桂小五郎 
 かつら こごろう 

長州藩士
 
  天保4年6月26日、長州萩藩医者の和田昌景、後妻清子の長男として江戸屋横丁に生まれる。  

  慶応の頃は木戸貫治、木戸準一郎。諱を孝允、号を松菊。父は一般診療も許された裕福な  

  蓄財家で既に54歳の老境に達しており先妻の生んだ姉娘に婿養子を迎えていた為、小五郎  

  は長男に生まれても和田家の後継ぎではなかったが、8歳の時、近隣に住む150石の藩士桂  

  九郎兵衛が重病に臥し急遽その養子となる。養父が僅か20日程で没し、末期養子(当主の死  

  ぬ間際の縁組)の為禄高は90石に削られたが、医者の息子が「桂小五郎」という武士身分を  

  獲得した大きな転機であった。桂家の養母も翌年他界、小五郎は実家に引き取られる。医家  

  は藩の倹約令で締めつけられる藩士とは違い、経済的にも恵まれ、何不自由なくのんびり  

  と育った為か、ひ弱で凡庸な少年だったと伝わり、17歳の時は万一に備え姉の子を養子と  

  定められた程である。藩校明倫館へも武士の子弟と同じく入学を許されたが、20歳でも藩  

  で居住費を支給される居寮生にはならず自費通学の入舎生であった。しかしこの間に藩校  

  兵学教授の吉田松陰の知己を得て師弟関係と親交を結び、剣術は柳生新蔭流の内藤作兵衛  

  に学び、次第に才覚の芽を現す。嘉永5年、萩城下へ江戸練兵館道場主斎藤弥九郎の子、  

  新太郎が来訪したのを機に、実父の死で遺贈された銀10貫目(現代の米価で1千万円相当)  

