|
|
巷間知られる説によれば、元治二年二月二十一日、新選組の山南敬助が書き置きを残し |
|
て隊を脱走し、馬で追跡した沖田総司が近江大津宿で発見、一泊した後で共に帰隊し、 |
|
山南は二十三日に沖田の介錯で切腹。その少し前馴染みの島原の遊女明里が前川邸屯所 |
|
に駆けつけ、出窓にすがって今生の別れを告げた、とされている。が、書き置きの有無、 |
|
なぜ脱走して京の目と鼻の先というべき大津にいたのか、山南の密会説や駆け引き説、 |
|
総長粛清の創作劇説など、色々な謎が残る。沖田は翌月日野に送った手紙の中で山南の |
|
死去を短く伝えているに過ぎず、伊東甲子太郎も山南の潔い最期を称賛する歌は詠んで |
|
いるが、大津脱走の話などについては残していない。「大津」の地名は永倉新八の晩年 |
|
の談話「新撰組顛末記」が初出で、それ以前の永倉の手記にも全く出ていないため、真 |
|
実である可能性は薄い。三月の西本願寺移転以後、隊士たちから山南の死について聞い |
|
た西村兼文も「憤激して自刃」とのみを記し壬生を脱走したとは触れておらず、子母澤 |
|
が初めて書いた遊女明里の哀話と共に脱走説全体を通じて創作性が強い。 |
|
当時の新選組は隊士急増に伴い西本願寺に屯所を移転しようとしており土方らの推進に |
|
対して山南が反対していたという。伊東甲子太郎一門の加入により武力集団としての隊 |
|
の運営も厳しく、前年の岩木升屋事件以後、恐らく負傷による長い療養などで池田屋出 |
|
動にも不参加であった山南の影響力は低下していた。自らの現状を悩み、前川邸の屯所 |
|
で自刃した事は確かであろう。 |
|
|
|
(文政十一〜明治二十五・十二・二十八) |
|
会津藩士、会津若松出身。義衛、良明。江戸に出て、佐久間象山に砲術を、大木衷城に |
|
蘭学を学ぶ。元治元年二月藩命によって上洛、同三月に将軍家茂の招請で上洛した象山 |
|
の世話をした。七月に象山が暗殺されると、山本は壬生の新選組屯所に近藤勇を訪ね、 |
|
象山の次男恪二郎の仇討ちについて協力を求めた。恪二郎は近藤のはからいで新選組に |
|
入隊し三浦敬(啓)之助と名を改めた。 |
|
慶応三年十一月十五日夜、山本は会津藩永岡権之助・清治父子と醒ヶ井の近藤勇の妾宅 |
|
を訪れ深夜まで酒を飲み歓談していたが、帰路同藩の者から坂本竜馬と中岡慎太郎が暗 |
|
殺された事と、佐々木只三郎か近藤が犯人ではとの説を聞き、近藤には今会ってきたば |
|
かりだから違うと述べたという。 |
|
鳥羽伏見の戦いの時薩摩軍に捕らわれ幽閉、のちに釈放。新島襄と共に同志社を創立、 |
|
また初代京都府会議長、京都商工会議所会頭を歴任。享年六十五。墓は京都市左京区の |
|
若王子山上。 |
|
|
|
(神奈川県横浜市中区元浜町四丁目) |
|
当時の地名では海辺通二丁目にあった。幕府のフランス語学伝習所の建物を改造した仮 |
|
設病院で、鳥羽伏見の戦いによる幕軍負傷者を、フランス人の軍医が治療した。敷地は |
|
二百二十五坪、二階建てで、収容人員は五十名ほどであったといい、新選組負傷者もこ |
|
こに入院した。慶応四年一月十四日、この病院には新選組の近藤芳助、池田七三郎らの |
|
負傷隊士と付き添いの島田魁ら合わせて二十二人が二月二日頃まで滞在した。その間、 |
