幕末明治基礎知識

内国勧業博覧会
五年に湯島の聖堂で行われたのが始まりというが、これは 文部省共催の博物館的なものだった。本格的なものは十年 の第一回内国勧業博覧会であり、大久保利通内務卿の建議 という。上野公園に美術館・本館・農業館・機械館等を配 し、表門に大時計・噴水を設けた。制糸の実演、売り物見 世等大変な混雑であった。中には趣旨を知らず、大きけれ ばよいと二間もある唐芋、九尺近い有平糖の宝船等が出、 宝船に至っては暑さのため、開場前に崩れたという。

陸軍参謀本部
陸軍の作戦・指揮・統制等、いわゆる軍令を統轄する機関が 参謀本部である。元来は陸軍卿の下に軍令も軍政も一体とな っており、太政大臣の輔弼により天皇の大権が発動された。 しかし、十一年に本条例により陸軍省と対等のものとして参 謀本部が設置され、後年の統帥権独立の一歩を踏み出すこと になった。

明治初期の雑誌
「西洋雑誌」を柳川春三が発行したのが慶応三年である。明治 に入ると「文部省雑誌」「民間雑誌」(慶応義塾出版社)「明 六雑誌」が六、七年に出る。特に「明六雑誌」は当時のインテ リ集団である明六社社員が論陣を張り、大きな影響を与えた。 森有礼・福沢諭吉・中村正直・加藤弘之らである。八年、週刊 で「共存雑誌」が出て、次第に長期に継続するようになる。十 八年の「女学雑誌」は厳本善治を中心に名を売る。徳富蘇峰の 「国民之友」は二十年である。これと世評を二分した「日本人」 は三宅雪嶺・志賀重昂らによって二十一年に刊行。翌二十二年 には石井研堂の「小国民」が創刊、青少年に広く読まれた。

大日本農会
全国的な有志による農業団体で、皇族を会頭、幹事長以下は、 農商務省の官僚が担当。当初は農事の施策浸透を図るが、明治 二十八年、全国農事会の分離とともに研究機関となる。曲折は あるが、全国農事会の系統は今日の農協中央会の前身と考えら れる。

日本鉄道会社
最初の民営鉄道会社で、旧大名・公家らの金禄公債を資金として 設立。上野−青森、上野−高崎線を計画し、明治十七年高崎まで、 明治二十四年青森まで全通。明治三十九年、鉄道国有法で国有化 され、東北本線、高崎線となる。

小学唱歌
四月十一日に刊行された初編は伊沢修二が監修し、文部省音楽取調掛 が編集した。伊沢は音楽の効用として「人心ヲ正シ風化ヲ助クル」と 述べている。まず音階の練習があり「第一 かをれ」以下「第三十三  五倫の歌」までが収められている。著名な曲としては「春のやよひ」 「蝶々」「蛍(の)光」「君が代」がある。

私立大学の設立

安政 5年  福沢諭吉の蘭学塾 → 慶應義塾大学

明治15年  大隅重信の東京専門学校 → 早稲田大学

明治 8年  新島襄の同志社英学校 → 同志社大学

明治13年  東京法学社 → 法政大学

明治14年  明治法律学校 → 明治大学

明治15年  皇典講究所 → 国学院大学

明治18年  英吉利法律学校 → 中央大学

明治22年  日本法律学校 → 日本大学


気象観測と天気予報
天文台は渋川春海が元禄年間につくったが、近代的な装備は明治 三年から五年にかけて英国から買い入れ、五年から気象台で気象 観測を行うことになった。天気予報は十四年に品川に信号柱を建 てて、暴風や風向を知らせたのに始まり、十六年には警察署・派 出所に掲示することにした。二十年に気象台測候条例に基づき、 内外に定時に天気予報と天気図を発表することが定められた。

鹿鳴館
井上馨外務卿の提案した条約改正のための欧化政策は、伊藤博文 の貴族趣味と結びついて、いわゆる鹿鳴館時代を現出した。洋館 を建て、洋服を着、日比谷の鹿鳴館では日夜舞踏会を催し、上流 社会は酔ったようにこれにふけった。十七年に貴婦人達によるバザ ーが開かれたのもここである。しかし、二十年末に井上の条約改正 が失敗するや欧化政策に対する世論の批判が強くなった。なかでも 同年四月に伊藤主催の仮装舞踏会のスキャンダルは尾をひいた。こ の舞踏会は痴戯を極めたもので、井上は道化に、山県有朋は武将、 渋沢栄一は娘と太田道灌を演じたという。

恩給のはじめ
明治四年に公務傷病に対して規定されたのが最初。この時は一時金 の形だったが、八年に「陸軍武警傷痍扶助、及び死亡の者祭祀、並 に其家族扶助概則」等により軍人に支給された。十五年に警官、十 七年「官吏恩給令」で文官にも支給されたが、決定権はすべて太政 官が握っていた。

