新 選 組 大 事 典


八木為三郎
やぎ ためさぶろう
(嘉永三〜昭和六・五)
 
新選組屯所となった八木家当主源之丞応迅の次男で、子母澤寛の著作「新選組遺聞」に
 
掲載された「壬生ばなし」は昭和三年十一月十五日に子母澤が為三郎に面談、聴取した
 
ものであり、その後数十回にわたって手紙などの取材に応じ、子供だった頃の自身の回
 
想や両親、近所の人々の伝聞など、文書では伝わらない生の隊士像を浮かび上がらせた。
 
ただし記憶違いや作家子母澤寛の筆が入っている為、すべてを事実とは受け取れない点
 
はある。享年八十二。墓は京都市中京区辻町の壬生共同墓地。
 
 
 

薬王院
やくおういん
(青森県弘前市笹森町三十七番)
 
岩鬼山薬王院。箱館戦争の降伏人達が、明治二年六月八日青森から移動して弘前の各寺
 
院に収容された。「弘前城下新寺町ニテ謹慎ノ者、薬王院入リノ者」には新選組の大野
 
右仲、森常吉、島田魁、中島登、横倉甚五郎ら九十六名が記録されている。中島は万事
 
応接方を拝命し、幽囚中に「中島登覚え書」を執筆した。翌月二十一日全員が再度青森
 
へ送られ、蓮華寺での謹慎生活に入った。
 
 
 

大和守秀国
やまとのかみひでくに
 
 
大和守秀国は奥州会津の刀匠で、文久二年、会津藩主松平容保が京都守護職拝命後に上
 
洛して鍛刀した。第二次世界大戦中、軍刀として古刀、新刀、新々刀が多数使われ、当
 
時の日本陸軍が荒試し斬りをした中で新刀の鬼塚吉国と新々刀の大和守秀国が切れ味が
 
よく「昭和の大業物」と一躍有名になったという。
 
秀国は新選組の近藤勇、土方歳三両者の遺品としても伝わり、土方が所持したと思われ
 
る刀には中心(なかご)に「幕府侍土方義豊戦刀 秋月種明懇望帯之 秋月君譲請高橋
 
忠守帯之」との銘がある。これと同じ「慶応二年八月日」の裏年記がある秀国が日野市
 
に三振りあり近藤が土産として持参したものといわれる。土方の遺品として伝わる刀は
 
他に和泉守兼定、葵御紋康継が現存する。(屯所入口より「隊士愛刀一覧」参照の事)
 
 
 

大和守安定
やまとのかみやすさだ
 
 
新刀期の大業物として鋭い切れ味により名高い。大和守安定は生国を越前国福井、後に
 
江戸神田白銀町に住み、初代越前康継の門人。虎徹同様、刀の中心に試し斬りで有名な
 
山野加右衛門永久の截断銘をよく目にすることがある。
 
新選組の大石鍬次郎がこの安定の二尺五寸の豪刀を所持したといい、沖田総司は二尺二
 
寸のものを所持したともいわれる。
 
 
 

大和屋焼き討ち
やまとややきうち
 
 
芹沢鴨が起こしたと伝わる事件。文久三年八月十二日、芹沢とその一派の隊士が葭屋町
 
中立売上ルの生糸問屋大和屋庄兵衛方に金策を申し込んで主人不在を理由に断られ、激
 
怒してその夜配下の隊士三十五人を引き連れ、大和屋の土蔵に火薬で火をつけ、焼き払
 
うという暴挙に出た。隊士たちは白鉢巻にたすきがけ、袴の股立ちを取るいで立ちで、
 
抜刀して蔵の周囲を取り囲み板切れなどに火をつけてまわった。芹沢は屋根の上に登り
 
その様子を見下ろし、愉快そうに笑っていた。焼き討ちは十三日の夜までかかって大小
 
七つの土蔵が焼き払われ、芹沢たちが去った後は目も当てられぬ惨状であった。この事
 
件には会津藩も流石にたまりかね、近藤勇らに対し、内密で芹沢処分の命令を下したと
 
もいわれている。
 
 
 

