幕末明治基礎知識

各国との条約
幕末時に幕府が結んだ条約は54を数える。最初は安政元年の日米和親条約、 最後は「大阪表外国人貿易並に居留する規則」である。新政府の最初の条約 は、明治元年三月七日の「兵庫港にて外国人へ地面家屋を貸渡す等の事に関 する書翰」で、差出人は伊藤俊助、のちの博文である。なお「日本天皇」の 名で結んだ最初の条約は「大日本国瑞典国条約書」で明治元年九月二十七日 である。

外国名をどのように書いたか

アメリカ  米利堅、亜米利加

イギリス  大不列顛、英国

ロシア   魯西亜、露国

オランダ  和蘭

フランス  仏蘭西

ポルトガル 葡萄牙

プロシャー 普魯士

スイス   瑞西

ベルギー  白耳義

イタリー  伊太利

スェーデン 瑞典

幕末明治の新興宗教
天理教
奈良の中山みきが始めた神道系の宗教。天保九年に神がかりになり、 天理に従って生活することを説く。主神は天理王命。みきの著に「み かぐらうた」「おふでさき」。

金光教
備中の川手文治郎が始めた神道系の宗教。金神の徳により、病気が全快 したことから天地金乃神と称し、安政六年立教。その神と信者を親子と し、各自家業に励むべきことを説く。

丸山教
武蔵の伊藤六郎兵衛による富士信仰系の宗教。丸山講を基盤とし、呪術・ 祈祷で広まるも政府の呪術禁止により弾圧にあう。

幕末明治の一揆
天保以後減少していた一揆は、安政の開国による国内物価への影響、長州 征伐などの政治情勢の流動化によって、慶応に入ると増加し、特に慶応二年 には42件が記録された。世直し、財産均分の要求も出ている。維新の幻想 が破れた明治二年には50件近くの一揆が起き、貢租の軽減、山林入会の確 保を主張した。徴兵令が出るや、またもや50件の一揆が起り、徴兵による 労働力の減少、検地や地券取調による政府収入強化策に反対した。また、地 租改正に反対して地価三分の地租を「竹槍でどんと突き出す二分五厘」に抑 えた。十七年には農村不況に際し、昂揚期を迎える。自由党の激派が指導し た事件は、この時に起った。

物価高騰
開港後、金銀の流出、生糸と茶を中心とした輸出、綿織物・毛織物をはじめ とした輸入等により、国内経済秩序は大変動に陥り、物資の不足とこれに伴 う商人の買占等で物価の高騰をもたらした。万延元年に白米一石が一二六銀 匁だったのが、文久元年二二一・一銀匁、慶応元年三〇四・六銀匁、慶応三 年には一一四七・六銀匁を要した。(田中彰「明治維新政治史研究」)

幕末の通貨
江戸幕府当初の貨幣制度は約九十年間続いたが、元禄八年に最初の改鋳をし、 以後、幕府財政が苦しくなると改鋳を実施した。各藩では藩内に通用する紙幣 である藩札を発行していたが、貨幣の鋳造については金座・銀座の反対で許可 が下りなかった。しかし、文久二年に薩摩藩が琉球救済の名目で琉球通貨をつ くると、諸藩も大型の銅銭をつくり出した。薩摩では鋳造により三年間で五十 万両から二百九十万両に金庫の銭が増えたという。幕府が初めて金札を発行し たのは幕末の慶応三年だが、いつでも金貨と換えられる兌換紙幣だったため、 実施するとたちまち金貨に換えられたという。金札としての信用が失われてい たのである。

幕末明治の遊郭
幕末における公認の遊郭は25ある。浅草の新吉原、京都島原、伏見夷町、大 阪新町等をはじめ、奈良・大津・駿州・敦賀・堺等各地にあった。この他に、 飯盛女・湯女のような存在、更には岡場所、夜鷹に至る私娼がいた。公認の遊 郭は大きく囲まれ、吉原では大門で閉じられ、島原は「島原の乱の原城」に似 ているほど周囲と隔たれていた。安政六年、横浜に外人のために港崎町が公認 され、明治元年に築地に新島原遊郭が開かれた。祇園は官許がなく、天保期に 一時禁止されたが再興された。これらは七年に三業地に移転集合させられ、存 続した。