華族制度と叙勲制度
華族は明治二年に定めたが、十七年の華族令で公・侯・伯・子・男 の五爵位に分けた。五〇〇人余りが爵位を得たが、その後増加し、廃 止時には九四三人に達した。位階は元年に正一位から従九位等二十階 で発足し、新政府の序列づけをした。勲等は八年に制度を設け、勲一 等旭日大綬章から薫八等白色桐葉章までの八等を定めた。翌年勲一等 の上に大勲位菊花大綬章と大勲位菊花章が設けられ、以後、更に増加 した。一級から七級の金鵄勲章は二十三年、文化勲章は遅れて昭和十 二年の制定である。

年賀はがき
年賀はがきは明治十二、三年以後、次第に流行するが、年賀の書式に 「恭賀新年」等と書くのは、明治三年十月の太政官令の官吏の賀表書 式に遠因するといわれる。

官業払下げ
幕末以来、官営工業は増加していたが、明治中期になると、新政府は民間へ の払下げを行った。しかし相手が政商といわれる大資本の系列であり、条件 も有利であったことから問題となった。払下げられた鉱山や工場の多くは、 その後の産業発展の中核になり、流通過程を握っていた政商たちが飛躍する 契機となった。

官   業   払下年   授 受 人

高島鉱山    明 7   後藤象二郎(明治14年三菱に譲渡)

足尾鉱山      10   古河市兵衛

堺紡績所      11   肥後孫左衛門(浜崎太平次の名義人)

釜石鉱山      16   藤田伝三郎

小坂鉱山      17   久原庄三郎

深川工作分局   17   浅野惣一郎 西村勝三

院内鉱山      17   古河市兵衛

阿仁鉱山      18   古河市兵衛

品川硝子製造所  18   西村勝三

兵庫造船所     19   川崎正蔵

三田育種場     20   前田留吉

長崎造船所     20   三 菱

三池鉱山      21   佐々木八郎(明治22年三井に譲渡)

帆内鉱山      22   北海道炭鉱鉄道会社

富岡製糸所     26   三 井

佐渡鉱山      29   三 菱

生野鉱山      29   三 菱


明治の政商

三井組
維新後、井上馨、伊藤博文、山県有朋らと結んで伸長。これには三井家 のほか、三野村利左衛門ら有能な大番頭の力も大きかった。

岩崎弥太郎(三菱財閥)
三菱の基礎は岩崎が、一代で築いた。後藤象二郎・大久保利通・大隅重信 ・松方正義らと親しく、まさに典型的な政商である。征台、西南の戦役に 際し、汽船の無償下付を受け、海運界に独占的地位を築く。死後、官営長 崎造船所払下げにより、造船・軍需工業に進出し、三井に次ぐ勢力を振っ た。

安田善次郎(安田財閥)
維新後、太政官札の買占めで巨利を博し、政府の御用為替方になる。第三 と第四十一国立銀行創設に関わり、安田銀行や生命保険会社を興し、金融 業界の大立者となる。

渋沢栄一
洋行したのち、二年大蔵省に入るが六年に退官し、第一国立銀行を創立し、 総監役となる。銀行のほか、近代産業全般に関して代表的な指導者として 活躍、五百以上の会社設立に加わる。

ほかに、古河市兵衛、大倉喜八郎、浅野総一郎、藤田伝三郎、五代友厚等 が有名である。

専売特許
新発明を保証し、専売の利益を与える専売特許は、四年に略則が発布され、 十八年に完全な専売特許条例として制定された。第一号は堀田瑞松の「錆止 資料及其塗法」で、十五年間の特許権を得た。なお、四年の際には碌な申出 がなく、審査には外国人を雇ったりして金がかかりすぎるので廃止になった という。

教科書
民衆の教育機関であった寺子屋では「実語教」のようなものが使われていた。 「山高きが故に貴からず、木あるをもって貴しとなす」はその文中にある。福 沢は「学問のすすめ」でこの言葉を引きながら勉学をすすめている。福沢の影 響は学制発布当時は官吏の間でも大きく「文部卿は三田にあり」と言われた。 しばらく教科書の発行・採択については自由だった。福沢のものをはじめ内田 正雄の「輿地誌略」箕作麟祥の「勧善訓蒙」等、洋学者の啓蒙書が多かった。 他方で文部省の「小学読本」(六年刊)は、アメリカのウィルソン・リーダー の翻訳が主で、日本の現実とも、小学校の程度とも一致していない。教科書を めぐる全体の流れは、自由→禁止書物の指定→申請→認可制→検定制→国定へ と進んだ。