山南敬助の脱走
やまなみけいすけのだっそう
 
 
巷間知られる説によれば、元治二年二月二十一日、新選組の山南敬助が書き置きを残し
 
て隊を脱走し、馬で追跡した沖田総司が近江大津宿で発見、一泊した後で共に帰隊し、
 
山南は二十三日に沖田の介錯で切腹。その少し前馴染みの島原の遊女明里が前川邸屯所
 
に駆けつけ、出窓にすがって今生の別れを告げた、とされている。が、書き置きの有無、
 
なぜ脱走して京の目と鼻の先というべき大津にいたのか、山南の密会説や駆け引き説、
 
総長粛清の創作劇説など、色々な謎が残る。沖田は翌月日野に送った手紙の中で山南の
 
死去を短く伝えているに過ぎず、伊東甲子太郎も山南の潔い最期を称賛する歌は詠んで
 
いるが、大津脱走の話などについては残していない。「大津」の地名は永倉新八の晩年
 
の談話「新撰組顛末記」が初出で、それ以前の永倉の手記にも全く出ていないため、真
 
実である可能性は薄い。三月の西本願寺移転以後、隊士たちから山南の死について聞い
 
た西村兼文も「憤激して自刃」とのみを記し壬生を脱走したとは触れておらず、子母澤
 
が初めて書いた遊女明里の哀話と共に脱走説全体を通じて創作性が強い。
 
当時の新選組は隊士急増に伴い西本願寺に屯所を移転しようとしており土方らの推進に
 
対して山南が反対していたという。伊東甲子太郎一門の加入により武力集団としての隊
 
の運営も厳しく、前年の岩木升屋事件以後、恐らく負傷による長い療養などで池田屋出
 
動にも不参加であった山南の影響力は低下していた。自らの現状を悩み、前川邸の屯所
 
で自刃した事は確かであろう。
 
 
 

山本覚馬
やまもと かくま
(文政十一〜明治二十五・十二・二十八)
 
会津藩士、会津若松出身。義衛、良明。江戸に出て、佐久間象山に砲術を、大木衷城に
 
蘭学を学ぶ。元治元年二月藩命によって上洛、同三月に将軍家茂の招請で上洛した象山
 
の世話をした。七月に象山が暗殺されると、山本は壬生の新選組屯所に近藤勇を訪ね、
 
象山の次男恪二郎の仇討ちについて協力を求めた。恪二郎は近藤のはからいで新選組に
 
入隊し三浦敬(啓)之助と名を改めた。
 
慶応三年十一月十五日夜、山本は会津藩永岡権之助・清治父子と醒ヶ井の近藤勇の妾宅
 
を訪れ深夜まで酒を飲み歓談していたが、帰路同藩の者から坂本竜馬と中岡慎太郎が暗
 
殺された事と、佐々木只三郎か近藤が犯人ではとの説を聞き、近藤には今会ってきたば
 
かりだから違うと述べたという。
 
鳥羽伏見の戦いの時薩摩軍に捕らわれ幽閉、のちに釈放。新島襄と共に同志社を創立、
 
また初代京都府会議長、京都商工会議所会頭を歴任。享年六十五。墓は京都市左京区の
 
若王子山上。
 
 
 

百合元昇三道場跡
ゆりもとしょうぞうどうじょうあと
(東京都墨田区両国三丁目)
 
神道無念流剣客百合元昇三の道場は、両国三丁目の北部に位置していたと推定される。
 
安政五年頃から永倉新八が剣を学んだという。永倉は「新撰組顛末記」によれば文久元
 
年から足掛け四年、本所亀沢町の百合元道場に住み込んで剣術修行に励んだと記してい
 
るが、年号に上洛〜新選組在職時代が入るため、後年の思い違いであろう。新選組の野
 
口健司もここで修行し免許を得ているので、二人が知人であった可能性はある。
 
 
 