肉食と牛鍋
江戸時代には「ももんじ屋」という獣肉を売る店があったが、肉食はいやしめ られていた。しかし、牛肉は近江地方で少量産出し、井伊家を通して味噌漬に したものを薬用として将軍に献上していた。開港とともに外国人が牛肉を求め たが、幕府をはじめ売ろうとはしなかった。そのため、香港・上海で牛を手に 入れ、横浜の屠牛場で屠殺したという。日本人としては文久二年に居酒屋をし ていた伊勢熊が、牛のもつ煮を売り出したのが最初である。江戸では慶応三 年に中川屋嘉兵衛が牛肉店を開いた。この後を受け牛鍋屋「中川」が作られ「 御養生牛肉」という赤い旗を立てた。次第に広まって、明治四年の仮名垣魯文 「安愚楽鍋」では「士農工商老若男女、賢愚貧福おしなべで、牛鍋食はぬは開 化不進奴」と礼賛され、五年正月には、天皇の食卓にも出されるようになった。

洋食店のはじめ
洋食店、事始には三人の名が登場する。横浜の大野谷蔵、東京の三河屋久兵衛、 北村重成である。大野谷蔵は、外人屋敷に下男奉公するうちに料理を覚え、牛鍋 の伊勢熊の繁盛を見て開店したという。三河屋は神田橋で慶応三年に開業したも ので、現在も高級西洋料理店として繁盛している。開業引札は柳川春三の文字で あった。北村重成は、岩倉具視に仕えており、宮内省にも西洋料理専門家がいな い状態を見て、精養軒を開いた。明治九年に岩倉の勧めで、上野池之端に別店を 建てた。

流行歌いろいろ
幕末から明治の初期までは「都々逸(どどいつ)」「かっぽれ」「大津絵」 「縁かいな」という邦楽の端唄系統のものが流行した。明治中期に壮士によ る「演歌」が始まり「愉快節」「欣舞節」「オッペケペ節」「日清談判破裂 して」等、世相批判を含む歌が唄われた。大津絵節の例としては「おいおい 明け行く、明花の御代のおしまり、郵便はがきで事足りる、針金便りや、陸 蒸気、つッぽに靴をはき、乗合馬車に人力ぐるま、はやるは安どまり、西洋 床にたまつきば、おんせんば、日ノ丸フラホや牛肉、日曜ドンタク、煉瓦造 り石の橋」明治六年流行などがある。

明治の相撲
歴史は古いが、職業相撲の成立は江戸時代であり、各地で神社・仏閣の建築 等のため勧進相撲が行われた。とくに有名なのが、両国回向院のもので、晴 天六日(のち十日)の興行が行われた。維新後、廃藩置県がなされると、大 名の庇護のもとにいた力士たちは大打撃を受けた。さらに各種の欧化政策が 打ち出されるに及んで「相撲興行は野蛮な遊戯なり」との論が勢いをもち、 相撲禁止の瀬戸際に立たされるほどであった。再び興隆に向かったのは、日 清戦争後である。

幕末維新の乗物
幕末の乗物といえば、まず駕輿であり、維新後の流行は人力車である。この 間に過渡的なものとして輿のようなものがある。人力車は明治二年に和泉要 助が発明し、たちまち広まった。はじめ人車とも云った。馬車も一部で使用 され、木製車輪の自転車もつくられた。鉄輪の自転車が普及したのは明治二 十年代以後である。

男女混浴の禁止
明治二年二月二十二日、東京府触で、男女入込・洗湯を禁じ、薬湯でも混浴 を禁じた。しかし、徹底せず、三年六月に重ねて禁令を出し、入口・格子等 に暖簾をかけ、見通しのきかぬようにした。五月四日にも同様の命令を出し、 この頃に至って普及した。

