村山たか 
 むらやま たか 

 
 
  文化7年、近江国犬上郡多賀町に生まれる。父は多賀社尊勝院主、  

  尊賀少僧都、母は多賀社般若院住職の妹であり、世をはばかって  

  同社寺侍、村山氏にあずけられて育った。通称、可寿江。  

  幼い頃より歌や舞を仕込まれ、18歳の時に井伊直弼の兄、井伊  

  直亮(後の十二代彦根藩主)につかえたが、その後、彦根を離れ  

  京都にのぼって芸者となる。やがて金閣寺の僧とのあいだに子を  

  もうけた。たかと生まれた男児は、また世間体のために金閣寺の  

  寺侍であった多田源左衛門に譲られた。そしてその後、たかは、  

  息子を連れて再び彦根に戻る。この時に、藩主となった直亮の弟  

  井伊直弼と出会った。十一代藩主直中の十四男で部屋住みの身を  

  嘆いて、当時「埋木舎」で鬱々と暮らしていた直弼をたかは慰める  

  ことになる。  

  たかが直弼の愛人となって数年後、坂田郡市場村で国学と和歌の  

  塾、高尚館を開いていた長野主膳が直弼と気脈を通じるようにな  

  り、やがて、たかとも深い縁になったと言われる。  

  嘉永3年、直弼は兄直亮の継嗣直元の急な病没により、36歳  

  にして藩主の座を手に入れることとなり、さらに将軍継嗣問題に  

  絡んで大老に就任することになる。この継嗣問題と日米修好通商  

  条約問題二つをかかえ、安政の大獄に至る動きをたかは陰から助  

  ける役目をつとめることになる。  

  たかは直弼の腹心、主膳の重要なスパイとして京都の情報を江戸  

  の直弼に送り、佐幕派の九条家と島田左近との連絡にあたった。  

  安政7年3月3日、桜田門外の変で井伊直弼は暗殺される。2年  

  後、主膳も彦根で斬首され、たかにも追求の手がのびる。  

  文久2年7月、たかは天誅を叫ぶ尊攘派の志士に捕らえられた。  

  息子の多田帯刀は、たかの目の前で首を斬られ髻を立木の枝に結  

  びつるされ、たかは京都三条河原に三日三晩生きさらしの刑に処  

  された。  

  「この女、長野主膳妾にして、主膳奸計を助けたる者。女子の身な  

  れば死罪一等を減ず」と言う制札がかかげられていた。このとき、  

  たかはすでに53歳で、尼姿であったが、色白の小柄で面長な  

  若い時にはさぞかしと思われるほどの美しい姿で、毅然としてい  

  たといわれている。  

  その後、たかは京都の金福寺に入り、妙寿尼と名のり、明治9年  

  に67歳で没した。  

  墓は一乗寺小谷町の円光寺にある。  




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