後鳥羽院番鍛冶の一人と伝えられる則宗をはじめ、
初期一文字派は姿、地刃ともに古備前派さながらの
作風を示している。この作は腰反り高く踏張りがあり
小乱れに小丁子を交え沸づいた刃文に板目肌地沸
がついた鍛で、則宗の作品中、最も優れた健全な
作品である。一説に新選組の沖田総司がこの作の刀
を所有していたとの事であるが、この時代でも貴重な
刀であり、高価なものであるので不可能と考える。
本国越前住人至半百住 尓
武州之江戸尽鍛冶之工精
指裏の銘文は「本国越前ノ住人、半百ニ至ツテ武州
ニ居住ス。鍛冶の巧精ヲ尽スノミ」と読み、虎徹が
半百(五十歳)になって江戸に出、甲冑師から刀工
に転じたことを裏付ける作刀である。表裏の仁王の
彫物も巧みで寛文三年頃の作である。武州出身の
新選組近藤勇もこの作を愛して止まなかった。
臨兵闘者皆陣烈在前
この刀は関鍛冶の著名刀工之定の代表作で、茎の裏銘
は「兵ノ闘ニ臨ム者ハ皆陣列ノ前ニ在レ」と読むもので、
戦陣にあって勇気を鼓舞する、当時流行した言葉を切
り付けてある。新選組土方歳三の愛刀で知られる兼定
であるが、この作ではなく、会津十一代兼定である。
天正十八年庚 弐月吉日平顕長
明寿と共に新刀鍛冶の租と称される国広が野州足利に
於て長尾顕長のために製作したもので、北条氏康が
顕長に贈った山姥切と号のある長義を写した国広作中
の第一の傑作である。新選組土方歳三が脇指を所有
していたとの事であるが、この時代でも貴重な刀であ
り、高価なものであるので不可能と考える。
両御所様被召出於武州江戸御
剣作御紋康之字被下罷上刻籠 越前康継
この銘文から家康、秀忠の両将軍の前で鍛刀し、葵紋
を賜り康継を改銘したことが明らかで、この期は慶長十
一年頃とみられる。地刃の出来もよく、梅竹の彫物も
見事である。新選組土方歳三もこの作を所有していた。
小板目肌がよくつみ、地沸のこまかくついた鍛に
直刃調に小足が入りよく沸づいて冴えた刃紋の肥前
刀の典例である。初代忠吉は肥前鍋島家の抱工となり
のち代々藩工として栄え、新刀期を通じて数多くの作
品を残し、幾人もの名工を輩出し、これらを肥前刀と
総称している。土佐藩岡田以蔵なども所有していた。
勢州村正は一般に相州正宗の門人というが、室町末期
の刀工である。表裏揃った箱乱刃を焼いて特色を示し
ている。斬味が抜群であり、徳川家に不吉であるといわ
れたところから妖刀説が流布した。幕末期は、長州など
倒幕派に人気があった。この刀は村正の代表作である。
大磨上げ無銘ながら、鎌倉末期の太刀姿で、正宗の
代表作品であり、硬軟の鉄を鍛えた美しい地景と刃
中の沸のはたらきを見事にあらわした作風を示して
いる。観世家から徳川家康に献ぜられ、この呼称が
ある名物である。
大般若長光は、長光の作品中、最も名高い。室町時代に
代付が六百貫で、大般若経六百巻と通じたため名付けら
えれたもので、足利義輝から三好長慶に、さらに信長が
姉川合戦の功により家康に、長篠合戦の奮戦を賞し家康
から奥平信昌へ与えられ、武州忍の松平家に伝来した。
三池典太光世は、九州筑後の平安後期の刀工であり、
この作は室町以来天下五剣の一で、反りが深く堂々
たる体配で大典太といわれる名物である。元来、室町
将軍家の重代で、のち秀吉が所持し、前田利家に与え
て以来、同家第一の重宝として今日に至っている。
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