源さん、惚れられる (前編)

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(一) おじさん侍



 (四十を二つ三つ過ぎたところだろう。)
と、女スリのお袖は思った。
 慶応二年の春も盛りで、ここ京の町では清水寺へ参詣ついでの花見客が連日訪れている。
本来、京で最も桜が美しいのは嵐山だというが、やはりそれは、市中から出掛けるには一
日仕事になってしまう。清水で充分だ、と思う市民や観光の者も多いらしく、午後の門前
町は、仕舞いぎわの茶店がまだ少し、歩き飽いた客の姿をそこここにとどめていた。
 といって、江戸から流れてきて日の浅いお袖が、清水からほど近い土産物屋の並ぶ往来
を日がなぶらぶらしているのは、何も高名な桜を見るためなどではない。花に浮かれ、行
楽に疲れて、ぽうっとそぞろ歩いている人びとをお客にすることのほうが目的なのである。
 細い坂道をおりようとする時、人の注意はどうしても、足元にいく。少し酒気の入った
者も多い。この辺りの仕事は、お袖にとっては絶好の稼ぎ場所になっていた。
 おかげで、その日自分に課した目標の金額はとうに手に入れ、いくつかの財布が空しく
京の水路に消えていったあとなのだが、西日が茜色を少し濃くしてきた時刻になって、お
袖はふと、そのお客を今日の仕事納めにしてみよう、と思いついたのである。
 四十過ぎ、とお袖がみとめたその「お客」、つまりカモだが、その男は武士だった。だ
が、「武士」というご立派な文字がおよそ似つかわしくないほど、どう見ても野暮ったい、
ぽっと出の田舎ざむらい、と表現したほうがぴったりの、冴えないご面相をしている。着
ているものは粗末ともいえないが、どことなく借り着のような、肩幅や袖丈がすっきりと
身に合っていないような、まあ、ひとことでいうと垢抜けないいでたちなのだ。
───リャンコには、うっかり手エ出すなよ。
と、スリの技を仕込まれた当初、お頭の善平衛にはくどいほどに言われたものだが、お袖
はそれを承知で、仕掛けてみる気になっている。運試しでもあり、技試しでもあるだろう。
「リャンコ」とは二つのこと、つまり二本ざし、侍の俗語である。大して懐も豊かでない
上に、思いがけず手練の武芸を持っていたりして、スリを試みるには得のない相手だから、
というもっともな教えだった。その教訓にお袖があえて逆らってみる気になったのには理
由があるのだが、それは後で述べることにする。
 お袖は白く繊細な指を軽く鳴らしてから、ごく何気ない足取りでその武士に近づいてい
った。ほろ酔いの通行人たちを避けるかのように、少しそちらの方へ距離を縮めると、肩
先が触れるか触れないか、というまさに絶妙の間合いでそばをすり抜けている。
(ふっ。)
 お袖はそのまま、細い無人の小路の中に折れてゆき、天水桶に身を隠すようにして、左
の袂から藍色の財布を取り出した。
「おや、まあ。」
収穫のお宝を拝んだ時、お袖は意外な声を出した。
「あの、サンピン……こんなに持っていやがった。」
見かけによらず、中にはしめて五両に近い金が入っている。その印象の差に、お袖は面食
らったのだ。
 いったん空にした財布を、今度は縞の帯の中へ深めに挟み込むと、お袖はもう一度表通
りに出て、西の方向を見た。
 例の侍が、さっきとまるで同じ歩調で飄々と歩いてゆく背中が見える。
(くにから持ってきた、なけなしの虎の子だなんていうんじゃないだろうね。いやだよおじ
さん。青くなって首でもくくるんじゃないよ。)
そのやや丸い背中を見ていて、お袖は常にない好奇心を抱いた。仕事の後でお客に近づく
などという、これも師匠の戒めにそむく形で、その侍のあとをつけてみる気になっている。
理由は今のところ、当のお袖にもわからない。
 十分も歩いたろうか。ふと、その「おじさん」は、いずれ歴とした家中の武士であろう
と見てとれる(こちらの方が風采がいいのだ)二人連れと、ばったり行き会った。「おお、」
という最初の声だけが聞き取れた。
 「おじさん」はその二人連れの武士に、深ぶかとお辞儀をしている。その挨拶ぶりが、
どちらかというと野良で庄屋に出会った小作の百姓、とでもいったほうがいいような、純
朴そのものの頭の下げ方であった。二人のほうもつられて丁寧にお辞儀を返しているとこ
ろを見ると、公のつきあいがあるらしい。
(上役かな。)
 「おじさん」は何かにこにこと笑いながら、合計で六回も頭を下げて、やっと歩き出し
た。その仕草を遠目に見ていて、お袖は何だか、気の毒になってきた。
(お人よしそのもの、って感じだねえ。)
またさりげない距離を置いて後を歩きながら、
(どう見ても、自前で大金を持っているって顔じゃないもんね。仕事で京に上ってきて、お
役目がらみの金を持っていたんじゃないかしら。)
と、お袖は想像をたくましくしている。江戸では芝居見物を欠かしたことのない女だから、
多少はその影響もあるだろう。
(このまま屋敷について……公金を無くした、ってんで、腹でも切らされるなんてことにな
ったら……いやだ、寝覚めの悪い。)
お袖は、とりあえず「おじさん」の行く先を見届けるつもりだった。
 しかし、その「おじさん」は、数丁も歩いて繁華な町並みに着くと、ひょい、と一軒の
居酒屋の暖簾を分けて、中に入ってしまった。
「ありゃりゃ、」
お袖はぎょっとして足を速めると、あまり考えずに、同じ店の暖簾をくぐっていた。



 店内は、まだ日没には間があるというのに、ほどほどの客で埋まっている。座敷はなく、
樽腰掛けと素朴な木肌の卓がきちんと磨かれている小奇麗な造りで、亭主の筆らしい文字で
「出来ますもの」と簡単に書いて貼ってある品書きや、給仕が初老の女一人らしいところ
を見ると、本当に酒と料理だけを味わう店らしい。といって、板場で包丁を動かしている
亭主の様子から見ると、一杯呑み屋にしては品がよさそうでもある。懐の寒い職人や浪人な
どは、もっと気取らない立ち飲みはかり売りという(現在でいうスタンドバーのようなもの)
に行くはずで、この店の客はそれなりの町衆といった身なりの者が多い。腰を落ち着けて
京風の煮物や肴の味を楽しんでいる、という趣があり、仕事や花見帰りにちょっとひっかけ
るには、まず「中の上」という位置づけの店だろう。
「井上様、今日は、非番どすか。」
亭主が井上、と呼んださきほどの「おじさん侍」は、物慣れた動作で板場に近い席に座った。
同じ頃、お袖は少し離れた卓に座って、女中に酒を頼んでいる。
「うむ。東山で、花見をしてきた。」
「清水さんどすか。」
「あちこちだ。」
「お一人で?」
「たまにゃあ、一人がいい。」
亭主は突き出しの菜花の和え物を井上の前に置きながら、得心顔で笑った。
「ははあ、そういうたら、いつも大勢さんどすな。」
井上はうなずいて、肴は亭主の見つくろいにまかせる、という意味のことを言うと、あとは
気のきいた話題もないようだった。
(無口な人らしい。)
お袖は杯の酒で唇をしめらせてから、それとなく観察している。
 井上は、いくつか出された小鉢の肴を文句も言わずに食べながら、手酌でちびりちびりと
飲む。店の賑わいからは置き去りにされたようにぽつねんとした感じだが、それで気にもし
ていないらしい。
(あれじゃあ、仕事場でも肩身が狭いんだろう。そりゃあ、一人になりたいはずさ。)
どう見ても昼行灯、というか、今で言う「窓際族」なのだろうと思っている。
 少しして亭主が井上を思い出したように声をかけた。
「珍しゅう、鯛が入ってますけど、どないしまひょ。」
「鯛か。」
井上はまた、ちび、と酒をなめて、
「もらおう。」
と、何気ないうなずき方をした。お袖は聞いていて、どきっとした。
(ちょいと。知らないよ、そんな高いもの頼んじゃって───)
京の盆地では、海の魚が特に高い。輸送費がそのまま原価にはねかえるからである。
(懐があったかいと思いこんでるんだろうけどさ。)
その懐を寒くしたのは他ならぬお袖本人なのだが、まさかそうは言えない。お袖は井上の
ために勘定を胸算用しながら、わずかに意地悪くことの顛末を見てみたい、という気持ち
もある。
「お待っとうさんどす。お江戸では珍しいこともおへんやろけど。」
 井上が、出された鯛の塩焼きを旨そうに食べている。特に手のこんだ技術をほどこさな
くても旨いものは旨い。人の皿のものながら、お袖はちょっとうらやましくなってきた。
(あれに醤油と熱い湯をかけても、いけるんだよね。)
皿の上に魚の骨が見えてきた頃、お袖はそんなことをぼんやりと思った。京の食物が不味
いとは思わないまでも、やはり新鮮な海のものは恋しい。他の客には声がかからなかった
ところを見ると、この店の鯛はやはり不意に入荷した珍重ものなのだろう。
「ねえさん、一人かい。相席してもええやろか」
ふと、斜め上から若い男の声がして、お袖は顔をあげた。なるほどさっきより客の数が増
え、二人連れで席にあぶれたらしい男たちが、にやにやと笑っている。お袖の卓は四人ま
でが定員なのだ。もちろん、女一人の客ならついでに酌でもしてもらおうという魂胆があ
るのだろう。
「いいえ。あたしゃあっちに移りますよ。」
つん、という顔をしてお袖は腰を上げ、杯を持って、なんと井上の隣に席を移った。
「お武家様、すいませんけど、こちらお隣にかけてもようござんすか。」
「………。」
井上はきょとん、として、女の顔を見上げている。
「駄目ですか。」
「いや。いいとも。」
言いながら、井上はまだお袖を無遠慮に見ている。お袖は板場に新しい銚子を頼んで、腰
をかけてから見返し、
「あたしの顔に、なんかついてますか。」
「いや……」
井上はほっ、と笑みを浮かべた。
「あんた、関東のひとかね」
「はばかりながら、江戸っ子でござんすよ」
「ほう、ほう。」
井上はさらに相好を崩した。
「それがどうか?」
「いや、江戸の女は珍しいからさ。」
「旦那も、江戸から?」
「いや。江戸にも住んだが、わしは武州多摩の、日野宿の生まれだよ」
「へえ……日野。」
江戸っ子のわけがないか、と納得しながら、お袖はちら、と考えた。
(あのあたりは天領の、百姓家ばっかりじゃなかったっけ。)
どうも役持ちの侍の住居とは結びつきにくい。お袖は江戸郊外の地理には不案内だった。
仕事で必要にせまられなかったからでもあるが、田舎には興味がなかったのである。
「そう。いやいや、江戸弁とは懐かしい。」
「そりゃ……ようござんした。どうです、ご挨拶ついでにおひとつ」
お袖はくすっと笑って、井上の杯に新しい酒を注いだ。井上は、(そこは侍らしく)左手で
酌を受けながら、
「ああ、ありがとう。しかし……なぜ、江戸の若い女がこんなところにいる?」
「若くもありませんよ。」
「若かろう。」
井上は、別にお世辞のつもりもないらしい。お袖は小首をかしげて、
「いくつに見えます。」
同じように首をかしげながら、
「さあて……二十二、三かな。」
ぷっ、と、お袖は吹き出した。
「ご冗談。」
「もっと下か。」
「旦那、大年増を喜ばしちゃいけません。」
あまり若く言われるのも、ほめ言葉を越して嫌味に聞こえるものだが、井上は生真面目に
考え込んでいる。
「ふむ、違うのか。わしゃ、女の年を言い当てたことがない。」
すまなそうな表情になった。
「あんまり、お遊びにならないんですね。」
お袖が取り結ぶように言うと、井上はうなずいて、暇がない、と言った。今日の様子を見
る限りひま人そのものだが、と思っておかしかったのだが、当たりさわりなく、
「旦那は、おつとめで、京へ?」
「そう。あんたは。」
お袖は何気なく答えて、
「あたしも……近頃は、江戸より京の方が、実入りがいいんでね。」
「ほう。なんの商売をしている。」
「………。」
 お袖は、そこではたと困った。まさか、女スリですとは言えない。しかし、女と盗人、
嘘つきの才能を二つも兼ね備えているのだから、新しい答えを探すには数秒しか要らな
かった。
「占い……。」
「占い?」
「ええ。道行く人の人相見をするんです。」
「ほう。」
井上は、珍しく好奇心をそそられたらしく、目を見開いた。
「旦那のことだって、ぴたりとわかりますよ。」
「どんな風に。」
「そうねえ……今日は、旦那は……金運が悪い、と出てますね。」
「ほう?」
「それに、思わぬ災難に会う、という相が出ています。ほどほどにして、切り上げたほう
がようござんすよ。」
「そうか。」
その言葉で、井上はふと暖簾の外を見た。すっかり日が暮れている。
「おや、もうこんな時分か。では、あんたの言う通り帰るとするかな。」
(おいでなすった。)
 お袖は、まるで芝居の筋書きを知っていて、待ち望んだ場面を見る客の心境だった。
井上は、亭主に「勘定。」と言いつつ、懐を探っている。お袖はそれを横目で見ながら、
猪口の酒を口に含んでいる。
「む?」
井上、ようやく懐の異変に気づいた様子で、
「ほい、しまった。」
亭主が手をふきながら、そばへ寄った。
「どうなさいました。」
「財布が、ないわ。」
お袖はあやうく吹き出しそうになった。井上の声は、のほほんとしていて慌てた様子が
ない。やや狼狽したのは店の亭主のほうだった。
「へえ。」
「どこかへ、落としたかな?」
「すられたんと違いますか。」
「いや……思い当たらんな。」
井上は、きょとんと首をひねった。お袖はすかさず、心中で相槌を打った。
(そりゃあ、そうでしょうよ。)
亭主が気の毒そうな顔で、それでも柔和に、
「そうどすか。ほな、つけときまひょ。いつでもよろしおす。」
「いやいや……金の貸し借りは好かん。『金策いたすべからず』だ。ちょっと、待て。」
井上は、何を思ったかもぞもぞと、袴の前紐を解きはじめた。お袖は間近で見てぎょっと
声を出した。
「な、何もそこまで……。」
「ふむ?」
お袖はてっきり、着物を代金のかたに置いていくつもりなのかと思ったのだが、井上はそ
こで、脱ぐのをやめている。袴の前がぺろん、とめくれている。
「しょうがない。」
井上は袴の内側、股間のすぐそばに、手製の小袋を縫い付けてある。その袋の口をほどく
と、中から小粒の金が数枚、出てきた。
「ほれ。ごちそうさん。」
井上は、その金の一枚を亭主に渡している。そのまま、前紐を結びなおした。
「へ、へえ……毎度、おおきに。」
亭主は、ぽかんとしている。お袖も同様に意表をつかれていて、ついたずねた。
「それ……なんです?」
「ああ。これか。わしの母親がな、人ごみを歩く時は、銭を分けて持つようにと
言っていた。それで、こうしている。」
いわば、袴用の自家製ポケットである。
「懐や袂は、走ったり暴れたりしたら落ちることもある。ここならまさか、盗人に手を
入れられても気がつくし、帰るまで、袴をぬぐことはめったにない。」
当時、男性の小用は、袴の裾をたくしあげてするのである。
「へえ……。」
お袖は、妙に感心した。なるほど、いくらお袖の腕前が絶妙でも、ここに手を入れて金を
抜き取るのは不可能であろう。
亭主は釣りを渡しながらくすくす笑っている。
「邪魔なこと、おまへんか。」
「いや、うすっぺらいから、平気だよ。それにわしは、当たるほど立派なものでもない。」
「はあ。」
亭主の笑いが止まらなくなった。
「総司にも、作ってやるといったら、そんなものが前にチャカチャカとぶら下がっていた
んじゃ気になってしょうがない、いやだと言いおった。」
井上はくそまじめに言っている。お袖は、たまらなくおかしくなってきた。
(冗談じゃない。皆がそんな細工をして歩かれたんじゃ、こちとらあがったりだよ。なァ
んだ……案外しっかりしてるじゃないか。心配して損したよ。)
「おかしいかね。」
「いえ。お武家様の肌付き金てえのはきいたことがありますが、金つき金、てえのは、
初めて聞きましたよ。」
 肌付き金、というのは武士のたしなみのひとつで、戦場で討ち死にという場合、自分の
亡骸を始末をしてもらう人のために、出陣前から着物に縫い付けておく金のことである。
「きんつき、きん……なるほど。お前さん、けっこう言うね。」
井上はふわっと笑って、両刀を挟んでいる。ついでのように、
「あんたも、帰るんなら送っていこうか。」
「旦那のお住まいは。」
「お西さんだ。……西本願寺だよ。」
「じゃあ、方角が違いますから。けっこうですよ。」
むろん、井上の帰り道がどの方角だろうと、断るつもりでいる。盗人の身で、他人に隠れ
がを教える馬鹿はいない。
「そうかね。」
別に、下心で言ったのではないらしい。井上はほろ酔い加減で、店を後にしている。