|
一月二十八日には近藤勇も右肩負傷の治療のため来院している。 |
|
なおこの幕軍病院には正式名称はなかったようであり、よく混同されるものの一般には |
|
「横浜病院」といえば新政府側の病院で近隣の洲干弁天境内にあった幕府の漢学校「修 |
|
文館」校舎を利用し、同年閏四月十七日に開設された病院を指す。 |
|
|
|
(天保十二・一・二十四〜元治元・六・五) |
|
長州藩下級武士清内の子。初め栄太郎。名は秀実。十三歳の時に江戸藩邸に小者として |
|
仕えた時ペリー来航を実感、長州帰国後吉田松陰門下に入り、松下村塾の四天王の一人 |
|
と称される。万延元年に脱藩、伊藤俊輔に宛てた手紙には幕臣の群に身を投じて勤皇の |
|
正義を吹聴すると記した通り、一時旗本妻木家に勤めたが、文久二年に辞して京都に入 |
|
り、世子毛利定広から許され、この年に同門の久坂玄瑞らが藩論を攘夷に一変させたの |
|
と機を同じくして本格的な尊攘活動に身を投じた。文久三年、これも同門の高杉晋作が |
|
結成した奇兵隊に入隊。藩から士籍への昇格を受け、被差別民も兵士に取り立てる事を |
|
意見して屠勇取建方引受を任命された。幕艦朝陽丸を奇兵隊が拿捕する事件が起きると |
|
自ら乗り込み士官らを説得して朝陽丸を去らせ、藩命を受けて江戸に赴き、老中板倉勝 |
|
静に説いて解決にあたった。帰国後、禁門の政変による長州冤罪を晴らそうと再び幕閣 |
|
入説の命を受けて東上の途中、京都にとどまって肥後の宮部鼎蔵らと朝議回復を図った。 |
|
元治元年六月五日、池田屋へ出向くにあたり、長州藩京都留守居役の乃美織江に遺品を |
|
託し歌を残した。新選組との乱闘で重傷を負ったが、裏二階から中庭へ飛び降り、警固 |
|
の兵を斬って長州屋敷へたどり着く。しかし門が閉まっていたため塀の外で自害、翌朝 |
|
になって遺骸が発見された。沖田総司と斬り合って池田屋で討たれたというのは小説で |
|
ある。墓は京都東山霊山、萩市椿東護国山、下関市上新地桜山神社、山口市朝日山招魂 |
|
場の他、京都岩倉三縁寺に池田屋事変殉難士の墓碑がある。 |
|
|
|
(天保四・十一・二十四〜明治四十二・十二・二十七) |
|
下総佐倉藩士。漢学者。称を七郎、諱を朝宗、号を学海。安政四年二月、師の藤森天山 |
|
に就いて京に上り、家里松オ宅で弟の家里次郎(後に壬生浪士となる)に出会い風流男 |
|
子と評した。慶応三年二月に江戸留守居役となり、翌四年一月十六日の江戸城中で、閣 |
|
老に拝謁して鳥羽伏見敗戦後の挽回策を図るべく登城した近藤勇、土方歳三に会う。依 |
|
田は彼らと親しく語り、土方に伏見の戦状を聞くと、土方は「もう槍や刀では戦争とい |
|
うものは出来ない」との感想を語ったという。この後藩命によって上洛し、閏四月十日 |
|
京の三条河原に晒された近藤の首を目撃し、城中で談笑した生前の姿を思い浮かべてそ |
|
の死を悼んだ。明治十八年、自著「譚海」の中に二人の小伝を編んで載せ、「江戸幕府 |
|
の末、終始一節、死をもって志を明らかにする者、余の知るところをもってすれば、近 |
|
藤勇、土方歳三ら数人に過ぎず」と賞賛した。依田の墓は東京都台東区谷中七丁目の谷 |
|
中霊園にある。 |
|
|
|