気品高き剣法


 
天保時代の書「新撰武術流祖録」によれば、桃井八郎左衛門により、安永年間(1772〜81)
 
に創始という。元は柳沢家に仕えていたが、致仕して武芸修行に打ち込み、万般の武芸に
 
通じた。彼が鏡心(新)明智流を立て、江戸で道場を開いたのである。南八丁堀にあった
 
桃井道場「士学館」は代々息子たちが受け継ぎ、特に駿河生まれの武士で修行の末に養子
 
となった四代目の桃井春蔵が師範になってからは大躍進を遂げ、千葉周作の玄武館、斎藤
 
弥九郎の練兵館と並び、江戸三大道場のひとつと云われるようにまでなった。他の流派と
 
の違いは分かり難いが、巷間、「位の桃井、力の斎藤、技の千葉」と品格を賞されたのは、
 
春蔵自身も白面の美丈夫だったが、剣にも気品があったようである。士学館は土佐藩の武
 
芸改革にも関与し、安政三年には門人が土佐に招かれて試合をし、江戸の築地に土佐藩の
 
屋敷があり道場に近かった事から、子弟が多く学んだ。既に土佐の国元で小野派一刀流の
 
道場まで開いていた武市半平太は、江戸赴任後に桃井道場へ入門し皆伝、塾監になってい
 
るが、同流儀では気品と礼儀を重んじたのに対し、剣を政論の手段に利用し、闘争用の剣
 
法に熱中した「人斬り以蔵」こと岡田以蔵という暗殺者をも生みだしている。
 
ただ、幕末の桃井道場で四天王と称された上田馬之助、坂部大作、久保田晋蔵、兼松直廉
 
らは正統派で、流儀を明治まで伝えた。四人の中で薩摩藩士の上田は異色で、終生喧嘩沙
 
汰に彩られている。佐倉藩士の逸見宗助も、桃井道場で俊才を賞された一人で、剣技が正
 
統だっただけではなく、日常の生活も模範的な人格者だったという。これこそがこの流派
 
の神髄であろう。
 
 
 
                                                 (参考 世界文化社新選組)

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