 お袖は銚子の底にいくらかの酒を残して、いつもの癖で少しまわり道をしながら、六角
通りにある小さな煙草屋の店に帰った。夜分のことで、当然商いは終わっている。茶の間
には、仕出しの弁当を食べながら茶を入れている一人の男がいる。名前を銀次という。
 ねえ
「姐さん、遅かったやおまへんか。」
「ちょいと、花見客相手に、ひと稼ぎしてきたのさ。」
「一人仕事は、やめといたほうがよろしいで。」
 銀次は、三十をいくつか過ぎた古いスリ仲間で、ひところ江戸の同じお頭のもとに出入
りしていた男だが、近年、表向きはこの京で煙草屋の小商人といった暮らしをしている。
その実、ここの二階座敷は裏稼業の仲間たちの連絡場所となっている。
「なんぼ、神田明神下で鳴らしたお袖姐さんかて……慣れぬ土地で無茶は禁物でっせ。危
ない危ない。」
 銀次のほうがいくつも年上だし、稼業の年季も古いのだが、お袖のことは必ず「姐さん」
と呼んで言葉も敬語を使う。江戸の「お頭」の顔を立ててきた関係上、である。お袖もそ
のせいで、「銀次兄さん」と呼んだのはほんの最初の頃だけであった。女はくっついている
男次第で、立場が変わる。いわば出世が早いのだ。
「お宝の顔を見てからお言いよ。」
 お袖は、自分の財布に移し変えた収穫の金をどさり、と無造作に投げた。こんな形でも、
一応この宿のあるじである銀次にその日の仕事を報告する、といった永年の習慣が残って
いるからなのだ。自分で稼いだからといってあがりの金を黙って自分のものにする、とい
う「こすっからい」真似が、子供の頃から人に仕えてきたお袖には出来ない。銀次も心得
たもので、素早く財布の中身を勘定しながら、お袖の機嫌をとるのも忘れないように、嬉
しげな顔をしてみせている。
「へえっ。こら、豪勢や。いったい、何人ほど働いたんで。」
「四人さ。」
「ほう。それでこれだけ集まるとは、さすが姐さんの眼力はえらいもんや。」
「最後のお客は、ほんの遊びのつもりだったんだけどね。侍にしちゃ、間が抜けてそうだ
ったんで仕掛けてみたら、五両ばかりも持ってたのさ。おかげで大した余禄さ。」
「へえ。」
「つい、なりゆきで持って来ちまった。」
 お袖は、井上からすりとった財布を、取り出している。銀次がその時ばかりは、ふと顔
をしかめて小言を言った。
「なんと。証拠の品を持って歩くやなんて……。」
と、今更言われなくとも、お客から盗った財布はできる限り素早く、人目につかぬ場所に
破棄するのが、この道の常識である。お袖も、今日の四人のお客のうち、三人までの財布
はそうした。
「金は抜いたさ。」
 お袖はふん、と聞き流して、そのすっからかんにされた財布の中から紙切れやら、お守
り袋を指でつまんで並べてみていた。
「日野の八坂神社。へえ、こんなものくにから、わざわざ持って来たんだね。」
ふと見るとお守り袋の後ろに、墨で小さく、名前が書いてある。
「井上、源三郎……源さんか。」
「源さん?」
「ああ。おっかしな侍でさあ。」
 お袖は、くすくす思い出し笑いをしている。その「おじさん」侍の話を聞いているうち
に、銀次の顔がみるみる青くなった。
「西本願寺……。そのお武家、お西はんに住んでる、いうたんでっか。」
「ああ。寺侍か何かかね。」
 京都にはその手の、今でいうと寺の雑務や折衝を受け持つ事務員のような侍、えてして
武士らしい勇猛さはないらしく、青侍、などとちょっと低い感触で呼ばれる職種の者が多
い、ということはお袖も知っている。それでそう、何気なく言ったのだが、銀次の真顔は
変わらない。ふと、一つ大きく嘆息して、
「西本願寺の……井上源三郎……姐さん、あんた……。えらい奴に仕掛けましたなあ。」
「へ?」
銀次がやや目を険しくした。
「そら、新選組や。」
「新選組?」
お袖はきょとん、としている。銀次は頭のいい男だから、話をわかりやすくするところま
で説明をさかのぼった。
「こっちでは、壬生浪、の方が通りがよろしいけど……今はそっくり西本願寺に家移りし
てます。守護職の会津様に雇われて、町の浮浪人どもを取り締まる、いうて年じゅう見廻
りしたある浪人組ですわ。姐さんかて、おととしの池田屋騒動の話、聞いたことぐらいは
おまっしゃろ。」
「池田屋……ああ、江戸で読売(瓦版)は読んださ。」
「井上、言うたらその池田屋斬り込みにも加わった、壬生浪の大物でっせ。」
「まさか。」
お袖は笑いだした。
     
「どっかの浅葱裏(あさぎうら)にしか見えないよ。」
浅葱裏、というのは、羽織などの裏地に、すでに江戸では流行の終わった野暮ったい浅葱
色の布地を用いるというので起こった、田舎侍の代名詞、つまり蔑称である。
「浅葱裏どころか……表も裏も、正真正銘、浅葱のダンダラや。」
と、銀次がいうダンダラは、新選組の制服である薄青色に山形を抜いた羽織をさしている。
「わしら京、大坂のスリは、あの浅葱羽織と山形の提灯には、五間四方に近寄りまへんで。」
「人違いじゃないのかい。」
「いやいや……わしらは商売柄、京都の役人の内情については詳しいおます。向こうも、
スリはその場で取り押さえられんと捕まえることのかなん事は承知してますさかいに、た
いがいのことやったら目こぼししてやるかわりに、人探しやら、裏の聞き込みやらにわし
らを使うことがあるんや。わしの知り合いの目明かしが、新選組にも出入りしているそう
で……その辺のことは噂に聞きますのや。」
「ふうん。」
「その役人が、『銀次、壬生浪だけは相手にしなや。あいつら怒らせたらその場で首が飛
ぶで』いうて……。井上源三郎、いうたら、お頭の近藤勇や土方歳三らの同門の大先輩で、
古参も古参、新選組二、三百の中でも上から十本の指に入る顔役やいいまっせ。」
お頭、といったのはもちろん銀次の世界の言葉が出ただけで、正確には新選組局長・近藤勇
と副長・土方歳三である。顔役は、幹部職である副長助勤と言い換えることになる。
「嘘オ……。」
 お袖は、間延びしたあいづちをうった。
「だって、そうじがどう、とか言ってたよ。お寺の掃除でもしてるんじゃないの。」
「そら、沖田総司や。」
 銀次はぞっ、と身震いをした。
「新選組でも、一番の使い手や。人斬り鬼の沖田総司を呼び捨てに出来るのは、幾人もお
りまへん。本物や。」
「へえ……。」
 お袖は、あきれてお守りの名を見ている。