お雇い外国人
日本の近代化にあたって、お雇い外国人の果した役割は 計り知れないものがある。国家としての組織づくり、そ してその運用のしかた、また文化・技術面での近代化= 欧米化にあたって、あらゆる分野で活躍した。新政府に 招かれた外国人の数は八百人を下らないといわれる。国 籍別では、英・仏・米・独の四ヶ国が断然多い。以下各 国別に、主な、お雇い外国人を列挙する。

<イギリス>
コンドル
1852−1920 建築家。明治十年来日。帝室博物館 ・鹿鳴館・ニコライ堂などを設計。

チェンバレン
1850−1935 言語学者。明治六年来日。アイヌ語 ・琉球語の研究に多大の成果をあげる。

ピゴット
1852−1925 法学者。明治二十年来日。政府の法 律顧問。

モリス
1849−1911 電信技術師。明治四年来日。電信架 設事業に寄与。

モレル
1841−1871 鉄道技師。明治三年来日。鉄道建設 に寄与。

<フランス>
ジュ・ブスケ
1837−1882 軍人。慶応三年来日。仏式軍制導入 に寄与。

ボアソナード
1825−1910 法学者。明治六年来日。刑法・治罪 法・民法を起草。

<アメリカ>
クラーク
1826−1886 科学者・教育家・明治九年来日。札 幌農学校創設にあたる。

ケプロン
1804−1885 農政家。明治四年来日。北海道開拓 計画を立案。

フェノロサ
1853−1908 美学者。明治十一年来日。東大で講 義。日本の伝統美術の保護を訴える。

メーソン
1828−1896 音楽教育家。明治十三年来日。伊沢 修二と協力し「小学唱歌集」編集に寄与。

モース
1838−1925 動物学者。明治七年来日。大森貝塚 の発見者。

<ドイツ>
ナウマン
1860−1919 地質学者。日本列島の地質構造を研 究。日本の化石象研究家としても有名。

ベルツ
1849−1913 医学者。明治六年来日。脚気など日 本独特の病気を研究。「日記」は貴重な記録。

モッセ
1846−1925 法学者。明治十九年来日。地方自治 制度確立に貢献。

ロエスレル
1834−1894 法学者。明治十一年来日。外務省の 法律顧問として明治憲法制定に寄与。

ワグネル
1831−1892 物理・科学者。明治元年来日。有田 の窯業技術を改良。

フルベッキ
1830−1898 宣教師として嘉永五年来日。学制の 起草など立法事業に貢献。

<イタリア>
カッペレッティ
?−1887 建築家。明治九年来日。旧参議本部の設計 者。

キヨソネ
1832−1898 銅版画家。明治八年来日。紙幣など の原版を作成。

フォンタネージ
1818−1882 画家。明治九年来日。門下に小山正 太郎・浅井忠。

ラグーザ
1841−1927 彫刻家。明治九年来日。門下に大熊 氏広・藤田伝蔵。

<ロシア>
ケーベル
1848−1923 哲学者・音楽家。明治二十六年来日。 東大で西洋哲学を講義。思想的影響を大いに与える。


第一次伊藤内閣陣営
総理 大臣  伊藤博文

外務 大臣  井上 馨

内務 大臣  山県有朋

大蔵 大臣  松方正義

陸軍 大臣  大山 巌

海軍 大臣  西郷従道

司法 大臣  山田顕義

文部 大臣  森 有礼

農商務大臣  谷 千城

逓信 大臣  榎本武揚

書記 官長  田中光顕

法制 局長  山尾庸三

(明治十八年 1885)

明治初年官制沿革表
慶応三年十二月九日王政復古の大号令

(三 職) 総 裁 − 議 定 −参 与

明治元年一月十七日三職七科の制

総裁−議定−参与
神祇事務局−内国事務科−外国事務科−海陸事務科−会計事務科−刑法事務科−制度事務科

明治元年二月三日三職八局の制

総裁−議定−参与
総裁局−神祇事務局−内国事務局−外国事務局−軍防事務局−会計事務局−刑法事務局−制度事務局

明治元年閏四月二十一日政 体 書

義政官−上局(議定−参与)−下局(議長−議員)
神祇官−行政官−外国官−軍務官−会計官−刑法官

明治二年七月八日職 員 令

神祇官(のち神祇省と改称)−太政官
集議院(太政官から下付された議案を検討)
民部省−大蔵省−外務省−兵部省−刑部省−宮内省−大学校 開拓使

コーヒー店のはじめ
明治二十一年四月十三日に当時の下谷区西黒門町に「可否茶館」が開店した。 鄭永慶が店主で、コーヒー1杯1銭5厘、牛乳2銭であった。新聞雑誌室、更 衣室、運動具を備えていた。その二、三年前頃より、洋食店では食後に出した りした。コーヒー店の大流行は大正時代も末からのことである。


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