横倉甚五郎日記
よこくらじんごろうにっき
 
 
新選組隊士横倉甚五郎が綴った記録で、表題は単に「日記扣」(扣=控)とあり、慶応
 
四年戊辰六月日と記入されている。日記とはいえ、記述は旧幕軍首脳の役職と諸隊の幹
 
部名が殆どを占め、新選組については克明に記されている。
 
「元新選組連名」とされた慶応三年十二月時点での名簿には、隊士たちの去就が添えら
 
れており、鳥羽伏見の戦いでの戦死者、江戸帰還者、その後の脱走者などを知ることが
 
でき、仙台で編成された隊士名簿には出身藩と役職が記されている。基本的には島田魁
 
の「京都ヨリ会津迄人数」と列記の隊士は同一だが、横倉の日記には島田ら数名の名が
 
脱漏している事が惜しまれる。
 
 
 

横田長兵衛の殺害
よこたちょうべえのさつがい
 
 
西村兼文の「新撰組始末記」にのみ見られる事件。文久三年六月頃、京都某所で新選組
 
の名を騙り金策を働いた横田長兵衛という浪士が新選組に捕縛され、壬生の南田圃に梟
 
首されたというもの。同年六月二十六日、「植村長兵衛」が千本通りの三条と四条の間
 
で殺害され斬奸状が残されており、時期や殺害場所、横田という名は他史料に見られな
 
い点から、西村が名を誤認した結果と思われる。当時の新選組は隊士募集を始めて約二
 
ヶ月で、知名度が高まりつつあった中であり、最初の天誅梟首事件となった。
 
 
 

横浜病院跡
よこはまびょういんあと
(神奈川県横浜市中区元浜町四丁目)
 
当時の地名では海辺通二丁目にあった。幕府のフランス語学伝習所の建物を改造した仮
 
設病院で、鳥羽伏見の戦いによる幕軍負傷者を、フランス人の軍医が治療した。敷地は
 
二百二十五坪、二階建てで、収容人員は五十名ほどであったといい、新選組負傷者もこ
 
こに入院した。慶応四年一月十四日、この病院には新選組の近藤芳助、池田七三郎らの
 
負傷隊士と付き添いの島田魁ら合わせて二十二人が二月二日頃まで滞在した。その間、
 
一月二十八日には近藤勇も右肩負傷の治療のため来院している。
 
なおこの幕軍病院には正式名称はなかったようであり、よく混同されるものの一般には
 
「横浜病院」といえば新政府側の病院で近隣の洲干弁天境内にあった幕府の漢学校「修
 
文館」校舎を利用し、同年閏四月十七日に開設された病院を指す。
 
 
 

吉岡庄助
よしおか しょうすけ
(天保二〜元治元・六・五)
 
萩藩足軽又吉の倅、名は篤之。江戸の井田長献のもとで剣を磨き、上洛して長州藩邸の
 
作事手子となる。池田屋事変当夜(翌六日説もある)たまたま四条中の町で芝居小屋の
 
外にある酒楼近江屋の二階で酒を飲んでいる時、会津兵が踏み込んできた。女将は「知
 
り合いの長州人で怪しい人ではない」と押し止めようとして会津兵に斬り捨てられ、庄
 
助は二階へ乱入した会津兵と斬り合いの末殺された。享年三十四。墓は京都東山霊山、
 
中京区新京極六角下中筋誠心院。
 
 
 

吉田稔麿
よしだ としまろ
(天保十二・一・二十四〜元治元・六・五)
 
