井伊直弼
いい なおすけ

幕府大老
 
文化12年10月29日、近江国彦根藩11代藩主直中の14男、母を側室お富の方として、彦根城
 
二の丸に生まれる。井伊家は戦国期に徳川四天王の一人と称えられた井伊直政を祖とし「井
 
伊の赤備え」として精強を謳われ、譜代中の筆頭に位置した家柄である。5歳の時には母、
 
天保2年17歳の時には父を亡くし、新藩主である長兄直亮から捨扶持300俵を与えられ、一
 
度は大名の養子候補として異母弟直恭と江戸に出たが弟の方が選ばれ、国元に戻って三の
 
丸尾末町の屋敷を「埋木舎(うもれぎのや)」と名付け、13年間の不遇な部屋住み時代を
 
過ごした。この間に修行に励み、新心流の居合術は奥儀を極め自ら一派を創立する程にな
 
り禅や茶等、風雅の道も奥儀に達する。天保13年、本居派の国学者長野主膳(義言)と出
 
会い、国史や和歌について二昼夜も語り合う程に投合し、以来子弟の契りを結び国学の研
 
究に没頭する。長野主膳はこの後、直弼のブレーンとして生涯を共にすることとなる。
 
弘化3年、藩主直亮の世子直元が病死し、直弼は思いがけず藩世子となり江戸に出て12月
 
には従四位下侍従に叙任し、玄蕃頭を兼ねた。翌4年2月、彦根藩は相州警備の幕命を受
 
けるが、直弼は井伊家は京都守護の家柄であると反発し、以来老中阿部正弘を快しとしな
 
かった。嘉永3年9月直亮が国許で没し、11月21日、直弼は36歳にして、遂に13代彦根藩
 
35万石の大名となる。領主としての直弼は参勤交代期を除いては僅か3年しか従事してい
 
ないが、前後九回も領内を視察し株の運上を廃して自由営業をさせ、娼妓を全廃、税の免
 
除等、保守的家臣の反対を制し、民政に様々の治績をあげ領民からは仁政を慕われた。
 
嘉永6年のペリー来航と安政元年の再来に於いて、世界の趨勢を見れば、情報に長けた幕
 
臣の中で、先見の明のある者ならば開国策を採るのが必定であった。しかし、これに相容
 
れぬ尊皇攘夷思想の総本山でもある水戸の徳川斉昭は幕政へも意見する実力者であり、幕
 
府が安政2年に斉昭の嫌悪する堀田正睦を老中に就任させた事で対立は必至となる。外圧
 
に動揺する国情の中、病弱で世継ぎのない13代将軍家定の後継者として、英明で知られた
 
一橋慶喜を次の将軍にと待望する動きが持ち上がるが、慶喜は斉昭の実子であり、保守的
 
な幕閣や大奥は慶喜選択に強い難色を示した。伝統的な血統の重視と将軍に水戸出身者の
 
前例がない事を理由に紀州の幼君慶福(よしとみ)を次期将軍に推す側を「南紀派」とい
 
い、両派の対立は深まる。外交条約と将軍継嗣問題、二つの難問を抱える幕府に於いて、
 
将軍に直言出来る「溜間詰」の中でも譜代大名筆頭であった直弼は、一橋派への対抗勢力
 
の切り札として台頭する事になる。安政4年8月、米国総領事ハリスの上府に反対してい
 
た溜間詰大名の意見を覆し12月には米国の要求を受ける意見を連署して幕府に提出。翌5
 
年2月、条約勅許奏請に上京する堀田正睦に先立ち、長野主膳に廷臣間の運動をさせるが、
 
時の孝明天皇はもとより異人を忌み嫌う事が強く、勅許を得る事は失敗した。4月、直弼
 
は幕府が通常の老中職の上へ臨時に設け、将軍代理の任も負う最高職の「大老」職に就任、
 
44歳であった。まずは一橋派の更迭に着手し川路聖謨、鵜殿長鋭ら高級官僚を格下げする。
 
この頃、老練な領事ハリスは、英仏の連合艦隊が清国に大勝した余勢を買い大挙して来日
 
すればアメリカの提示より更に高圧的な条件を押し付ける事になるだろう、その前に日米
 
の条約調印を済ませ、後続の他国がそれに準ずるようにすればよい、と恫喝も交えた忠告
 
で幕府を揺さぶる。攘夷を譲らない朝廷への工作の猶予は無くなっていたのである。直弼
 
は「そもそも大政は幕府に委任されたもの、政治は期に臨んで権道をふるう必要もある。
 
条約に勅許を得ない重罪は我が身一人で負う覚悟である」と判断、6月19日には江戸湾上
 
米艦ポーハタン号に於いて、下田奉行井上清直・目付岩瀬忠震、対ハリスを代表として、
 
日米修好通商条約を締結する。条約十四箇条、貿易章程7章は外国人公使の江戸在住、神奈
 
川・長崎・新潟・兵庫の開港と江戸・大坂の開放、自由貿易、外国人の領事裁判権、居留
 
