西 周 
 にし あまね 

津和野藩士
 
  文政12年2月3日、石見生まれ。津和野藩医西時義の嫡男として生まれる。父   

  時義は、森林太郎(森鴎外)の曾祖父森高次の次男で、西家の養子であった。  

  西は藩校養老館で朱子学を学びながら、密かに荻生徂徠の学説を信じていた。  

  藩主亀井茲監の命で20歳の時医業を捨て、儒学修業をする。大坂、岡山と  

  遊学し、24歳で藩学の培達塾の塾頭に選ばれたが、嘉永六年藩主の命で  

  米艦来航後の事情調査のため、江戸に派遣された。この時桜田の藩邸で野村  

  春岱から和蘭文典を学び洋学に精進し、安政元年脱藩、手塚律蔵の塾に学び  

  手塚の推薦で幕府の蕃書調所に入り、文久2年、榎本武揚、林研海らと共に  

  オランダへ留学。ライデン大学のフィセリング教授について自然法、万国公  

  法、国際法、経済学、統計を身につけ、帰国後、啓蒙に努め、学問としての  

  哲学の体系をうち立てた。  

  慶応3年3月から、慶喜にフランス語を教えていた。同年10月13日、西は  

  京都二条城に召し出されたが、薩摩藩家老小松帯刀が慶喜公に大政奉還に  

  ついての意見を具申していたところで、西は同日夕刻、再度呼び出され、  

  イギリス議会のことや三権分立についてたずねられる。そして、10月14日  

  大政奉還なる。11月には慶喜に「議題草案」を提出。これは最初の日本憲法  

  の草案ではあるが、議会を設置しながらも、議長は慶喜が就任し、政権を  

  支配するものであったが、実現には至らなかった。  

  大政奉還後も西は慶喜と共に行動し、水戸に隠居の折も静岡に移住したとき  

  も同行している。その一方、「万国公法」を刊行し、徳川家の沼津兵学校の  

  頭取をつとめている。  

  明治3年明治政府にはいり兵部省で軍制を整え、軍人勅諭の原案を起草した。  

  明治18年11月、脳溢血で倒れ、明治30年1月31日に亡くなった。  

  享年69歳。墓は東京都港区、青山墓地。  




The music produced byふみふみさん
MIDI ON / OFF


佐幕人名鑑に戻る


このページは幕末維新新選組の著作物です。全てのページにおいて転載転用を禁じます。
Copyright©All Rights Reserved by Bakumatuisin Sinsengumi