 翌日の昼下がり、である。お袖は、いつに増して小奇麗に化粧をし、出掛ける支度をし
ている。心なしか浮き立った表情の女に比べて、傍らの銀次は渋い。
「やめときなはれ。壬生浪の本陣に乗り込むやなんて……命知らずな。」
「お黙り。」
「酔狂にも、ほどがありまっせ。」
「音に聞こえた新選組の陣中を堂々と見物できるなんざ、めったにない好機じゃないか。
ちょいと度胸試しさ。」
銀次は苦虫を噛んだような顔をして、
「姐さんのは、度胸に、くそがつきまんな。」
「うふ。行ってくるよ。」
 お袖は、うきうきして煙草屋の店を出ていった。
 銀次はぼやいている。
「善平衛お頭も、とんだ大荷物を押しつけてくれよったもんや。」
 ここで、かいつまんで過去の説明をしておく。
 お袖は、江戸は神田の明神下界隈でスリの元締めをしている雲居の善平衛という男の情
婦だった。お頭みずから、どこからか拾って来たお袖を、それこそ物事の善悪のわからぬ
ほどに幼い頃から、自慢の技を仕込んで育てあげた。お袖は善平衛の見こんだ以上の域に
達してその技量が大いに役立ったものだが、それ以上に、お頭の私用にも貢献した。つま
り、お袖がやや色気のつき始めた頃、ごく当然のようにその体を摘み取って、自分の女に
した。善平衛の妻が死んでからは、お袖が女房がわりとして一家にでん、と座を構えるよ
うになっていたし、それはそれでうまくいっていた時期があったのである。つまり、老い
た秀吉に対する若い愛妾の淀君を想像してもらうと、わかりやすい。もっとも、お袖は長
くはべったわりには子を産んでいない。勝気だけは天下一品のお袖に対し、善平衛も近年
は少々もてあまし気味で、ついつい別の、若い、しかもおとなしい妾を作った。
 銀次が、表裏の二足のわらじの商用で、しばらく神田に宿を借りていた頃の話であるが、
ある日、お頭に呼ばれてこう切り出された。座は二人きりである。
「お袖に浮気がばれた時ゃ、そりゃあもう大変でなあ、銀次。」
「そうでっしゃろなあ……。」
銀次はもともと言葉の抑揚が少ない上に、根が上方者だから、どっちとも取れる曖昧な返
事をする癖がある。この時も、つい同情した声音を混ぜて返した。それがいけなかった、
と気づいた時にはすでに、善平衛の策にはまっていた。
「おめえ、上方であいつを預かっちゃくれねえか。」
えっ、と顔を上げた時は、往年は神業のごとし、と言われた技を持つ、老スリの元締めの
目が光っている。
「銀よ。まさかおめえが、俺の頼みをきけねえ、という不義理な男じゃあるめえ。」
さすがに殺し文句も老練なのである。
「はあ……。そら、お頭にはいろいろと、世話になってますさかい……。」
銀次の声は、ますます歯切れが悪い。
「俺は、お袖にゃ正直、飽きが来ている。あいつが向こうで男を作ろうが何をしようが文
句を言うつもりはねえ。いや、むしろその方が助かるほどだ。しかしこの江戸……俺の縄
張りで勝手なことをされたんじゃ、ちと顔が立たねえのでな。」
「はあ……。とりあえず、目の前からおらんようになってくれたら、都合がええいうわけ
でんな。」
「うむ。」
 善平衛がにっとほくそえんだ時、銀次はしまった、と思ったが後のまつりである。
 で、一方のお袖も、男としての善平衛にはとっくに冷めていたのだが、あからさまに見
限られて捨てられるのでは女の誇りが許さない、ということだったらしい。銀次がそれと
なく京へ行く話を持ち出すと、
「いいよ。爺さんの顔も見飽きたし、花の都で羽を伸ばすのも悪くないさ。」
と、すんなりついて来た。
 こういう経歴で、お袖と京都で風変わりな同居、または同棲のような暮らしをするはめ
になっているのだが、
(あの激しさじゃあ、お頭の体がもつまい。)
と、銀次は思うのである。一緒に暮らしているのだから、お袖と男女の仲を結んだことは
すでに何度かある。お袖の体は相応に熟しきった魅力を持っているのは確かなのだが、ど
うにも性根のほうが強すぎる。
「なんだい、もう」
その最中にむくりと顔を上げ、
「若いくせに、弱っぴいだねえ。」
……と、床のなかであけすけに言われると、銀次はげんなりしてしまうのである。お頭公
認の浮気とはいえ、銀次にしてみれば、お袖の相手(そちらの方面も含む)は、なかば義務
からつとめている。それでこんなふうに蔑まれては、やる気もへったくれもない、といい
たいようなものだが、口答えをするのも馬鹿馬鹿しい、と放っておいた。
 幸いなことに、とでもいおうか、お袖は早々と男としての銀次の奉仕に見切りをつけ、
近頃は稼いだ金を使ってまあいろいろと、外で遊んでいるらしい。
(遊ぶにしても、新選組とは行き過ぎや。)
 上方に巣を持つ銀次は、新選組の恐ろしさを骨身にしみて知っている。かつて、こわい
もの知らずの仲間が隊士にスリを試みて、一刀のもとに斬り殺されたことがある。そのす
さまじい斬撃のあとを見ては、震え上がらぬほうがどうかしている。京都では、遊里の女
と僧侶は怒らせぬこと(どんな権力とつながっているかわからない、の意味)という警鐘が
古くからあるが、最近では女と坊さんよりも、壬生浪のほうがよっぽどこわい。
 その新選組の本拠に、こともあろうに自分の家の女居候が乗りこんでいる。
「くわばら、くわばら……。」
 銀次はつぶやいて、気を紛らわすように商売ものの煙草の整頓などを始めた。暇な店だ
が営利を抜きにして、世間への顔も見せておかなくてはならない、といった一面がある。




 場面は変わって、西本願寺である。昨年の春、京都きっての大古刹に場違いな新選組が
大挙して住み込んだのには、相応のいきさつがあるのだが、本編には関係がないので省略
しておく。ともかくお袖は今その新選組屯所の、簡単な客間に通されている。出入りの商
人などを通すために、隊士たちの住みかである場所とは隔離して作られているらしく、ま
ず雑多な屯所の中では静かなほうかもしれない。
 京でいう「いちげん」(一見)の客であるお袖が、縁側だの庭先などで待たされるような
しうちを受けずに、茶も出され、座敷に通されているのは、何も新選組が女性を尊重して
いるから、などではさらさらない。取次ぎの隊士に、
「井上源三郎様の知り合いの者でございます」
と、告げただけで、あきらかに態度が丁重に変わったところを見ると、銀次の話もあなが
ち嘘ではないらしい。
 井上はあいにく外廻りの最中とのことで帰るまで待たせてもらうことにしたのだが、お
袖は長い間、そう退屈はしていない。桜の頃にしては暖かすぎるほどの陽気もあって、部
屋の障子を開いたままにしてある。そこから庭を眺めるふりをしていると、時折、通りが
かりの隊士がちら、とこちらを見てはゆきすぎてゆく。あるいは一人、あるいは二三人が
連れ立って、雑談のふりをしながら、ということもある。だが、確かにチラチラとこっち
をうかがっているのがわかる。
(よほど、女の客が珍しいらしいね。)
お袖は、承知の上で障子を開けているのだ。向こうが見物のつもりなら、こちらも見物し
ているのである。
            
(日本じゅうから武術の猛者(もさ)を集めたというだけあって、皆いい体つきをしているよ。)
美醜はともかく、年も若く、鍛え上げた筋骨をした男たちが多い。足腰がしっかりして
いて、とりたててこれはだらしがないというのがいない。たとえば、警察官や自衛隊、
または運動選手の合宿所に紛れ込んだようなものだろう。
(こうしてみると井上の源さんは、とりわけ年かさらしい。)
 あの風采の上がらない井上が、彼らの上司であるとは、信じがたい。
 その時ひょいと、すぐそばの廊下を、組長の原田左之助が通り、足を止めた。
「井上さんのお客ってのは、あんたかい。」
「はい。」
「へえ。」
 原田は、遠慮なしにじろじろとお袖を見ている。態度が横柄なのは、井上と同じような
役付きの一人なのだろう、と見当がつく。
(まあ……いい男じゃないか。)
原田は、井上とは比較にならないほど、精悍な美男である。身ごなしも張りがあり、着て
いるものもぱりっとして、センスがいい。触れたら切れそうなこわさも含んでいる。
「井上さんは公用で出掛けていて、あと半時(一時間)やそこらは帰らんぜ。」
「存じております。お邪魔でしょうが、待たせていただきます。」
原田はほう、という目を開いたあと、
「そうかい。ま、好きにしな。」
からからと笑いながら行ってしまった。
(やっぱり、新選組ともなれば、ああでなくっちゃねえ。)
お袖も、くすくすと笑っている。


 言った通りの半時近く後で、巡察から戻ってきた井上は、きょとんとして原田の話を聞
いている。
「わしに、客?」
「ああ。しかも、女だぜ。年増だが、小股の切れ上がったいい女だよ。」
原田はいつもの癖で、好色な話をする時は左の手であごをなでる。
「はて……。」
「ありゃあ素人じゃねえな。源さん、どっかの飲み屋か女郎屋にでも、つけをためこんで
るんじゃねえのかい。」
「まさか。」
 井上は、首をかしげながら客間の方に歩いていった。浅葱の羽織を着たままである。
 しかし、その開け放たれた障子の内側にいる女客を見たとたん、明るい声をあげた。
「やあ。あんただったのか。」
 お袖は、今日の身なりにふさわしく、ちょっとつつましげに頭をさげて、
「こんにちは。お邪魔しておりますよ。」
「見違えたなあ。きょうは、ずいぶんとかしこまったなりをしている。」
というのも無理はない。先日は、お袖の普段着である粋筋の好みそうな大きめの乱れ縞の
着物で髪もゆったりと結っていたのが、今日のお袖はちょっといいところの内儀か、小唄
端唄の女師匠か、と見える程度に、やや低めの志の字にまげを結い、淡い梔子の小紋を着、
その上半襟の色合いも控えめにして、襟元のくつろげを小さくしている。
 かなりくだけた比喩をすると、銀座あたりの水商売の女性が、昼間に顧客のオフィスを、
店の衣装とも普段着とも違う落ち着いたスーツ姿で訪ねている、という感じを想像しても
らうといい。
「そりゃ、場所がらを考えなきゃね。」
「わしに、何か用かね。」
「これをお届けにあがりましたのさ。」
お袖は、井上の財布を差し出した。
「やっ。わしの……。どうして?」
井上は驚いて、手にとって見ている。
「あの晩店を出たあと、もしやと思って、気をつけて道を歩いてみたんですよ。そうした
ら、路地のわきに落ちてましてね。あいにく、お金は抜き取られちまった後でしたけど。」
もっともらしい説明に、井上は納得した様子で無一文の財布を撫で、
「そうか。いや、そりゃあ仕方がない。」
「世の中、悪い奴が多うござんすからねえ。」
お袖は、しれっとして言い放っている。
「でも中を見たら、日野の八坂様のお守りが入っているじゃありませんか。それに何やら
覚え書きみたいなものも二三枚……これは、お届けしなくっちゃと思いましてね。人に聞
いたら、西本願寺のあたりにお住まいの、井上源三郎様といえば新選組のお方に違いない、
というもんですからおたずねしたんです。ただ、やっぱりじかにお会いして確かめたいと
思いましてねえ。」
「いや、ありがとう。金はまた入ってくるが、こっちの方が大切でな。」
井上は嬉しそうに、中に入っていたお守り袋を取りだし、手に包んでいる。
「ご新造様にでもいただいたんですか。」
「いや。わしには妻子はない。」
「へえ……。」
 お袖は意外な顔をした。この年で独身というのは、遅すぎるほうである。
 井上は独特の 笑みをうかべたまま、
「こりゃあくにの甥っこが、わしが京へ上る時にわざわざ持たせてくれたものなんだよ。
少ない小遣いを出して、求めてきてくれたらしい。」
「そうですか。可愛らしいことをなさいますねえ。」
「うん。いやあ、戻ってきてよかった。あんたのおかげだ。ええと……」
「袖、と申します。」
「お袖さんか。ありがとう、恩に着るよ。」
 井上は、懐から新しい財布と懐紙を取り出して、お袖にいくらかの礼を包もうとした。
 お袖はいくぶんあわてて、
「とんでもない。そんなつもりで伺ったんじゃありませんよ。」
「しかし、わざわざ足を運んでくれたんだろう。」
「同郷のよしみってことで、いいじゃありませんか。ただでさえ、お金を無くしてお困り
のところへたかりに来たみたいで、嫌でございますよ。」
 このあたり、半分正直な気持ちも含んでいる。
「ふむ。……では、ちょっと待ってておくれ。」
 井上はひょこひょこと部屋を出ていき、やがて、菓子折りを一つ持って戻ってきた。
「お袖さん、あんた、家族は。」
「え。あの……弟の身内と……住んでおります。」
 お袖はとっさに、兄のほうがよかったかな、と思ったが、日頃の立場の余波で、銀次は
老けた弟にされてしまった。
「そうか。じゃあ、これを持って行ってくれ。もらいもんだが。」
 井上はその菓子折りを差し出した。
「そんな……。」
お袖は知らぬが、京の銘菓らしい。高価そうな包みだった。くくってある紐の色合いが
京都らしく美しいのでもわかる。
「いや、もらってくれんと、わしが困る。」
「じゃあ、遠慮なく……かえってすいませんねえ。」