地の設定を認め、関税を協定制(税率2割)とする不平等条約であり、事実、日本は半世
 
紀に及んで改正までの困難な交渉を続ける事になる。6日後の6月25日、直弼は江戸城に
 
諸大名を集め、次期将軍は紀州慶福決定を発表。二つの大問題を一挙に片付ける強姿勢を
 
示したのである。しかし当然、朝廷、水戸斉昭、一橋派、攘夷派からは激怒と反発を招き
 
「ただ天下の為に恨みにくむべきは大老にこそあれ」(平岡円四郎)と言われ、幕臣や譜
 
代の他に、今まで中央政治に無縁であった外様、一般藩士、学者、浪人、豪商などが天下
 
国家を論ずる活動を始め「志士」「(楠木)正成をする」という言葉が流行。孝明帝は退
 
位を漏らし、公卿と一橋派が画策し、梁川星巌や西郷隆盛らが反幕勢力を形成、遂には、
 
今後は幕府と御三家、諸大名が一致協力して問題に当たるようにとする「戊午の密勅」が
 
幕府を頭越しに飛び越えて直接水戸藩に下されるという異例の事態となる。直弼のとった
 
苦肉の策「無勅」は、世評上いつしか「違勅」扱いにされていたのである。
 
直弼は長野主膳の勧めを受けて、反対派の断固処罰を決定。酒井忠義を京都所司代に任じ、
 
老中間部詮勝と共に京都に於いて尊攘派の捕縛に当たらせ、梅田雲浜、橋本左内、頼三樹
 
三郎、吉田松陰ら学者・志士を死罪にし、最大の政敵である水戸徳川斉昭を永蟄居、一橋
 
慶喜、松平春嶽らを隠居謹慎、公卿、公家に勤める老女らまでを徹底的に断罪粛清した。
 
世に「安政の大獄」と呼ばれ、日本史上でも珍しい思想犯に対する大規模な処罰であった
 
が、安定した幕府強権の元に行われた処断ではなく、かえって攘夷派を刺激し倒幕運動へ
 
の萌芽を招く事となる。
 
大獄に終始した安政6年が暮れ、翌7年2月末には能に造詣の深い直弼自ら新作した「鬼
 
が宿」という狂言が初演される。女に嫌われた太郎という男が、最後には鬼の面をつけた
 
女に「いざ食おう」と脅かされて追われて逃げるという筋立てであった。わずか4日後の
 
3月3日。この日は上巳の節句で諸侯が祝賀の登城をする慣習があるが、春には稀な大雪
 
が降り、午前9時に大老井伊直弼を乗せた駕籠と供回りの60余名の行列は外桜田の藩邸を
 
出て江戸城に向い、杵筑藩邸前、桜田門外に差し掛かる。と、武鑑を手に行列見物の田舎
 
武士の人数の中から、一人が訴状を持って大老へ直訴しようとし、徒士から制止を受けて
 
いきなり斬り付け、その後一発の銃声が響き、一団の刺客が殺到した。襲撃に気づいた駕
 
籠回りの井伊家臣団は雪の為刀に柄袋をかけていて応戦が遅れたという。応援の駆けつけ
 
る間もない程短時間のうちに、双方入り乱れての乱闘となり、刺客達は駕籠に突進、何度
 
も刀を突き立て戸を破り、直弼を引きずり出して首を落とす。襲撃は関鉄之介ら水戸浪士
 
に薩摩の有村次左衛門を含めた18名で、多くが傷死、自刃、斬刑に果てて明治の世を迎え
 
たものは僅かであった。有村は重傷で直弼の首を持ち去ろうとしたが路上に力尽き、首は
 
辰ノ口の若年寄遠藤胤紀邸前の辻番所から井伊家に引き取られ、藩医師の手で残された胴
 
体に縫い付けられ、かろうじて病死の体裁を整え3月30日の発喪となるが、幕府最高責任
 
者で一国の宰相である「大老」井伊直弼が日中「浪士」に暗殺されるという事実は国内外
 
を驚愕させた。後年、佐幕の最先端に立つ新選組副長となる土方歳三が、まだ世に出る前
 
の文久年間の発句集に「井伊公」と題し、「降りながら消ゆる雪あり上巳こそ」との一句
 
を残している。直弼は計らずも徳川幕府の強権を最後に示して消え去り、「天誅」という
 
テロ行為の激化、結果的には幕府の更なる弱体化と終末を予見させた存在、ともいえる。
 
井伊直弼亡き後の彦根藩は、失政の処罰として10万石の削減を受け、長野主膳を文久2年
 
に斬首、戊辰開戦後は早い段階で官軍に投じ、旧幕方追討の一軍に加わる事となった。
 
直弼の遺体は井伊家累代の墓所であり「招き猫」で有名な世田谷豪徳寺に葬られている。
 
法名、宗観院殿柳暁覚翁大居士。享年46歳。
 
■ 御 家 紋 ■
 

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