薩摩藩士 |
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天保11年10月16日、薩摩鹿児島城下、新屋敷町に生まれる。了介、 |
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号は羽皐。父は鹿児島藩士黒田清行、母は丸田平左衛門の女。 |
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文久3年の薩英戦争で初めて実戦に参加。同年江戸の江川太郎左衛門 |
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の塾に大山巌と共に入り西洋砲術を学び、禁門の変にも参加している。 |
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慶応元年12月には西郷隆盛の命令で馬関で高杉晋作と交渉を行い、 |
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薩長連合にも尽力した。 |
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明治元年鳥羽伏見の戦いでも活躍し、戊辰戦争では北越の戦において |
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越後口の参謀をつとめ、山県有朋とともに河井継之助の守る長岡城攻 |
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略を行った。 |
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明治2年5月11日早朝、黒田は箱館総攻撃の命を下す。「陽春」「春日」 |
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の両艦の砲撃に榎本軍は「蟠竜」で対抗するが、徐々に押され五稜郭と |
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弁天崎、千代ヶ岡意外は新政府軍に抑えられた。箱館奪回のために松平 |
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太郎らが一本木まで討ち出るが、土方らの戦死者を出すこととなる。 |
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12日、五稜郭は官軍の直接艦砲射撃を受け榎本軍からは脱走者が相次 |
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ぐ。黒田は戦いは決したと判断し榎本軍医であった高松凌雲を使者に |
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降伏勧告をするが、榎本は抗戦の返事をし、オランダ留学で手に入れた |
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大切な「海律全書」二冊を黒田に贈呈する。13、14日と五稜郭からの |
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脱走は増え、15日官軍の砲撃、16日には千代ヶ岡、弁天台も陥落。 |
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黒田はこの日、酒五樽とマグロ五本を五稜郭に贈り、総攻撃を行わなか |
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ったといわれる。そして、五稜郭は内部分裂崩壊のかたちをとり兵は |
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次々に投降し、ついには榎本も降伏した。5月18日、黒田は海軍参謀 |
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益田明道と五稜郭に入城した。榎本、大鳥、松平太郎、荒井郁之助、沢 |
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太郎左衛門ら人材の助命を岩倉具視に願い出、斬罪を主張する長州らに |
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対抗し、西郷隆盛や福沢諭吉らに働きかけて朝議を動かすことにより |
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成功した。新政府の人材保護の役に立つとともに、自らがその才を利用 |
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できる立場になったとも言えよう。話は美談として語られることとなる。 |
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明治3年、黒田は北海道平定の功により開拓次官となり、7年6月には |
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屯田兵を創設、8月には参議兼開拓長官となる。 |
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明治10年、西南戦争では征討参軍として西郷軍と戦う。熊本城攻防戦で |
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西郷軍の背後を攻め政府軍に勝利をもたらした。 |
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酒乱の癖があったと言われ、明治11年、泥酔状態で自分の妻を斬り殺 |
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し、世間のうわさになったことがある。 |
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明治21年には首相になり、晩年枢密院議長となる。 |
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明治33年8月23日没。享年61歳。死去の際、葬儀委員長を務めたのは |
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榎本武揚であったといわれる。 |
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墓所は東京都港区青山墓地。 |
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