 と、いうわけでお袖は、土産の菓子を手に帰ろうとしている。
 だが、
「あの……井上様、本当にけっこうでございますよ。」
「いやいや。」                             
井上は、にこにこしながら見送りについて来るのである。途中、そこここに屯している
新選組隊士たちが、好奇心にみちた目で遠巻きに視線をよこしているのだがいっこうに
気にならないらしい。お袖のほうが、さすがに気恥ずかしくなった。
「あの……女の見送りなんてのに、お出ましになっちゃ……お立場ってものがございま
しょ?」
「は?」
「………。」
 井上はただ、落とし物を届けてくれた恩人を丁寧に送り出すのが当然の礼儀だと実直
に思っているらしい。お袖はあきらめて、そそくさと門前まで歩いた。
 お袖はそこでふと立ち止まると、
「あの……井上様。」
「何かね。」
「今後はあまり、懐に大金を持ち歩かないように、お気をつけなさいまし。なんなら例
の、隠し部屋のほうにしまっといたほうが、安心でございます。」
「金つき金、か。」
井上は笑った。
「いやしかし、若い人を連れて歩いたりするので、多少は持っていないといかんのさ。
わしゃ剣の腕じゃ頼りにならんが、懐具合だけはおかげさんで皆よりも豊かなのでな。」
「はあ……。」
 お袖は、あらためて井上の顔をまじまじと見た。
(このお人は……。)
お袖は、何かにうたれたように井上を見つめている。井上がちょっと顔を前に出して、
「ん?」
「いえ……。」
「ああ、そうだ。お袖さん、あんたの占いは実によく当たったな。商売のほう、頑張り
なさいよ。」
「え?ええ……。」
「人相見はどこでやっとるのかね。他の連中にも、宣伝しておいてやるよ。」
にこにこしている。
「………。」
お袖はちょっと視線を下にはずして、また新しい嘘を重ねた。
「あの、よそものなんで、いろいろとさわりがありましてね。商いにいい場所が決ま
ったら、お知らせしますよ。」
「そうかい。」
井上がうなずいた時、お袖はやや早口で、
「それじゃ、ここでごめんくださいまし。」
いつになく丁寧にお辞儀をして、西本願寺門前を去っている。


 煙草屋に帰ると、銀次が興味ありげにきいてきた。
「どうでした。新選組。」
「うるさいね。」
 お袖は棚の上に菓子折りを置きながら、きつい声音を出した。
「おや……ご機嫌斜めでんな。」
 銀次は首をすくめて、別間にひっこんだ。お袖は二階の小部屋に入って、今日の変
装に合わない姿で、ごろん、と畳の上に寝ころがっている。
「馬鹿馬鹿しい……スリが、カモの心配なんかしてどうするのさ。カモはカモじゃな
いか。」
 お袖は、自分自身に文句を言っている。
「一回こっきりのめぐり合わせだもの。そりゃあ、カモの中にゃ善人も悪人もいるさ。
いちいち、そいつの素性までかまっていられるもんか。すられる奴が間抜けなのさ。」
 そう言いながら、お袖の中には、何か釈然としない気分がとどまっている。




<2008/4/4(金) 23:05 千太夫>



(二)荒稼ぎ





 さて一方の西本願寺、新選組屯所である。午後のひととき、幹部たちの溜まり部屋では、
副長の土方歳三、助勤の沖田総司、原田左之助が談笑していた。新選組といっても、そう
毎日殺伐とした日常を送っていたわけでもなく、ことに、江戸の天然理心流試衛館道場で
同じ釜の飯を食った連中は、茶でも飲みながらざっくばらんな話をすることも多い。 たま
たま、今日ここにいる三人がそうである。
「源さんに、女の客がね。」
と、土方が首をかしげ、しかしいつもの通り、わずかに眠そうな目を向けた。切れ長で
涼しい目元なのだが、新選組副長と名がついてからというもの、より一層表情がわかりに
くくなっている。もっとも、一度かっと見開いた時はこわい。視線や口調がやや眠そうな
時のほうが、仲間うちも安心して雑談に加えることができるらしい。
 対する原田はごく明るい口ぶりで、まあ、これはこの男の生来の女好きから来るもので
もあるのだが、その日の話題を続けた。小粒のあられを手にして、時々つまんでいる。
「そうなんだよ。しかも、水商売あがりみたいな、妙にあだっぽい年増でさ。これが、
井上様のお帰りまで待たせていただきますってんだ。」
原田は四国伊予松山の出だが、江戸での放蕩が長かったので、やや伝法な江戸弁を使う。
郷里の言葉は、これもかっとなった時くらいしか使わない。
「へえ。」
 くるっとした目を輝かせているのは、試衛館生え抜き、しかも塾頭であった沖田総司で
ある。位は塾頭でも、一党の中では最年少で、自然、道場仲間の皆に対しては弟のような
接し方になる。冗談好きのわりには妙なところが丁寧な若者で、普段は敬語をくずさない。
その三人が話題にしているのが、その日、試衛館組最年長の井上源三郎をたずねてきた、
珍客お袖のことであった。原田が続ける。
「おおかた、勘定の掛け取りにでも来たんだろうと思っていたら、源さんの落とした財布、
しかも空っぽで、お守り袋しか入ってねえのを、わざわざ届けて来てくれたってんだから、
驚きだ。」
「ふむ。女の身で、新選組の本陣に乗り込んで来るとは、いい度胸だな。」
「そうさ。しかも、源さんが礼金を渡そうとしたら、頑として受け取らん。江戸の同郷に
いたよしみで、いいじゃありませんか、と言って断ったってえんだ。いまどき気持ちがい
いねえ。」
「へえ……江戸の女なんですか。」
と、その時点で沖田が懐かしそうな声を出した。姉さん子だから、江戸の姉二人を思った
のかもしれない。
「うん。飲み屋で話しかけてきて知り合ったそうだ。源さんが財布を落としたのを知って、
店の近くをさがしてくれたというんだから、よくよく親切な女だよなあ。」
原田はにやにやして、
「こいつは、源さんにも遅い春が舞い込んで来たってところかな。」
「本当かなあ。」
沖田はくっくっと笑い出した。
 しかし、土方はこの話題に違う視点を持っているらしい。ふと真面目な声を出して、
「副長」である時の表情をのぞかせた。
「源さんは、その女の住まいを知っているのか。」
「いや……聞き漏らしたと言っていたな。」
「なんだ。それじゃ始まらない。」
沖田が合いの手を入れると、原田はうなずいて、
「そこが、源さんの源さんたるところさ。ああのほほんと構えてたんじゃ、女にもてっこ
ねえ。」
せっかく向こうから訪ねてきた女の手がかりを聞きのがすなどと、原田には考えられない。
礼のついでに、親密になるための手は打っておくだろう。
 が、それは余談で、土方が女の所在をたずねた理由は他にある。
「……あやしいな。」
「何がです。」
沖田がきょとんとして見返す。
「どっかの密偵じゃねえのか。」
「まさか。」
「何が、まさかだ。親切ごかしに近づいてきたとも見える。財布だって、落としたか盗ま
れたかわかるもんか。」
やや険しい態度を混ぜたつもりなのだが、言われた沖田は一瞬ぽかんとして、直後に、
「井上さんと、女間者だなんて……想像がつきませんよ。」
体を前に折り、腹を抱えて笑っている。こうなるとしばらく止まらない。
 原田はそれを横目にしてから、ふと、
「しかし、なるほど……はたから見れば、源さんは新選組の大幹部にゃ違いないからな。」
「はたから見れば、ってのは何です。」
「おっと……失言。」
土方は二人のやりとりにはとりあわず、まるで自分に言い含めるようなつもりで、
「その女、まだ近づいて来るようなら、注意するように言っておこう。」
と言って湯飲みを置いた。原田は源さんのために代理の抗議をするかっこうで、
「殺生だねえ。せっかく、めったにねえ好機を……。」
「相手によりけりだ。女など、他にいくらでもいる。」
「その『他にいくらでも』ってのがなかなかいねえから、言ってるんですよ。」
「ふむ。」
土方は、ふとあごをひいた。それも確かである。
「近藤先生や土方さんはともかく、この総司や源さんは、女遊びがからっ下手と来てや
がる。」
「私まで、引き合いに出さないでくださいよ。」
「おめえはまだ若いからいいが……源さんはもう四十だろ。」
「いや、たしか三十七でしょう。」
「に、したって遅いさ。見た目がああなんだから、これ以上じじむさくなっちゃ女も寄
りつかんようになるぜ。早いとこ、いいのを見つけてやらなきゃあ。」
まるで、長屋の大家のような世話人ぶりの口調である。沖田がまた、ぷっと吹き出した。
「原田さん。自分が所帯を持つと、言うことが変わって来るもんですね。」
「ほっとけ。」
 からかわれる通り、原田は近頃、まっとうな妻をもらってから人並みに落ち着いたと
ころが出てきたらしいのだ。そのあと二人が新婚生活の話題にうつったのを見て、土方 は、
何事か思案顔をしてふいと席を立った。

 その土方は、井上と二人で話している。もともと、疑問というものをそのままにほうっ
ておくということの出来ない男なのだ。訊かれた井上のほうはといえば、相変わらずのん
びりとした口調で、
「ああ……お袖さんという女のことか。」
それがどうした、という顔つきなのである。対する土方は仏頂面で、
「念のため、気をつけたほうがいいでしょう。」
と、低い声を出した。しかし、井上はふわっと笑っている。
「は、は、は。まさか。わしゃあ、間者につけこまれるほど……」
「うむ。迂闊なお人ではないと思いますがね。」
「いや、隊の重要な人物でもねえということさ。大事なことは、勇先生と歳さんがちゃあ
んと決めてくれている。」
「………。」
土方は言葉につまった。井上は悪びれもせず、にこにこしている。本当にそう思っている
らしいから始末に困るのだが、この朴訥な大先輩の前でそんなことは言えない。言ったと
ころで埒があかない。鬼副長といわれる土方歳三にとって、隊内でもっとも苦手な人物、
というと実はこの井上源三郎と沖田総司の同門二人かもしれない。何しろ、相手の腹のう
ちがわかっているようでいながらそのくせつかみどころがなく、いつも飄々とほがらかに
している、という相手のほうが、底意地の悪さでものごとをくくろうとする利口な土方に
とっては手に余るのだ。
 井上はそういった複雑な相手の心境には思い至るはずもなく、
「わしゃあ、それを守るだけだもの。わしから聞き込みをしてわかるような事なら、すで
に公のことになっている。何も、小細工をしてまでこんなおっさんに近づくほど、まわり
くどいことをせんでもすむだろう。」
「おっさん……」
言い得て妙、と口に出せないのが後輩のつらいところである。
「それに、あのお袖さんという女、悪い人じゃあないよ。今度はお金を落とさぬように、
と、こまごまと心配してくれとった。江戸女らしく、さっぱりした、いい女だよ。」
「なら、いいんですがね。」
土方の渋面は変わらない。が、こうも食い違っていると反論すら出来ないものらしい。
「俺の取り越し苦労でしょう。」
つい、歩調を合わせてしまった。が、井上はうんうん、とうなずいてさらに、
「いや。歳さんはわしと違って利口だから、いろいろと頭が回るのさ。そうでなくっちゃ
つとまらねえ。」
土方の怜悧さに、感心してしまっている。
「………。」
「もし今後あの人に会うことがあっても、隊の秘密なんか漏らさんように気をつけるから、
心配はしなくていいよ。」
逆に気遣われてしまったかっこうになって、土方は片頬で苦笑した。
「……よろしく。」

