西本願寺

京都市下京区堀川通花屋町下ル




 
京都の二つの本願寺で、東は佐幕、西は勤皇寄りと俗に言われるように、元治元年の蛤
御門の変の際、西本願寺では境内へ逃げ込んだ長州藩士に僧侶の格好をさせて落ち延び
させるなどしたため、幕府側から勤皇派であると睨まれ、山内捜索の結果、家臣僧侶数
名が捕らえられている。こうした経緯から、翌年の慶応元年二月には監視の意味もこめ
新選組が西本願寺に屯所を移した。使用されたのは東北の方角にある北集会所と太鼓番
屋、堂宇(幼稚園)である。新選組は本陣の札を掲げ、本堂との間に竹矢来を組み、牢
屋から首切り場までこしらえ、境内で剣術や銃砲の訓練を行い、住民や寺も大いに迷惑
した、という。幕医松本良順のすすめで、食用に豚を飼ったという話もこの屯所の頃で
ある。特に銃砲の音は寺の門主を驚かせ、会津藩に交渉して、大小砲の訓練は壬生寺で
行うようになった。新選組はその後、慶応三年秋に不動堂村の新屯所に移り、北集会所
は明治初年に解体、姫路市亀山本徳寺の本堂として移転、現在も残っている。
「新撰組始末記(壬生浪士始末記)」の著者西村兼文はこの西本願寺の侍臣であったた
め、後年の著作にも、迷惑を被った新選組に対して好意的でない部分が多い。

高台寺

京都市東山区八坂下河原町四六三番地



  
慶応三年三月二十日、伊東甲子太郎ら十五名が新選組を分離し、東山泉涌寺塔頭戒光寺
の長老、湛然の肝煎りで孝明天皇の御陵衛士を拝命した。同年六月八日には、五条通り
善立寺から、臨済宗建仁寺派月真院(高台寺の塔頭)に屯所を移した事から、御陵衛士を
高台寺党とも呼ぶ。同年十一月十八日、新選組の近藤勇の妾宅へ招かれた帰路斬殺され
た伊東の遺体が油小路に置き去りにされている、との知らせを受けた時、月真院屯所に
残っていて引き取りに出向いた七人のうち、藤堂平助、服部武雄、毛内有之助の三人は
闘死し、鈴木三樹三郎、篠原泰之進、富山弥兵衛、加納道之助の四人は脱出して薩摩藩
邸に庇護され、高台寺党は事実上この日に消滅した。
現在月真院は素泊の民宿も兼ねている。


黒谷本陣

京都市左京区黒谷町



 
文久二年、京都守護職を拝命し、洛内外の秩序保持に努めた会津藩主松平容保は、浄土
宗黒谷金戒光明寺を本陣とした。在京中に亡くなった藩士、二百五十人余りの殉難者の
墓所が塔頭西雲院に定められ神霊として祭られている。慶応四年一月の鳥羽伏見の戦で
戦死した藩の軍事奉行林権助ら百十四人の藩士の名を刻んだ追悼碑が墓地入口左側にあ
る。池田屋事件の後、新選組と共に残党捜索に当たって土佐藩士を誤って傷つけ(明保野
亭事件)引責自刃をした会津藩士、柴司の墓も同所にある。


島原遊郭

京都市下京区西新屋敷揚屋町三十二番地



  
京都の遊郭島原の揚屋(お客を揚げて遊ばせる店)。
島原は以前から唯一の官許の遊郭であったが、寛永十八年所司代板倉宗重の命令でこの
朱雀野へ突然移転を命じられ、その混乱ぶりが前年の島原の乱に似ていたので「島原」
の名になったという。幕末の頃も、新選組屯所のある壬生から島原の灯りは見え、若い
隊士らの心を誘ったと思われる。
「角屋」は中でも格式が高く、表を格子造りにした木造二階建て。「緞子の間」「翠簾
の間」「青貝の間」などがそのまま残る。この店には西郷隆盛、久坂玄瑞らもよく遊ん
だといい、倒幕佐幕を問わず客を迎えた場所である。
新選組との関わりとしては、文久三年六月の宴会の最中、芹沢鴨が角屋の扱いが気に入
らぬと大暴れして七日間の謹慎を言い渡した事件がある。同年九月十八日の夜、同じ角
屋の会合で酔った芹沢は壬生屯所に帰り暗殺された。
現在、角屋玄関口前の柱の傷には「新選組の刀痕」という案内板が取り付けられている。
見学は申し込み制。(電話075−351−0024)


七条油小路

京都市下京区油小路通木津屋橋上ル油小路町二八一番地



 
法華宗実相山本光寺。俗称を法華寺。現在は尼寺である。慶応三年十一月十八日、近藤
勇から妾お孝の家(醒ヶ井通木津屋橋下ル)に招待を受けた伊東甲子太郎は、その帰路
油小路木津屋橋で大石鍬次郎、宮川信吉、横倉甚五郎ら新選組隊士に襲われ斬殺された。
伊東が最後に腰をおろしたという「南無妙法蓮華経」の門派石は、今は本光寺の門内に
あるが、かつては門の外にあったという。


寺田屋

京都市伏見区南浜町二六三




土佐の坂本竜馬の定宿として、女将お登勢、養女お龍の名と共に有名な伏見の舟宿で、
現在も当時の姿をとどめ営業している。文久二年四月二十三日、薩摩藩の同士討ち事件
「寺田屋騒動」の舞台にもなった。
一橋慶喜の宇治進発警備、不穏人物の捜索などで、伏見一帯は慶応二年一月中旬から厳
戒態勢となり、新選組は一隊が十九日に大坂八軒屋へ人別改めに出張、また一隊が伏見
奉行所からの要請を受け、数日間伏見近辺の御用改めを行った。
十九日に坂本竜馬が上京、寺田屋に一泊し、二十日には洛中に潜入。二十一日、新選組
が寺田屋を改めた時竜馬は不在で、在宿中の長州藩士三吉慎蔵は押入れに潜入して難を
逃れた。二十二日、幕府密偵が薩長の周旋をする要注意人物でもある竜馬の京都潜入を
確認。この日に薩長同盟締結。翌二十三日、竜馬は寺田屋に戻ったが、二十四日未明、
伏見奉行所捕方ら幕吏の襲撃を受け、お龍の助けと短銃による応戦で危うく脱出した。
これに新選組は加わっていないが、同時代史料には襲撃側の捕方を新選組と誤認して記
述したものが散見される。



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