長州藩下級武士清内の子。初め栄太郎。名は秀実。十三歳の時に江戸藩邸に小者として
 
仕えた時ペリー来航を実感、長州帰国後吉田松陰門下に入り、松下村塾の四天王の一人
 
と称される。万延元年に脱藩、伊藤俊輔に宛てた手紙には幕臣の群に身を投じて勤皇の
 
正義を吹聴すると記した通り、一時旗本妻木家に勤めたが、文久二年に辞して京都に入
 
り、世子毛利定広から許され、この年に同門の久坂玄瑞らが藩論を攘夷に一変させたの
 
と機を同じくして本格的な尊攘活動に身を投じた。文久三年、これも同門の高杉晋作が
 
結成した奇兵隊に入隊。藩から士籍への昇格を受け、被差別民も兵士に取り立てる事を
 
意見して屠勇取建方引受を任命された。幕艦朝陽丸を奇兵隊が拿捕する事件が起きると
 
自ら乗り込み士官らを説得して朝陽丸を去らせ、藩命を受けて江戸に赴き、老中板倉勝
 
静に説いて解決にあたった。帰国後、禁門の政変による長州冤罪を晴らそうと再び幕閣
 
入説の命を受けて東上の途中、京都にとどまって肥後の宮部鼎蔵らと朝議回復を図った。
 
元治元年六月五日、池田屋へ出向くにあたり、長州藩京都留守居役の乃美織江に遺品を
 
託し歌を残した。新選組との乱闘で重傷を負ったが、裏二階から中庭へ飛び降り、警固
 
の兵を斬って長州屋敷へたどり着く。しかし門が閉まっていたため塀の外で自害、翌朝
 
になって遺骸が発見された。沖田総司と斬り合って池田屋で討たれたというのは小説で
 
ある。墓は京都東山霊山、萩市椿東護国山、下関市上新地桜山神社、山口市朝日山招魂
 
場の他、京都岩倉三縁寺に池田屋事変殉難士の墓碑がある。
 
 
 

依田学海
よだ がっかい
(天保四・十一・二十四〜明治四十二・十二・二十七)
 
下総佐倉藩士。漢学者。称を七郎、諱を朝宗、号を学海。安政四年二月、師の藤森天山
 
に就いて京に上り、家里松オ宅で弟の家里次郎(後に壬生浪士となる)に出会い風流男
 
子と評した。慶応三年二月に江戸留守居役となり、翌四年一月十六日の江戸城中で、閣
 
老に拝謁して鳥羽伏見敗戦後の挽回策を図るべく登城した近藤勇、土方歳三に会う。依
 
田は彼らと親しく語り、土方に伏見の戦状を聞くと、土方は「もう槍や刀では戦争とい
 
うものは出来ない」との感想を語ったという。この後藩命によって上洛し、閏四月十日
 
京の三条河原に晒された近藤の首を目撃し、城中で談笑した生前の姿を思い浮かべてそ
 
の死を悼んだ。明治十八年、自著「譚海」の中に二人の小伝を編んで載せ、「江戸幕府
 
の末、終始一節、死をもって志を明らかにする者、余の知るところをもってすれば、近
 
藤勇、土方歳三ら数人に過ぎず」と賞賛した。依田の墓は東京都台東区谷中七丁目の谷
 
中霊園にある。
 
 
 

淀城跡
よどじょうあと
(京都市伏見区淀本町)
 
豊臣氏の滅亡後に徳川氏が増築した城で、享保八年に小田原から譜代の稲葉正知が封じ
 
られ、以来稲葉家の居城となっていた。鳥羽伏見の戦いの当時、藩主の稲葉正邦は老中
 
の任にあって江戸にいた。留守部隊は淀川堤千両松まで出陣して薩長軍に対し砲列を敷
 
いたが、尾張慶勝の勧告で兵を引き、城門を閉ざして中立の立場をとり淀藩を守った。
 
これにより幕軍は淀城への入城を拒否されて拠点を失い、後退を余儀なくされる。
 
現在は京阪電鉄淀駅の前に、本丸の石垣と内濠の一部を残した公園となっている。尚、
 
豊臣秀吉の側室淀君ゆかりの淀城はここより北方約五百メートルの納所の辺りにあった
 
と推定されている。
 
 
 

(参考 新人物往来社)
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