 一事が万事、という。井上の素朴さ、という美点は、上下に対して同じように発揮され
るところに特徴がある。
 たとえば数日後の今日、井上は浅葱の羽織を着て、巡察前の点呼をしている。
「ひい、ふう……おや。佐野君が、まだか。」
六番隊の隊士たちは、顔を見合わせている。確かに一人、平隊士の数が足りない。誰かが、
「佐野は、腹をこわして厠にかけこんでましたから、おっつけ……。」
「そうかい。」
ほどなく、佐野という隊士があわてて走って来た。
「も、申し訳ありませんっ。遅れました。」
袴の紐を結びながら、頭を下げている。よほど急いだらしい。これが他の隊、たとえば、
風儀にうるさい武田観柳斎あたりの隊長であれば厳重注意ものなのだが、六番隊長の井
上源三郎の応対は、まるで違っている。
「腹くだしは、いいのかい。」
と、ごくあっさりとたずねた。
「は、はい。なんとか……おさまりました。」
「そうかい。ちょっと待ちなよ。」
 井上はごそごそと懐から巾着袋を出し、中から薬の紙包みを一服、取り出している。
「ほれ。薬だ、飲んできな。」
佐野のほうはあわてて手を横にふり、辞退した。
「は、しかし……巡察が。」
「いいよ。途中で漏らしたんじゃ気の毒だ。」
その口調に、隊列の一人が「ぷっ」と吹き出した。
「はあ。」
佐野はやや赤面している。井上はさらにおおまじめな顔をして、
「そりゃあわしのくにじゃ評判の薬だ。ぴたり、とよくなるから飲んできな。」
「は、では、急いで。」
佐野は薬を押しいただいて、あわてて屯所の台所の方へ引き返した。
「冷たい水はよくねえ、湯ざましで飲むんだぞ。」
「はいっ。」
六番隊の隊士たちからは、軽い笑い声が聞こえている。

 その六番隊が市中巡察の途上、茶店で休憩をとった。井上からはやや離れたところに座
った隊士たちが、つかの間の雑談をしている。比較的新参者の、岡島某という隊士は、さ
きほどの佐野と二人で話している。ここ六番隊ではだいぶ先輩にあたる佐野の腹下しは、
いまのところおさまっているらしい。
 まず、岡島がぽつんと言った。
「しかし……井上先生というのは飾らないお人だな。」
「ああ。草創以来の大幹部だというのに……少しもいばったところがない。気さくでいい
お方だ。他の隊からは、六番隊はのんびりしすぎているとか、井上先生には威厳がないと
か、口さがなく言う者もいるが、俺は、あの隊長の下で幸運だと思っている。」
佐野が実感のこもった声で答えると、岡島は苦笑しつつ、
「しかし……出世の機会にはあまり、恵まれそうにないがな。」
と、ある一面の真実を突いた。佐野はうなずいて指を折りながら数えつつ、
「ああ。ちょっと抜きんでた奴は、沖田先生の一番隊、永倉先生の二番、斎藤先生の三番
……それに、八番藤堂隊、十番原田隊。まず、この五組に抜擢されてゆくのが常だ。わが
六番隊は、まあ……控え組というやつさ。しかし、ここ新選組に限っては、出世したから
安泰というわけでもないからな。それだけ身の危険が増えることになる。」
と、これもある一面の真実である。
「ああ。つい先日、谷三十郎先生が斬殺されたばっかりだ。下手人はわからんのだろ。」
「うむ。」
岡島はここで声をひそめて、周囲をうかがってから、
「……ひょっとしたら、内部の者のしわざかもしれんというじゃないか。」
と眉をひそめている。新入りのわりに、隊長に似ず、耳目が鋭いらしい。佐野もやや暗い
顔をしてその噂を肯定するように、
「うむ。あの人も、弟を近藤局長の養子にさせて、肩で風を切って歩いていた時期があっ
たが……何しろ、敵を作りすぎた。ああも威張り散らしていたんじゃ、いつ誰にずぶりと
やられても、不思議はないさ。」
 谷三十郎、という助勤の中でも一時期羽振りのよかった幹部が、祇園石段下で何者かに
闇討ちされた理由については、平同士たちにとってもかっこうの噂話の種として、屯所内
のあちこちでささやかれたのである。辻斬りや倒幕派の襲撃、などというドラマチックな
展開より、内部犯行説というほうが彼らにとってはしみじみと怖い。まあ、今の京都では
新選組を怒らせるのが一番おそろしい、という点では、先の銀次の感情とさほど変わらな
い。いや、むしろもっと身近に怖さを感じるのは、その集団の中に身を置く彼らだろう。
 岡島はしかしやや気をとりなおしたように、
「その点、井上先生は、近藤局長、土方副長から同門の兄弟子として丁重な扱いを受けて
いるからな。」
「そりゃあ……、あの土方先生に、素振りの手ほどきをしてやったというほどの剣歴だそ
うだからな。」
佐野が得心顔でうなずく。岡島はその情景を想像しておかしかったらしく、
「ははは。」
「剣術の腕は、近藤、土方、沖田のお三方にみるみる追い抜かれたそうだが。それでくさ
ったりしないところが、生真面目でいいじゃないか。おぬしは知らんだろうが、壬生にい
た頃は、道場の稽古の時……」
と、話は回想にいたった。

 まだ壬生屯所の新選組の道場で、若い隊士たちが、井上に頭を下げている。
「井上先生。ぜひ天然理心流直伝の技を、ご教授願います。」
と申し出たのが佐野である。
 江戸で道場を開いていたころは、他の華々しい大流儀(北辰一刀流など)に押されて、ま
るきりの田舎剣法扱いを受けていた天然理心流だが、すでに状況が違っている。何しろ、
池田屋で勇名を馳せた新選組局長・近藤勇が宗家であり、いずれが鬼か蛇か、と噂される
(といっても実際の人物像とは食い違うが)土方歳三と沖田総司を輩出した流派なのだ。
江戸道場をたたんだあとで、ようやくに世間の脚光を浴びた、という感じで、少しでもそ
の実践を盗みたい、というのが、若者たちの興味の対象であったのだろう。それには、上
記の三人よりも、同流の先輩である井上がもっとも頼みやすい、という事情があった。ま
あ、ひらたくいえばあとの三人は、平の彼らから見ると、「こわい」のであるが。
 佐野を代表とする連中のまじめなつらつきを見た井上は、ふと考えて、
「ふむ。……ちょっと、待ってな。」
何を思ったかそのまま、道場を出ていこうとした。
「あの、井上先生。どちらへ?」
「塾頭を呼んでくる。」
「塾頭?」
隊士たちはぽかんとして見送ったが、佐野はつい、井上のあとを追って道場を出た。
 井上は稽古着のままぶらぶらと近所の壬生寺へ歩いていき、村の子供たちと鬼ごっこを
して遊んでいる沖田総司を見つけて、
「まーた、わっぱと遊んでやがる。総司よう。」
「ああ……鬼にみつかっちゃった。井上さん、また稽古ですか。」
これまた、井上に劣らぬのほほんとした声である。この時は井上のほうが急に年寄じみた
渋面になって、ぶすっとしたまま、
「そうと知ってたら、黙っていても来たらよさそうなもんだ。佐野君たち若い連中がよ、
天然理心流の技が見たいとさ。」
「それなら、大先輩の井上先生がお教えになったらいいでしょう。」
「わしの手を見たって、勉強にはならん。試衛館塾頭のおまえさんに伝授してもらったほ
うが、彼らのためだ。」
言っておくが、井上は謙遜ではなく、沖田に劣る剣技をまっとうに認めているのだ。
「しょうがないなあ。」
促されて、沖田が仕方なく屯所へ戻っていくと、子供たちからブーイングがおこった。
「ああん、沖田はん。」
皆が、楽しい最中を邪魔されて不平そうに口をとがらせる。
「総司はお仕事だ。ほれ、飴でも買いな。」
と、井上は、当時まだ貧しい懐の中から、子供に小遣い銭を渡してやっている。

 再び、茶店の場面に戻る。岡島は今の話を聞いて、
「へえ。」
あきれたような、それでいて親しみをこめたあいづちを打った。
 佐野は目を細めてひとりごとのように、
「そういうお人だ。井上先生は……」
 その時、井上が先に席を立ち、隊士たちに声をかけた。
「おい、皆の衆。そろそろ、行くか。」
六番隊士たちが、はい、と言って立ち上がった。



2 
さて、お袖である。昼間というのに、出会い茶屋の一室で若い男と寝ている。説明の必要
もないと思うが、このたぐいの茶屋に連れ立っている男女の目的はひとつしかない。
「姐さん、……」
 男の息が荒い。女の指はその背にくいこむようにしがみついており、ややもすれば爪が
厚い肉をやぶりそうになるほどに強い。が、お袖の手はそこにとどまることをせず、貪欲
に相手の肌の感触をさぐっている。
「辰吉……辰。ああ、もっと、もっとだよ。」
 と、単語だけで交わされる会話の中身は、これ以上は書けない。
 言葉を話す二匹のけだものの営みが終わって、しんとなるまでにかなりの間があった。
 その後のお袖は襦袢を肌にひっかけて、寝たままで煙草をくゆらせている。男は布団の
上にあぐらをかき、ぐっしょりと濡れた体の汗を絞りの手拭でぬぐいながら、
「姐さんはいつも懐具合がええようやが、一体何のご商売をしてはるんで。」
と、至極当然の疑問を女の背中に向けて発した。お袖はそのまま薄紫の煙を吐いて、そち
らを振り向くことはしない。
「聞かない約束だろ。」
「へえ。」
ここでも、煙草屋と同じく男女の地位が逆転している。いわば、女の稼ぎが男の身を支配
しているのだ。
「亭主におさまるわけじゃあるまいし、あたしが何で稼いでたって、知ったこっちゃない
じゃないか。それともかみさんと別れてあたしと一緒になるかい。」
「そら……言いっこなしや。」
町人、というよりは遊蕩児を気取ったふうの男は、首をすくめてみせた。それなりに、崩
れた色気のある容貌だが、かみさんがいるらしい。むろん、この場の男女ふたりに、世間
なみの良識などは毛ほどもない。
 お袖はふん、と鼻先で言って、煙管を口のはしにくわえて寝そべったまま、財布から金
を出している。
「小遣いだよ。」
ぽん、と一両小判を投げてやった。
「へえ、こら……おおきに。」
男はその傲慢さに怒るどころか、へつらうような笑みを浮かべて、片手でその山吹色を拾
い上げ、額の前で拝んでみせている。
「お互い、つまらないことはききっこなしさ。遊びが白けちまうよ。」
「そら、そうでんな。」
男は細い縞の帯を結んで身支度をしながら、
「これで、一杯やりに行きまひょか。」
「いいさ。先にお帰りな。」
お袖の声は、けだるげにかすれている。その低い吐息にふと興をそそられた時、
「お袖はん……。」
男はお袖の後ろから腕をまわして、肩を抱いている。
「何さ。」
「冷たい女や。そやけど……そこが、ええ。あんたなら、本気になってもええと思うてま
っせ。」
言いながら、お袖の首筋に唇をつけて軽く吸っている。
「およし……年増女はしつこいんだ。火種をかきおこすような真似はするもんじゃないよ。」
お袖は小さく笑って、男の腕をほどいた。
 やがて男が帰ると、急にきっ、と眼にきついものを宿して、
「ふん、嘘つき。」
煙管の火を盆の上に落とした。カン、という高い音が鳴った。
「いっぱしの女たらしのつもりでいるらしいが、遊んでやってんのは、こっちだよ。」
その悪態を聞くものは、丸窓の外に遊ぶ昼雀しかいない。

