天然理心流は遠州の近藤内蔵之介が開祖。 | 二代目は近藤三助 | 三代目は近藤周助 | 四代目は近藤勇 | 江戸では三大道場と呼ばれていたのが千葉周作の北辰一刀流 | 玄武館、桃井春蔵の鏡新明智流(士学館)、斎藤彌九郎の | 神道無念流(練兵館)で多くの人に業は千葉、位は桃井、 | 力は斎藤といわれていた。 | 天然理心流は無名でしかも三大道場から"芋道場"と呼ばれ | たのは他でもない多摩の百姓が多く集まっていたからである。 | 時代は剣術を茶道や華道に似た、たしなみ程度になり | 下がっていた。しかも上記の三大道場は既に政治サロン化し | 毎日、剣術よりも政治論をぶつけ合っていた。 | 一方、天然理心流試衛館は実践に基づいた"必殺剣"を追求していた。 | 創始者の近藤内蔵之介は、古流の天真正伝鹿島真道流(戦国時代 |
の下総香取郡出身の飯篠長威斎(いいざさちょういさい)が創始 | |
いわば天然理心流の遠祖)を継いだと言い、これは剣術、柔術、 | |
棒術、気合術(気によって相手を倒す気合いをかけて相手を動かない | |
様にする術。ただしこの術は、二代目の近藤三助で途絶えてしまった。) | |
の総合した武術であった。又、近藤内蔵之介は天然理心流を寛政初年 | |
(1789)ごろ創始したとされている。 | |
天然理心流には@切紙 A目録(序目録)B中極位目録C免許 | D印可 E指南免許と6段階に分けられ、切紙と目録(序目録)には | 柔術が含まれ剣と柔術が合体したかたちであるが、「突き」は | 教えなかったそうである。なぜなら、これは必殺剣であるが故に | 常時用いてはならず教えなくても自分自身で切磋琢磨していく間に | 突き技が身につくものとされていたからである。 | 門人をとって剣を教えるには指南免許が必要であるが、これは入門 | してから約20年かかる。ちなみに入門してから免許まで10年、その後 | 指南免許までが10年である。しかしながら近藤勇の場合、入門したのは | 15歳。目録までが1年その後わずか12年で四代目宗家となっている。 | その事から近藤勇はずば抜けた剣技の持ち主であり、異例の速さで | 指南免許を取得していることがわかる。又、常に剣を持つということは、 | 死と背中合わせという事で近藤の稽古着は髑髏(どくろ)の刺繍が入って | いた。(妻 常により作成) | 免許の「極意必勝」には和歌があり、 | 荒海の水につれそう浮鳥の | 沖の嵐に心動かず | <意味>波間に見え隠れする浮鳥は敵である。 | 天然自然と調和し、臨機応変に自分の技を繰り出せ |
天然理心流とは、自然にさからわず、天に象どり(かたどり) | |
地に法り(のっとり)剣理を極めるという意味である。 | |
特色のあるもののうちの一つとして「平晴眼」というものがある。 | |
これは、いわゆる他流派でいう「正眼」と呼ばれる構えであるが、 | |
普通"正眼の構え"というのは自分の体の正中線(体の真中のこと。 | |
武道では、正中線に人間の急所がありこれを攻防するのが基本と | |
されている。)に構えるのであるが、天然理心流でいう平晴眼は | |
普通の構えより右側に刀を開いて構える。そうすることにより | |
普通の正眼の構えでは、首を狙った突きでは、かわされやすいが | |
平晴眼の構えから突いた場合、例えかわされても次の攻撃つまり | |
そのまま頚動脈を斬れる体制にもっていけるようになっている。 | |
突きと斬るといった二つの攻撃を即座に出来る構えなのである。 | |
このことから「沖田の三段突」とか「無明剣」とか呼ばれていた。 | |
ちなみに沖田は自分からあまり攻撃をせず、相手の攻撃を右半身で | |
かわしながら抜刀し倒したといわれている。刀は鞘から抜いた瞬間が | |
最も遠心力がかかり最も威力が発揮される。攻撃をかわした瞬間に | |
抜刀するとはさすが天才剣士沖田としか言いようがない。 |
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