斬棄御免の禁止
江戸時代には百姓町人が無礼をはたらけば、斬棄にされても訴えようがなか った。これに対する禁令は四年八月で「士族の輩、下民へ対し瑣屑の不敬を 咎め、甚しきは之を刃殺する等有之候ては不相済事に候条、驚く告論可致事」 とある。

幕末明治のキリスト教
水戸学の会沢安によれば、西洋諸国は「邪蘇ノ法ヲ奉ジ、以テ諸国ヲ呑併ス」 と、キリスト教とその侵略性が一体として捉えられ、攘夷の根拠とされた。長 い鎖国を開いたペリーもこの点には慎重で、キリスト教の布教について条件を 出さなかった。日米修好通商条約等により、在留外人の信仰の自由と踏絵の停 止が決まり、安政六年、宣教師たちが上陸してきた。新教のウィリアムス、フ ルベッキが長崎に、ブラウン、ヘボンが神奈川に、ギリシャ正教会のニコライ は箱館に上陸した。明治維新後、切支丹禁止を継続した政府も諸国との外交上 六年二月に禁制の高札を撤去した。しかし、これは主に外国向けで、国内では 何の布令も出さず、高札を出して、これは見終りといって引っ込めたという。 最初の教会である横浜公会は五年に成立したが、海老名弾正らの熊本バンドは 九年、内村鑑三らの札幌バンドは十年であり、この後二十三年頃までがキリスト 教の伸長した時期であった。

郵便制度のはじめ
飛脚が文書を運ぶと、東京〜京都間を特別の仕立便で三日、早便で一週間、並便 では半月かかり、料金も高かった。明治三年に駅逓司の長官になった前島密は、 欧米の制度を聞いてこれを研究した。手始めに当時飛脚屋に払っていた年一万八 千両の枠内で、毎日飛脚をたて、京都まで三十六時間、大阪まで三十九時間とし、 駅ごとに周囲四、五里の郵便も受ける事とした。切手の使用・消印等、草創記に つきものの試行錯誤ののち、渡米して視察し、四年三月より業務を開始した。

ザンギリ頭の歌

半髪頭をたたいてみれば

 因循姑息の音がする

総髪頭をたたいてみれば

 王政復古の音がする

ザンギリ頭をたたいてみれば

 文明開化の音がする


漢語の流行
維新後、漢語を使うことが流行した。元年五月発行の雑誌に「此頃鴨東の芸妓少 女 に至る迄、専ら漢語を使ふことを好み霖雨に盆地の金魚が脱走し、火鉢が因循 して居るなど、何の辨へもなく、言ひ合ふこととなれり」とある。文明開化に伴 う翻訳語がもっぱら漢語であること、法律・布告類も漢語が多いことにより、こ の傾向は長く続いた。

巻煙草・天狗煙草
煙草は一六〇〇年頃渡来。薬用、ことに梅毒に効くと信じられた。幕府は何度か 禁じたが効果なく、商品作物として栽培が広まった。当初は葉のまま売買し、刻 んで喫んだが、一七四〇年頃刻みを売り歩くようになった。明治になり、巻煙草 が輸入されるが、始めは洋品屋で販売していた。国産のは千葉松平の大江戸・国 華・牡丹、岩谷松平の天狗煙草が有名であった。明治三十七年に専売制となる。

パンとビスケット
いずれも早くから伝えられていたが、実際に焼かれたのは開港後のことである。 横浜では牛肉販売もした中川屋、東京では風月堂、木村屋が知られている。「 風月堂乾蒸餅(ビスケット)製造之要趣」によれば、東北に転戦する薩藩より、 兵糧として求められ、便利な事が実証されたとある。当時の食パンは餡なし饅頭 と呼ばれ、まずいために砂糖をつけて食べたという。木村屋は日本人向きとして 明治五年にアンパンを発案して歓迎された。


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