 お袖は、ゆっくりと湯をつかってから、することもなく煙草屋の店に帰っている。と、
銀次が帳場にすわって、はっとして座布団の下に何か、隠した。
「お帰りやす。」
「なんだい。」
「は?」
「とぼけたって駄目だよ。そこの文を出しな。」
「………。」
銀次は、漢方薬を喉奥に塗りつけられたような顔をしている。お袖は至極ぶっきらぼうに、
「別に、驚きやしないよ。あたしに隠さなきゃならないような文なら、どうせ江戸のお頭
からだろう。」
「はあ……しかし。」
この男の返事はいつもとりとめがない。お袖は急に、にっこりと満面の笑みを浮かべた。
「銀さん?あたしに隠し事なんかしたりすると、あとがこわいと思うけどねエ。」
お袖の猫なで声に、銀次はぞっと背筋が寒くなった。
「そやけど……読んだら、もっとこわい……。」
「見当はついてるよ。およこし。」
またいつもの口調である。銀次は観念した様子で、座布団の下からおずおずと文を出して
いる。お袖はそれをびっ、と奪い取り、読み始めた。
「………。」
 お袖は途中で顔色を変えたが、やがて、くしゃくしゃと音をたてて文を丸めると、銀次
に向かって投げ捨て、無言で二階に上がってしまった。
「ひえ……。」
と銀次は、気まずい息を漏らしている。
 お袖は二階の障子を後ろ手にぴしゃりと閉めると、わなわなと唇を震わせた。
「なんだい、畜生……馬鹿にしやがって。」
予測どおり、例の文は江戸のお頭善平衛から銀次にあてたものであったのだが、その内容
というのはこうである。

『お袖のおもり、ご苦労。あれもまずまず達者でやっているようで、安心している。
 実は、例のおもん……新しい妾だが、このたび男の子を産んだ。初産のことゆえ心配は
したが、やはり若いから母子ともに元気で、こんなめでたいことはない。この年になって
新しい子供をさずかるとは思わなかった。わしもまだまだ捨てたもんじゃない、と思うと、
おもん母子がいっそう可愛くてならない。
 ところがそのおもんが、この事がばれたらお袖さんにどんな仕打ちをされるか、恐ろし
くてならぬとおびえている。わしの手がついた当初、お袖は怒っておもんを裸にひんむき、
髪の毛を切り落としたことのある女だ。おもんの心配も無理のないことと思う。
 こうなった上は、わしはお袖とはきっぱり縁を切りたいと思っている。どうかお前のほ
うで、お袖を今後とも上方へ引き止めておいてもらいたい。もし首尾よく、お袖のほうに
も好いた男などできれば、わしはもうもろ手をあげて祝福してやりたいほどだ。………』

「それならそうと、堂々とあたしに言やあいいじゃないか。何さ!」
 お袖は、髪にさしていた柘植櫛を投げつけた。櫛は、勢い良く柱に当たって割れた。
「このお袖姐さんを見くびるんじゃないよ。何さ、畜生。畜生……」
 お袖は、泣いた。
「誰があんな爺ィに惚れているもんか。人の一生を……花のさかりを、おもちゃにしやが
って。あたしが他の男に、指一本ふれることすら……それをなんだい、今さら、他の男と
くっつきゃいいだなんて……誰が、誰がこんなあばずれに育てたってんだよう。こちとら
好きでこんな女になったんじゃねえや。善平衛の間抜け野郎、死んじまえ。若い女の乳に
くらいついたまま、ぽっくりと逝っちまえばいいんだ。馬鹿っ。」
 お袖が畳に突っ伏して泣いていると、銀次がそろそろと、障子を開けた。
「姐さん。」
「ほっといてよっ。」
と、わめかれても、廊下の銀次は静かに、
「へえ。熱いおぶ、入れときましたよって。」
なるほど盆の上に茶をのせて、部屋の入り口の畳に置いてある。
「暴れるのはかまへんけど、こぼさんように。」
「………」
 お袖はぽかん、と涙眼を上げて、立ちのぼる湯気と湯呑みをしげしげと見ると、ぷっと
吹き出した。直後に、高い声をあげて笑いはじめた。
「銀次、あんた……いい奴だねえ。」
「盗っ人にいい奴ちゅうのは、ほめ言葉やおまへんな。」
銀次は淡々と、階段をおりていっている。

 その夜、お袖はもくもくと晩飯を食べながら、銀次に言った。まだ暑さの残る宵で、
細かく刻んだ味噌漬の上に、わざと冷やした水をかけて食べるのがお袖の好みである。
女としては、少々色気のない食事のし方かもしれないが、まず銀次の前では遠慮がい
らない。ちなみにこの漬物は、善平衛の飛脚につけて送られたものであった。
「決めた。」
「何を。」
「こっちから捨ててやる。」
「へえ。善平衛お頭を、でっか。」
銀次が目を上げた。お袖は箸を止めず、
「あしたから、稼ぐよ。手下を二人ほどつけとくれ。」
「へえ、承知。」
あっさり言って、また茶碗に目を落とす。お袖はなおきっぱりと、
「百両。」
「百?」
再び、銀次が顔を上げる。
「ああ。それだけためたら……あの爺ィに送りつけてやる。赤子のご出産祝いと、あたし
からの手切れ金でございます、とね。」
銀次が、くっと吹き出した。
「手切れ金?」
「ああ。赤っ恥をかかせてやるのさ。雲居の善平衛も、とうとう老いぼれて子飼いのお袖
に捨てられた、とね。」
「そら、豪気や……」
銀次は、くすくす笑っている。
「そやけど、せっかく稼いだ百両、勿体ないことおまへんか。向こうがその気なら、こっ
ちかて好き勝手に贅沢して、面白おかしゅう暮らしてたほうがなんぼか楽や思いますけど
な。」
お袖はやや意地悪い微笑を浮かべている。
「何。そのまま百両、もらいっぱなしで終わるようじゃ、善平衛も本当におしまいさ。」
「なるほど……体面を保つためにそれ以上の手切れをよこさはるかもしれまへんな。」
「女子供に、鼻毛どころか意気地まで抜かれてなきゃね。」
このへん、永年連れ添ったお袖のほうが、善平衛という老人の気性を知り尽くしている。




 さて、その言葉通りの翌日から、お袖は京都の町中で荒稼ぎを始めた。地域の祭り、門
前町、あるいは宵闇の遊里の狭い道筋、身一つ動かせば、働き場所に困らないのがこの商
売の利点である。その人ごみを選んで、目星をつけたカモとすれ違い、すり取った財布は
素早く、手下の者に渡す。その手下はまた別の者に渡し、人目につかぬところまで運んで、
金を抜き取って財布を捨てる。カモに気づかれた時には、証拠の品は遠くに運び去られて
いる。お袖はその頃には、別の仕事にとりかかれるというわけで、一人で始末するよりは
はるかに効率がいい。
「姐さんは、きれいな仕事をしはりまんな。」
 銀次につけてもらった、弁蔵と安吉という地元スリの手下が、感心した。
「お客はんにほとんどぶつかりもせず……大したもんや。」
と弁蔵が嘆息して言うと、
「剃刀で懐を切るなんてのは、邪道だからね。お客が家に帰るまで、襟元に手をさしいれ
られたことにさえ気がつかない、っていうのが本当の技さ。」
 剃刀で、というのが俗にいう「巾着切り」である。お袖の技術は、文字通り「すりとる」
からスリなのである。この女もひところ、江戸の町がいまほどの不況でさびれる前には、
「明神下の女狐」と仲間内に畏敬されるほど稼ぎまくったものだった。狐に化かされた、
と思うしかないほど、無意識のうちにやられてしまう、ということである。その女スリが
本腰を入れて、京都での仕事に精魂を傾け出したのは初めてだったから、手下たちが舌を
巻くのも無理はない。
「それに……お宝を抜いた時にゃ、中身についてもだいたいの見当はついている。あんた
たち、あたしからつなぎで受け取った獲物を、ちょろまかそうなんて思わないほうがいい
よ。」
安吉があわてて首をふった。
「とんでもない……そんなことしたら、銀次の兄やんに、殺されますがな。」
「銀の字が?まさか、」
とお袖が笑うと、安吉は真顔で、
「姐さんは、知りまへんのやろ。銀次の兄やんは、若い頃はそら、おっかないお人で……。
今の煙草屋の店先にちょこんと座ってる姿からは、考えもつきまへんで。」
ぶるっと肩をつかんで、身震いをする。
「へえ……そいつは知らなかった。」
 お袖は、感心した。今の、お袖のご機嫌をとっておとなしく暮らしている銀次とはまた
別の一面があるらしい。
「さ、ひと休みしたら行くよ。」
「へえ。」
盗人三人が、しんとした祠の裏手から、再び人けを求めて立ちあがった。

 場面変わって、それからしばらく後日の新選組屯所である。局長近藤の自室に、土方が
来ている。近藤は役目上の書状をたたみながら、
「巷でスリが流行っているらしいな。」
「珍しくもねえ。」
「京は、年中そこかしこで祭りや法会がある。稼ぎ場所には困らんというわけだろう。近
頃新しくのしてきている奴がいて、奉行所も手を焼いているらしい。新選組からも探索の
人手を貸してくれぬかと言ってきた。」
「こそ泥の始末まで、手が回らねえよ。」
と、土方は上方の役人の不甲斐なさをそしった。近藤はふと思い出したように、
「いつだったか……一刀でスリを叩き斬ったのがいたな。」
「ああ。確か、新見錦だったろう。奴は凄腕だった。」
話題が隊内のことになると、ちゃんと乗ってくるのもこの男の癖である。近藤が苦笑して、
「あの頃……新選組で金をたんまり持って歩いていたのは、芹沢や新見位のものだったか
らなあ。」
と、遠い目をした。壬生村の一隅でほそぼそと「開業」した当初の話である。近藤ら試衛
館一派は多摩の知人などにどうにか生活費を送ってもらって、鼻紙代にも事欠くありさま
だったのだが、結成時に合流して筆頭局長となった芹沢鴨、同じく局長の新見錦らは、や
や強引な手で遊興費を工面してきては、自分たちだけ遊郭などで派手に遊び歩いていたの
である。土方の言うとおり、剣の腕は相当のつわもの揃いだったのだが、人物のほうは、
お世辞にも(一応は同志といえども)誉められたものではなかった。
「ふん。どうせ、商家を脅してゆすりとった金だ。」
「我々試衛館組は、金欠でぴいぴいしていた。スリの方で気の毒がってよけていったろう。」
 近藤と土方は、同時にからりと笑った。その芹沢、新見らの一派は不行跡のために粛清
されており、とっくにこの世にいない。天下に怖れられる新選組を作り上げたのは、今こ
こにいる二人である。
「まさか、今どき……新選組の隊士に挑むほど、無茶なスリもいるまいよ。とりあえず、
外出のさいは注意するようにと通達しておく。」
「うむ。」