  を元手に自費遊学を藩に願い出て江戸へ発つ。練兵館に入門した小五郎は人が違ったよう  

  に目覚ましい進歩を遂げ、僅か1年の内に塾頭に推され、まずはその剣名で藩邸内外に知  

  られる存在に成長する。  

  翌嘉永6年、ペリー来航の時長州軍の警固士の一人として大森海岸に出動、近代兵器を搭  

  載した米国の「黒船」の巨体を目撃し、ペリーの開国要求に押された幕府の日米和親条約  

  締結といった一連の中央情勢を見た小五郎は、自ら砲術、小銃術、軍艦建造や英語習得等  

  に関心を示し、弱腰な幕府への失望と、長州が率先して軍事化し外圧に対抗する手段を考  

  えるようになる。師でもある吉田松陰は国元に幽閉の身で老中暗殺計画を唱えたが、小五  

  郎は同じく江戸にいた松下村塾出身の高杉晋作と共に松陰の軽挙を抑え、門人達との連絡  

  を断とうとして松陰から「桂、じつに事をなすの才あり、胆略と学問乏しきは残念なり。  

  この節大いにくじけたるも胆、学、乏しきゆえなり」と激怒されたが、これは江戸にいて  

  現実を直視する冷静さと、持ち前の慎重さが、小五郎にあったからであろう。松陰が安政  

  の大獄で処刑されると、江戸藩邸の大検使に昇進した小五郎は次第に長州反幕派の指導者  

  的立場に立つようになる。軍事技術の専門家である村田蔵六(大村益次郎)を出身地の長  

  州藩に呼び戻す事を考案したり、長井雅楽が事実上の公武合体策である「航海遠略策」を  

  藩論化しようとすると重臣周布政之助を説いてこれを潰し、万延元年には勤皇の急先鋒で  

  ある水戸の西丸帯刀と「水長密約」を結んでいた。文久2年には藩主側近の実権を握る行  

  相府という部署の中心的存在、右筆に任ぜられる。小五郎のような反幕的思想の持ち主を  

  中枢に置く長州藩は「尊皇攘夷」を大義名分とし、京都公卿らを懐柔して一時は京都政界  

  の最優位を占め、下関で外国船を砲撃するという藩独自の攘夷決行にまで突き進んだが、  

  文久3年8月18日、孝明天皇の支持を得た公武合体派の巻き返しによる政変で薩摩・会津  

  の連携により中央政治から失脚する。小五郎は翌元治元年1月再上京して京都留守居役と  

  なり、正藩従合・朝議回復を画策するが、6月の池田屋の変では志士の会合の時間に入れ  

  違った為、危うく難を逃れる。続く7月の禁門の変で長州軍が武力抗議の為大挙上洛、対  

  馬藩士の手紙では、小五郎自ら「仙洞御所の先の所にて越人か何か相分らず候えども白刃  

  をもって向い候につき相応じ候ところ大混雑」と白刃を振るって乱闘した様子を報じてい  

  る。この騒乱の罪で長州は公然朝敵となり、小五郎は京都を脱出して但馬出石に潜伏、慶  

  応元年閏5月に帰国するまで、その行方は誰も知らなかった。時勢を見る目に優れ、常に  

  慎重を要した彼は幕府側の追及だけではなく、池田屋へ救援を送らず同志を見殺しにした、  

  と批判する藩内の尊攘激派からも身を守る為の言動に、「逃げの小五郎」との異名をとる  

  事になる。  

  長州は幕府から第一次長州征伐の追討と四ヶ国艦隊の下関砲撃を受け、高杉らが挙兵によ  

  り保守派を転覆、藩論は挙藩一致の武力倒幕へと進む。この頃、土佐の坂本龍馬、中岡慎  

  太郎らの斡旋により薩長同盟の密約が持ち上がる。小五郎は帰国早々の慶応元年閏5月6  

  日に山口から下関に呼ばれ薩州問屋の白石正一郎邸に於いて待ったが、20日余りしても薩  

  摩の西郷吉之助が現れず京へ向かったと聞き頓挫する。その年の暮れ、改めて薩摩の黒田  

  了介が現れて上洛を要請。文久以来、度々薩摩藩に煮え湯を飲まされてきた長州と小五郎  

  ではあるが、京都形勢視察という名目で藩命を受け、翌2年1月8日、京都の薩摩藩邸に  

  入った。しかし、薩摩側は高待遇で接待するのみで肝心の交渉に行き着かない。22日の朝、  

  帰国を決めて旅支度をする小五郎の元へ龍馬が来て怒ると、小五郎は、今苦境にあえぐ長  

  州が憐れみを乞い頭を下げて薩摩を倒幕の道に巻き込む事を言い出せるだろうか。薩摩か  

  ら呼び寄せても、手を差し伸べるつもりはないならば、長州はこのまま滅んでも良い。薩  

  摩が生き残って幕府を倒してくれれば恨みはないと話し、これに頷いた龍馬が西郷を説得、  

  漸く会談が開かれる。冒頭、小五郎は過去長州に対する薩摩の行動を痛切に批判し、腹に  

  溜まったものを全て吐き出した上での協力でなければ無駄だという決意を見せる。西郷は  

  黙ってその非難を聞き届け、改めて薩長軍事同盟の六か条が成立する。翌23日、小五郎は  

  条項を早急に成文に纏めて双方での熟覧を求め、龍馬が裏面に相違のない事を朱書した。  

  その後大政奉還、薩長主導による武力倒幕が成功すると、既に桂小五郎から木戸姓に改名  

  していた彼は木戸孝允と名を改め、幕末の奔走中に彼を助けた京都の芸妓幾松こと松子を  

  正式な妻に迎える。孝允は明治新政府にあって太政官の徴士、総裁局顧問、外国事務掛、  

  参与となり、明治4年には岩倉具視の使節団副使として長い米欧回覧の旅に出る。孝允は  

  アメリカの普通教育制度に大きな感銘を受け「真に我が国をして一般の開化を進め、一般  

  の人智を開発し、以って国家の権力を持し、独立不羈たらしむるには、僅々の人才世出す  

  るとも甚だ難しかるべし。その急務と為すものはただ学校より先なるはなし」と、学校教  

  育問題を最優先に推進すべきである事を再々記している。また、機械化工場、立憲政体、  

  近代軍事制度を学び、帰国後は長州が率先する形での版籍奉還・廃藩置県等に少なからず  

  功績を残し、西郷隆盛、大久保利通と共に「維新の三傑」とまで呼ばれた。しかし自身の  

  健康を害し、明治6年の征韓論を巡る政争では西郷と激しく対立、西郷が敗れて薩摩に帰  

  った後は大久保の台湾出兵に反対して孝允自らが下野する等、次第に政治の中央からは遠  

  ざかる。晩年の日記には強い頭痛や胸痛に苦しみ、政局への不満を綴る言葉が並んでいる。  

  明治9年、前原一誠の「萩の乱」、続く10年西郷の起こした「西南の役」には病身をおし  

  て鎮撫使拝命を願い出たがいずれも認められず、心身に懊悩の日を過ごすが、死に近づい  

  ても妻松子には、少しは良くなったかと思う、と便りを書く気の細かさもあった。孝允は  

  病床で鹿児島挙兵の西郷に「もういいかげんにせんか。」と苦渋の言葉を残したという。  

  明治10年5月26日死去。享年45歳。  

  木戸孝允、松子とも、墓は京都東山霊山にある。  

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