公家 |
|
文政7年2月27日、伏見宮邦家親王の四男として京都に生まれる。 |
|
小松宮彰仁の兄。青蓮院宮、賀陽宮、粟田宮、尹宮など十近くの |
|
宮名がある。8歳で出家し、奈良一条院に住むが、幼児よりませた |
|
小僧として有名だったという。 |
|
天保8年、親王宣下を受ける。嘉永元年、京都の青蓮院門跡を相続。 |
|
安政6年、安政の大獄に連座で、相国寺の塔頭に蟄居謹慎させられ |
|
るが、文久2年4月、京都に上った島津久光の働きで復帰し、12月 |
|
には、孝明天皇より国事御用掛に任命され、翌年正月に勅命により |
|
還俗し、中川宮を称する。この頃京都では攘夷が激しくなり、三条 |
|
実美ら攘夷派の若手公卿が攘夷計画を次々と実行しており、長州藩の |
|
独走態勢を危ぶんだ薩摩と会津は、大和行幸の詔が発せられると、 |
|
攘夷派公家と長州藩を排除する計画をすすめ、中川宮もこの政変に |
|
参加した。この文久3年の8月18日の政変で尊攘派は一時失脚する。 |
|
この後も、中川宮は終始公武合体路線を歩み、慶喜や容保と親交が |
|
あった。しかし、時の流れが倒幕に変わり、王政復古が実現すると |
|
中川宮は活躍の場を失う。 |
|
明治元年、慶喜と通じ陰謀を企てたとの嫌疑で、中川宮は広島藩お預 |
|
けになるが、恨み言も言わず、自分がいないほうがお上のためになる |
|
のなら、この配流は御忠節にかなったようなものだと言ったといわれ |
|
ている。 |
|
謹慎を解かれた後は、久邇宮と称し、伊勢神宮の祭主を務めた。 |
|
明治24年10月25日没。享年67歳。 |
|
|
|