 で、本日も巡察に行く前の六番隊である。井上が隊の連絡事項として述べている。
「えー、近頃、洛中でスリが横行しているそうだ。皆、虎の子を盗まれんようにしっかり
と、財布をしまいこんどってくれよ。」
聞いている隊士たちは、にやにやと笑っている。その井上が、財布をなくして女に届けて
もらったことは周知の事実なのである。平隊士の佐野が親しみをこめた揶揄で、
「隊長どののように、親切な女が届けてくれるとは限りませんからな。」
わっと笑い声が起きた。井上は怒りもせず、
「なんの、あれだって金は戻らんかった。さて、出発するか。」
と、相変わらず幾分のんびりした隊ではある。

 同じ頃、市中の神社には縁日が出て、門前がごったかえしている。お袖は指の関節を動
かしてほぐしながら、
「弁蔵はどうしたのさ。」
と、そばにいる銀次に聞いた。待ち合わせた場所には安吉しかおらず、なぜか銀次が現れ
たのである。
「あいつ、姐さんの働きぶりを見て、妙な気を起こしたらしい。ゆうべ、島原で一人仕事
をして、へまをしましたんや。」
「つかまったのかい。」
「へえ。見回りの岡っ引きがようけ、張っとりましてな。」
と、銀次は油断のない目をわずかに細くした。
「ふうん。」
「姐さんは、まだこっちの町方に面が割れてへんからええが……気いつけるにこしたこと
はおまへんな。」
そう言われて引き下がる女でないことは承知しているのだが、お袖はやはりふっ、と小鼻
をうごめかせて、彼らの世界に共通の目つきを鋭くした。情報は耳にしておくに越したこ
とはない。
「……行くよ。」
 お袖は仕事を開始した。
 今日のつなぎは、銀次がつとめている。お袖が客の懐から抜いた財布をすっ、と渡した。
名の通り渋い銀鼠の縞を着て、どう見ても町の小商人にしか見えない銀次は、風呂敷包み
の下にその財布を隠し、視線を合わせずにこれもすい、と安吉に渡している。
 うまい。
 その呼吸は、捕まった弁蔵の及ぶところではない。却って今日の仕事ははかどるだろう。
(……あいつ。)
 お袖は次に、裕福そうな中年の商人に目をつけた。さりげなく間合いを定めていると、
ふと、道行く人々の囁きが聞こえてきた。
「壬生浪や……新選組の見回りやで。」
 お袖は何気なく声の方角を見た。遠くに、浅葱のダンダラを着た一団がいる。その先頭
に立って、一人浮き立って見えるのは、井上源三郎である。
(あっ。)
 お袖は思わず、どきっとした。役人を恐れたことはないが、どうもあの井上の仏顔の前
では、悪事がやりづらい。
(間の悪い……。)
 お袖は舌打ちしたが、狙う獲物は目の前を行き過ぎていこうとしている。動き出した右
手の指が止まらないのは、すでに本能の領域かもしれない。ふい、と人込みに紛れ、その
商人の懐に手を差し入れた。その時、とんと肩が軽くふれあった。
「おっと、すまん。」
「いえ。」
お袖がその男とすれ違い、銀次に財布を渡した瞬間、背後で声が起こった。
「スリだぁっ。」
とたん、回りの動きが止まった。
「スリや、スリがおる!その女や。誰か、つかまえたってくれっ。」



お袖の背にひた、と緊張が走る。
 商人の店の者だろう。若い男が走り寄って、ぐい、と女の肩をつかんだ。
「おいっ。」
「ちょいと、何するんだよっ。」
 お袖は気強くその手をふりはらった。と、さっきの商人が、
「その女がスリや。さっき、わしに当たってきよった。」
「何だって、聞き捨てならないことをお言いじゃないか。どこに証拠があるってんだよ。」
「間違いあらへん。今そこの角で、懐をさわって財布を確かめたばっかりや。それが、そ
の女とふれたとたんに無うなったがな。」
連れの男は、商家の奉公人にしてはややいかつい柄で、
「姐さん。旦那の財布、出してもらおうか。」
「ふざけるんじゃないよ。盗んでもいないものを出せるわけがないじゃないか。ええ?」
 やりとりの合間に、お袖たちの回りには人だかりがして来たが、逆に銀次は、素知らぬ
ふりをしてその場を離れていく。冷たいわけではなく、それが常からの約束なのである。
「そんなに言うんなら、改めてもらおうじゃないか。こちとら、はばかりながら江戸は神
田の明神様で産湯を使った女だよ。ひとかけらなりと他人に疑われたとあっちゃあ、気色
が悪くって表を歩いちゃいられないよ。さあ、とっくと調べてみろってんだ。」
 お袖は威勢よく、帯をくるくると解き始めた。着物も脱ぎ、袖を裏返してぱたぱたと振
り、長襦袢一枚の姿になった。こうなったからには、すっぱだかになる覚悟は決めている。
見物客の好奇の視線が、かえってこの女の度胸に力を添えている。朗々と唱えた。
「さあ、まだ脱ぐかい。いずれどこぞの大店のご亭主のようだが、あんたの財布にゃまさ
か小銭が二、三枚ってえことはあるまい。金銀合わせてどれほどの大金をあっためていな
すったか知らないが、そんなものが隠せるとお思いなら、ここで浅草は観音様のご開帳と
でもいくかい。そのかわり、財布のさの字も出て来なかった日にゃあ、ただですむとは思
っちゃあいないだろうね。あんたの店の看板に、でかでかと詫び証文でも張り出してもら
おうか。さあ。」
「う……。」
主人のほうは、店の名が出ることにひるんだらしいが、連れのほうはまだ強気で、
「旦那。騙されたらあきまへん。こんなん、女スリの常道でっせ。襦袢、湯文字(腰巻き)
の下に、なんぞ細工をしてないとも限りまへん。」
「てやんでえ、そこまで言われて、すっこんでられるかい。」
お袖はついに、腰のしごきに手をかけた。その時、人ごみの外から、
「おいおい、よしなよ。」
と、進み出た者がある。新選組や、という声がもれた。
「井上様……。」
お袖のほうが驚いた。人垣を割ってお袖の目前に現れたのは、井上源三郎である。
「誰かと思ったら、お袖さんじゃあないか。女子がこんなところで、肌をさらしちゃいけ
ないよ。」
井上は人のいい、それでいて少し困ったような笑顔を見せている。そして商人の方へ、
「おい、そこの旦那。この女子は、わしの知り合いだ。スリだなんて、悪いことのできる
人じゃないよ。文句があるならわしが聞こうじゃないか。」
と、脅しでもなく、親身にとれるような語り口で言ったものだが、相手が震え上がった。
井上の背後には、若い新選組隊士たちがむっつりと腕を組んで控えている。無論のこと、
彼らはことあらば即、上長に助勢して加わろうと構えているのだろう。井上自身はあまり
強そうに見えないが、後ろの若者たちは、いかにもこわい。
「へ、へえ……めっそうな。」
急に、商人の口も姿勢も、青菜に塩、という弱腰になった。井上はかえって同情ぎみで、
「財布を無くしたあんたも気の毒だが、人前でこんな目にあわされたこの人も気の毒だ。
ここは一つ、わしに免じてひきとっちゃもらえねえかねえ。」
わしに免じて、という言葉の前に、はからずも「新選組の」という文字がちらついたのだ
ろう。商人も連れもそそくさと、
「へえ、そうします……。」
引き上げてしまった。
 人々の円周のなかに、襦袢姿のお袖がぽつんと取り残されている。
「散れ、散れ。見世物ではないぞ、往来の邪魔だ」
佐野たち、気のきいた平隊士の数名が自発的に声を出して見物人の輪を崩し始めた。その
時である。ふと女に近づいた井上は、ふわり、と自分の羽織を脱いでお袖の背中ににかけ
てやっている。
「あ……っ」
 お袖は、一瞬はっとして礼も忘れた。
 美男の原田左之助などが同じことをしたら、芝居の一場面にでも見えるところだろうが、
井上の場合まるで絵にならないのである。しかも、井上はみずから腰をかがめ、お袖の脱
ぎ散らかした衣服を拾い集めて、ほこりをはらってやっている。
「そこの店を借りようか。」
「は、はい。」
 井上はお袖の着物と帯を丸めて持ち、部下に向かって、
「ああ、諸君もちょっと、好きなものをつまんで休憩してくれ。勘定はわしが払うから。」
と、すぐそばの団子屋に入っていった。隊長命令に応じた隊士たちはくすくす笑いながら、
銘々床几に腰掛けている。
「おかみさん、ちょいと奥を貸してやっとくれ。」
「へ、へえ。」
女将があわてて返事をする。急に、狭い団子屋の店先は賑やかになった。
 ほどなく、お袖は店の奥を借りて着物を着なおしてくると、
「あの……井上様。ありがとうございました。」
「なあに、あんたには借りがある。」
井上は草団子を食べていた。
「しかし、威勢がいいなあ。」
くっくっと笑っている。
「………。」
 お袖は、横目で井上の顔を見た。二度までも現場に立ちあったというのに、井上はこの
女スリの素性を疑っていない。
「今日は、あんたの運勢が悪かったようだが、そういう卦は出ていなかったのかね。」
そうか、あたしは占い師だった、と気づいたお袖はややしおらしく、
「……自分のことは、占ってはいけないんです。」
「そういうもんかね。」
お袖は井上の横顔を見ながら、不思議な気持ちになってきた。
(お父っつぁん……。いえ、兄貴とか……あたしにも、そんな身内がいたら、こんな気持
ちだろうか。)
 お袖は、このさえないおじさんの顔が、たまらなく懐かしいもののように思えている。
「あの……井上様。」
「うむ?」

 一方、六角通りの煙草屋。
 日が暮れて、銀次はさすがに、お袖の帰りが遅いのが心配になってきた。
(財布が出てきいひんのやさかい、まさか捕まったりはするまいが……)
スリは現行犯逮捕、という基本は現代と変わらない。に、しても無事の報告をするために、
いい加減戻ってきてもよさそうなものだが、と思いながら六ツの鐘を聞いたあとである。
 ふと店先に人の気配がして、銀次は顔を上げた。
「ただいま。」
聞きなれた声が、いつもより心持ち明るい。
「ねえさん、お帰りやす。」
と、出てきた銀次は、ぎょっとしている。お袖が、武士を一人連れている。
「そちらさんは……。」
お袖は銀次に目配せをして、
「今紹介するよ。井上様、こちらが、弟の銀次でございます。」
(弟?)
銀次は、きょとんとした。傍らの武士がひょっこりと答える。
「そうか。ねえさんより年上に見えるがな。」
「苦労が多くてね。銀次、こちらは……新選組の井上源三郎様だよ。」
がたん、と音がした。銀次が驚いて、敷居をふみはずしたのである。
「井上様、汚いうちですけど、どうぞお上がりになってくださいまし。銀次、お酒をつけ
とくれよ。それから、料理もどこかおいしいところを取り寄せておくれ。」
「へ、へえ……。」
ちなみに、お袖は都会者の女の通例で、手ずから気のきいた料理などは出来ない。銀次は
事の次第に面食らいながら、さてどこの仕出し屋に頼もうか、と首をひねった。
 その半刻のちには、井上、お袖、銀次の三人が料理と酒をかこんでいる。
「そうでっか……ねえさんのこと、助けてもろたんですか。そら、おおきに。」
「うむ。そうしたら、お袖さんがぜひ、一献さしあげたいと言うのでなあ。わしの仕事が
終わるまで、長いこと待っていてくれたんだよ。」
「へえ。」
わしの仕事、というのは市中巡察である。各隊ごとにその日予定の巡回コースが決まって
いて、何事もなければ西本願寺屯所に戻り、組長がその旨を局に報告して解散となる。が、
井上の下にも伍長職がいるから、急な場合には代理報告でもすむはずであった。
 お袖が補足して、
「井上様は律儀なお人だからね。おつきの人たちが、どうぞお行きになって構わない、と
おっしゃるものをお断りになって、ちゃんと屯所まで戻られてから、おいでになったのさ。」
なぜか、井上の律儀を自慢するように語った。
「そうでっか……。」
井上は好物の魚(これも塩焼きである)を箸でほぐしながら、
「ねえさんは江戸っ子で、弟は上方弁とは、おもしろいきょうだいだな。」
「へ……。」
答えにつまる銀次とは対照的に、嘘の達人のほうはすらすらと、
「小さい頃にふた親をなくして、別々にもらわれましたのさ。あたしは江戸、この子は大坂、
こう離れてしまっちゃ……生きて会えるかどうかもおぼつかない頃がありましたけどねえ。
こんな年になってもやっぱり身内の縁ってもんは、切れないものでござんすね。弟が、こっ
ちへ来ないか、と言ってくれた時にゃ、あたしゃ嬉しくて取るものもとりあえず……それは
嬉しゅうございましたとも」
作り話も、ここまでくれば芸のうちかもしれない。井上はうなずいて、
「そうか。しかし、一緒に住めるようになって、よかったな。」
「ええ。あたしと違って、しっかりした子で……。こんな店まで構えて、まじめにやって
ますよ。」
「………。」
 銀次は、首をすくめている。
 
