伊
 
達二郎宗広、母が渥美氏政子で、第六子。九歳の時に父が政争に敗れて幽閉、一家は離
 
散となる。十五歳で江戸に出奔。文久元年に父は赦免となったが、宗光は翌年に脱藩、
 
上洛して勤皇運動に加わった。同三年の春頃に土佐の坂本竜馬と知り合い、後に勝海舟
 
の海軍操練所に入る。慶応二年には竜馬に従い長崎の亀山社中に属し、同三年四月には
 
海援隊に入った。海援隊の蒸気船「いろは丸」が紀州藩の船と衝突して沈没、海援隊側
 
が紀州から賠償金八万三千両をとる交渉が成立して間もなく、十一月十五日に竜馬が暗
 
殺されると、命じたのが紀州藩の家老代理三浦休太郎だとの噂を聞いた宗光は、敬愛し
 
た竜馬の仇討ちを決意。十二月七日夜、海援隊の同志らと共に十六名の人数で、三浦が
 
「天満屋」で護衛の新選組隊士らと酒盃を交わしている最中を襲撃した。三浦には軽傷
 
で逃げられ計画は失敗したが、新選組宮川信吉がこの事件で闘死している。
 
明治以後は外国事務所御用掛、神奈川県知事、元老院議官などに就任、西南戦争の頃に
 
土佐の立志社の変に連座して五年の禁錮刑となるが、復帰後は駐米公使、農商務大臣、
 
伊藤博文内閣の頃は外務大臣などを歴任し、日英通商航海条約締結、日清講和条約批准
 
に活躍、「カミソリ大臣」の異名をとった。享年五十四。墓は大阪夕陽岡陸奥家墓所、
 
後に鎌倉寿福寺に移葬。
 
 
 

村井北山
むらい ほくざん
(生没年不詳)
 
大坂弓場町の易者。善三郎。新選組尾関弥四郎の配下にあって、大坂での隊士募集に関
 
わっていた。慶応元年四月、長州から大坂に移り住んでいた金作という人物に自署名の
 
入った書付を渡して新選組を紹介している。金作は屯所を訪れ面接は受けたが入隊はし
 
なかった。隊士の募集にはこうした村井のような町人も根回しや下働きをしていたもの
 
と思われる。
 
 
 

村上俊五郎
むらかみ しゅんごろう
(天保五〜明治三十四・六・二十一)
 
阿波国美馬郡貞光村の出身。大工、建具師。剣術は天才で、下総佐原で剣術の道場を開
 
き、阿波人形浄瑠璃の三味線も上手だったが、粗暴な性格であったともいう。石坂周造
 
と知り合い江戸に出て虎尾の会に参加。清河八郎に捕縛の手が伸びると村上は潜伏した。
 
文久三年春の浪士組上洛の際は道中目付兼六番組小頭となる。草津に着いた時、村上が
 
六番組三班の山南敬助に「隊士の乱暴が目に余るので取り締まるように」と注意した事
 
から喧嘩になり、上役である鵜殿鳩翁や山岡鉄太郎が間に入って村上に謝らせるという
 
一幕があった。明治に入ると、両国橋の真ん中で立小便をし巡査に捕まった事もあった。
 
勝海舟の腰巾着のような存在になり、海舟の妹で、幕末に夫佐久間象山を暗殺され未亡
 
人となったお順と関係が出来同棲した。お順が型破りの性格であったので勝も嫌ってい
 
たというが、村上自身も手を焼かされた。享年六十八。墓は東京都台東区谷中の全生庵。
 
 
 

望月亀弥太
もちづき かめやた
(天保九〜元治元・六・五)
 
土佐藩士望月団右衛門の次男。名を義澄。文久二年、藩主の供をして江戸に上り、翌三
 
年勝海舟の海軍塾に入り、海舟に従って大坂湾を測量した。元治元年、海軍操練所を脱
 
して京に入り、宮部鼎蔵らと長州藩主父子の復権や朝議回復を画策。六月五日の池田屋
 
の会合に参加し、新選組の急襲を受け白刃を潜って二階から飛び降り、街上に脱出する。
 
しかし警戒中の会津藩兵に見咎められて斬り合いとなり、満身創痍ながら辛くも逃れて
 
長州藩邸にたどり着いたが門が固く閉ざされており、もはや逃れられぬと観念し、河原
 
町二条角倉屋敷前の路上で自害と伝わる。享年二十七。墓は高知市吸江護国神社。京都
 
岩倉三縁寺の池田屋事変殉難士碑にも合葬されている。
 
一説に望月亀弥太の変名を松尾甲之進といわれるが、松尾甲之進則信は文久三年に奇兵
 
隊に入り、文久三年八月二十日死亡と京都東山霊山の墓にもあることから疑問が残る。
 
 
 

望月光蔵
もちづき みつぞう
(文政四・十・二〜明治二十三・十二・五)
 
神奈川奉行所定役元締、幕臣。本名を富岡光蔵、諱は忠幸。慶応四年四月、会津藩に協
 
力して徳川家の回復を図るべく、同志三人と共に水戸、棚倉を経て会津領に入り、二十
 
日頃、若松城下の七日町清水屋に宿した。二十九日になって宇都宮城の攻防で足に負傷
 
した土方歳三らが同宿、面会した。望月の筆によれば、土方が「汝等、吾に与(くみ)
 
せよ」と協力を求め、望月は「余、その傲慢、人をかろんずるをにくむ」と記している。
 
望月らは文官であり武力による力添えは出来ないとの主旨に対し、土方は彼らを怯惰と
 
して口論となり、そちらこそ宇都宮を奪還出来なかったではないかとまで言われ、怒っ
 
た土方が枕を投げつけたという。「多言わが病褥を犯す、聞くを要せず、去れ。」と文
 
語調ながらその立腹ぶりが書かれている。
 
望月はまもなく三斗小屋方面の守備についたが、八月二十二日に敵襲を受けて同志とは
 
ぐれ、若松へ向かう途中、米沢藩雲井龍雄との盟約で彼の宿を訪ねるところだった永倉
 
新八、芳賀宜道と出会う。雲井の宿で近藤芳助にも会い、米沢藩に援軍を求めるため、
 
彼らと共に雲井を守りつつ米沢に入ったが、すでに藩論が降伏に決しており水泡に帰し
 
た。維新後は神奈川県、熊谷県に勤務、東京麻布に晩年を送り、上記土方の逸話を含め
 
戊辰の苦難を綴った「夢乃うわ言」を残した。墓は東京都港区南青山の青山霊園。
 
 
 

(参考 新人物往来社)
このページは1時間毎に色が変化するようになっております
The music produced byDR(零式)さん


新選組屯所へ戻る


このページは幕末維新新選組の著作物です。全てのページにおいて転載転用を禁じます。
Copyright©All Rights Reserved by Bakumatuisin Sinsengumi