 夜が更けて、井上はすでに機嫌良く酔っぱらっていた。
「本当に……泊まっていったっていいんですよ。部屋はありますから。」
お袖が、帰ろうという井上の足元を危ぶんだほどである。
「いやいやいや……そこまでしては、申し訳ない。」
「でも、もう遅いし、お危のうございます。」
「大丈夫、だよ。」
井上は、ぽん、とお袖の肩に手を置いた。その武骨な手の感触が、思わずお袖をどきっとさ
せた。
 と、ちょうど銀次が来て、
「ねえさん、お迎えの人が、来やはりましたで。」
「え?」
「さっき、西本願寺に使いをやっときましたよって……新選組のお人らが、駕籠を連れて、
表に着いてはります。」
「そうかい……」
お袖は幾分がっかりしたらしく、
「気がつくこと。」
と、銀次だけにわかる目つきをきつくした。
「いや、すまんすまん。気持ち良く飲ませてもらった。」
井上はそれを機に、暑くて脱いでいた羽織をばさりと肩にかけて、草履の鼻緒に足指を通し
ている。お袖がその背に向かい、
「また、いつでもお寄りになって下さいまし。遠慮はいりませんから。」
そのまた背後で、銀次はぎょっとしている。
 井上はふらりと立ち上がって、表に待っている若い隊士たちに迎えられ、駕籠で屯所に
帰っていった。
 お袖は井上を見送ってから、銀次をちょっとにらんで、
「ほんとに……気のきく弟だよ。」
と、酔った息をまじえて嫌味を吐いた。
「アホな。この上新選組なんぞと深いつきあいになったら、困りますがな。」
「馬鹿。あのお方と深いつきあいになんか、なりっこないよ。」
奇しくも並んだが、「アホ」と「馬鹿」の使い方の慣れが、この「きょうだい」の違いを
端的に現している。銀次は芝居の幕をおろして、年長の上方者らしい表情に戻った。
「姐さん……本気になったらあきまへんで。わしらにとったら、ああいう善人そのものの
お人が、一番おそろしいんや。」
「おそろしい?」
「なまはんかな人の心なんちゅうもん、呼び覚ましてしもたら、つとめがやりづらくなる。
そうと違いますか。」
生半可な、は良心と言い替えることも出来る。その説教臭さを嫌って、お袖は笑った。
「あたしに、そんなもん……。」
「いいや。井上はんは、ええお人や。それも、底抜けや。あんな人間と盗っ人のわしらと
では、住む世界が違います。同じところに立ってしもたら、他人の懐なんぞ、よう狙わん
ようになりまっせ。げんに今日かて、姐さんのカンが狂うたやおまへんか。」
「………。」
と、釘をさしたあとは普段の、機嫌をとるような柔らかい声で、
「まあ、それはそれ。気にとめといてくれはったらよろしい。……ところで、あの時のカ
モ……慌てるはずや。しめて十両おましたで。小遣い銭にしては大きい」
簡単に言うと、一般庶民が半年ほど慎ましく家族の口を養える金額である。あの商人を逃
すまい、と触手が動いたのは、お袖の本職としての勘が当たっていたことに他ならない。
「へえ。道理で指が重いはずさ。」
「これで百両、満額でんな。」
「ああ。……あす、江戸のお頭に送ってやるさ。それがすんだら、あたしゃしばらく勤め
は休むよ。」
お袖の声に、酔いも含んでけだるい疲れが混じっている。
「へえ。ま、その方がよろしやろ。」
「占い師の稼業でも、習おうかねえ……お前、誰か、人相見のできる奴を知らないかい。」
「は?」
 
 それから月日が経った。銀次の思惑をよそに、井上源三郎は時々、煙草屋に立ち寄るよ
うになっている。
「まあ、井上様……ほほほほ。」
 お袖が井上と談笑しているのを見ながら、銀次は最初いい顔をしなかったが、だんだん
に、この朴訥な侍にひかれてきてしまったらしい。
 井上は蕪の浅漬けなどをかじって、茶の一杯でもご馳走になればほぼ機嫌がよく、銀次
のほうへも隔てなく話しかけてくる。
「銀さんも、早いとこ嫁さんをもらわなきゃなあ。」
「そら……わしより井上様が先でござりましょう。」
答えながら、銀次はつい、笑顔になってしまっている。
「ははは……わしのところなんざ、きてがないよ。」
と、井上は屈託がない。
「しかし、新選組の伍長はん以上のおかたは、たいがい、外に女子はんを住まわせておい
でやときいてまっせ。危ないお仕事ゆえ、お手当てのほうも、そこらの大名のご家士より
よっぽど豊かやというやおまへんか。」
 慶応年間は新選組も威勢、経済共に最も華やかな頃であり、その通り幹部のほとんどが、
雑多な屯所の男所帯とは別に妾宅や妻子同居の仮宅から通うことを認められていた。つま
り、営外からの通勤が可能な特権があったのである。現代的に言えば、「社宅」といって
もよさそうなこれらの住まいを、「休息所」と称している。(女がいるからといって休息
になるかどうかは、やや疑問ではあるが)
 前出の原田左之助の内儀の談話によれば、三度の食事まで新選組が仕出しの器で料理を
届けてくれ、月々数両の生活費を夫からもらっていたという。他にも、永倉新八が芸妓を
請け出して囲ったという話もあるし、局長の近藤にいたっては、「休息所」を数軒かけも
ちで回っていた(要は、数人の愛妾を作っていた)というほどの贅沢ぶりだったのである。
 が、井上はこの頃になってもここでそういう話題が出たことがない。
「そうだねえ……まあ、金だけは過分にいただいとるな。」
「月々にお手当てをいただける、いうのも、他のご家中とは違いますな。」
 一般に武士の俸給は米が基準であるから、年俸が当然である。しかし、新選組は会津藩
から年で支給された人件費を、それぞれの隊士に月毎で現金支給している。当時としては
いっぷう変わった給与体系なのだ。
 井上は問いにうなずいて、
「そりゃ、年で手当てをいただいてたら、合わないもの。」
お袖が口をはさんだ。
「なんでです。」
すると、井上はこともなげに、
「死ぬ奴が多いからさ。」
「………。」
一年の途中で、である。
「若い連中なんざ、月の手当ての顔を見て、初めて『ああよかった。今月もどうやら無事
に生きている』と思うそうだよ。命の洗濯に島原へすっとんでゆくのも無理はない。は、
は、は。」
 お袖と銀次は、顔を見合わせている。
「………。」
 お袖はやや女らしい顔を見せて、
「井上様も……お気をつけなさいましね。」
「いやあ、わしは……初めの頃、人数の少ないときゃなんでもやったが、いまじゃそんな
に危ないことはないよ。何しろ、剣の腕の立つ若い衆が、ぞろぞろおるからねえ。」
「人をお斬りになったこと、あるんですか。」
「あるよ。」
井上はけろりと言った。草創以来の大幹部である身としては当然かもしれないが、彼はか
の芹沢鴨殺しや池田屋騒動にも参加している。
「なんだか……信じられませんねえ。こわくないんですか。」
お袖もいっぱしの悪だが、さすがに人殺しまではしていない。つい、素人らしい質問にな
った。
「まあ、畑の大根だね。」
「畑の、大根?」
「そう。相手も人だと思うとおそろしいが、畑の大根だと思えば、なんとかなるもんさ。」
「へえ……。」
ぴんと来るようで来ない。真剣での実戦の極意を、そんな身近な言葉で片付けてしまって、
いいものだろうかとお袖はぽかんとしている。
「もっとも、今じゃ他の組長連中と同じ十五両も、手当てをもらっとるのが悪いほど、の
んびりしたもんさ。」
「じ、十五両?」
銀次が驚いて声を発した。食と住の心配不用で、月々の基本給が十五両、である。臨時の
褒賞金などの賞与分を加えたら、独身の武士としては充分過ぎる金持ちといっていい。
「うむ。そんなにもらっても、くにに送るくらいしか使い道がない。」
「はあ……そんだけあったら、女子なんて、なんぼでも囲えるやおまへんか。」
嘆息まじりに言った。お袖がそばでちょっとむくれている。
「面倒くさくってねえ。あっちの用がありゃ、島原へでも行きゃあいいし……祇園や先斗
町の芸妓やなんかは、お高くとまってて気疲れするしさ。囲っても、家のことなんか何も
しねえだろう。」
「はあ。」
「しかし、何度か、身の回りの世話くらいはしてもらいてえと思って、家を借りたことも
あったんだが……」
 井上も人の子である。やはり他の幹部と同じように、手足を伸ばしてくつろげる自分の
居所が欲しくなったのは自然だろう。銀次は男どうしとして素直に共感できる。
「女子はんを置いて?」
「うむ。まあ、女中さんだな。しかし、どうしたわけかこれが居つかんのよ。」
「ほう……。」
 銀次は、あやうく吹き出しそうになった。
 この場合、銀次のさす休息所の女と、井上の答えた女の意味がかなり違っている。
「どうせお世辞だろうが、旦那さんはいい人で、何の不満もねえというんだがねえ。」
銀次はこらえきれず、にやにやと口元を緩めている。
「旦那。そのおなごしに、手えつけはりましたか。」
「いや。なにもしねえよ。別に妾のつもりじゃねえもの。」
「そら、そのせいや。」
とうとう、はっきりと笑い出した。
「は?」
「都の女は、腹の中と言葉が裏腹ですさかい。なんぼ下働きやいうても、男女の仲やし、
ひとつ家に置くのやさかいそっちの御用もあるやろ、と思うて、覚悟はしてますのやがな。
それをまっ正直に、手えひとつにぎらんかったら、見くびられた思うて女心が傷つきます
のやがな。」
 確かに新選組の助勤にかかえられて、その家で何も起きなかったら、よほど自分に魅力
がないのか、と受け止めるほうが京女の自尊心かもしれない。げんに、この家の二人です
ら、なりゆきでそういう夜になった例がある。とは、勿論口のはしにすら出せないが。
「ほう。そうかね。」
 井上は、初めてものを知ったという目を見開いた。
 お袖がついに横から文句を入れた。
「そこが、井上様のいいところじゃないか。それがわからないなんざ、京女も野暮だねえ。」
井上は感心して、銀次同様笑っている。
「なるほど、そうだったのか。しかし、屯所にいる限り、身の回りのことも皆、人がやっ
てくれるからなあ。何も不便がねえから、わしはこれでいいのさ。」
 しかし、たまに新選組の外の空気が吸いたくなると、こうしてお袖のところへ無駄話に来
ているらしい。しかも帰隊の時刻が来ると、判で押したようにこう言って立ちあがる。
「邪魔をしたね。じゃあ、帰るよ。」
「まだ、いいじゃありませんか。」
 お袖の声に、わずかに甘えた響きがある。
「いやいや。」
 井上はにこにこ笑って、煙草屋の店を後にしている。



(後編へ)




<2008/4/4(金) 23:10 千太夫>

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まろやかリレー小説 Ver1.20a

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