坂本龍馬 
 さかもと りょうま 

土州脱藩
 
  天保6年11月15日生まれ。土佐高知城下の商人郷士「才谷屋」分家次男。諱は直柔。才谷  

  村から出て酒造他の商家として繁盛、郷士株を買ったのが才谷屋で、幕末頃の本家は上層  

  武士に金を貸す仕送屋で、質草の立派な道具類が蔵に積み上げられていた。龍馬が後年通  

  商航海に目覚めたのも、個人的に刀剣鑑定を好んだり新式のピストルや洋靴等、道具類に  

  凝ったのも商家の血筋と無縁ではない。坂本家は明智光秀の婿秀満庶子太郎五郎の末裔と  

  言われ、龍馬も同じ桔梗の紋を使っており後年の変名に生家の名から「才谷梅太郎」を名  

  乗っている。土佐の郷士は階級的には武士の扱いを受けない程に差別されていたが、龍馬  

  の場合は裕福な家庭に育ったといえる。子供の頃の龍馬は泣き虫で夜尿症(夜ばぁたれ)で、  

  10歳を過ぎて袴を1人で履けず、小高坂の楠山庄助の私塾でもいじめられ、喧嘩が元で辞  

  めてしまい学問でも落ちこぼれであったが亡母の替わりに次姉の乙女が龍馬の教育に力を  

  注いだ。並外れた大柄で学問音曲から剣術、馬術、水泳までこなす勝気なハチキンの乙女  

  は「坂本のお仁王様」と呼ばれる女丈夫で、龍馬は終生この姉を慕った。嘉永元年14歳の  

  時、近所の小栗流日根野弁蔵の道場に通い剣術を習い始めると、これが効を奏してめきめ  

  きと才能を表し、嘉永7年までに「小栗流和兵法事目録」「小栗流和兵法十二箇條并二十  

  五箇條」と三種の許状を伝授されている。地元の古流に熟達した龍馬は、最新の大流儀北  

  辰一刀流を学ぶ為に同6年3月19歳で江戸に出て、千葉定吉の門下に入って修業、安政5  

  年に授かった「長刀兵法」目録が現存しており、道場の息女佐那との婚約も内定する。  

  しかし国元と江戸を往復して剣客の修業を繰り返す中で龍馬は別の面でも開眼した。帰国  

  中、絵師河田小龍に出会い、薩摩に出張して反射炉や洋式設備について実見した話や、各  

  種の西洋文明の知識と共に、河田の「日本は海運を盛んにし西洋文明を取り入れ、富国強  

  兵を実現せねばならぬ」との説に大きな影響を受ける。住谷寅之助らの水戸志士、土佐で  

  は近藤長次郎、新宮馬之助、長岡謙吉らと親交、安政6年土佐藩西洋砲術家徳弘孝蔵に入  

  門して砲術を学び、文久元年、互いにあだ名で呼び合う仲の郷士武市半平太(瑞山)の結  

  成した土佐勤皇党に加盟。剣術詮議と称して讃岐、安芸、長州を旅して志士たちと接触、  

  久坂玄瑞とも知己を得て大坂回りで戻る。しかし保守的な土佐の藩論には期待できず、同  

  志沢村惣之丞と共に、文久2年3月24日に野々宮関から国境を越えて脱藩した。この年の  

  10月には江戸におり、幕臣勝海舟の私邸に赴いて面談を申し入れ、米国帰りの勝から開国  

  と近代海軍の必要性を説き聞かされ、敬服して弟子入りを志願した。「日本第一の人物・  

  勝麟太郎といふ人に弟子になり」日々精進して「国の為天下の為、力を尽くしおり候」、  

  40歳までは国に帰らないだろう、と姉乙女への手紙に意気揚揚と書いている。  

  翌文久3年4月、勝が幕府から神戸海軍操練所と海軍塾を開く事が許可されると片腕とな  

  って尽力し、塾頭として勝に従い江戸と大坂を往来、長崎にも赴き、使者として松平春嶽、  

  中根幸江、横井小楠、西郷隆盛らとも接触を重ねる。途中、勝の交渉で山内容堂から脱藩  

  の罪を許されたが帰国の命令を拒否して再度浪人となる。だが元治元年に勝が失脚、軍艦  

  奉行を罷免され江戸に戻ると、龍馬は操練所の同志と共に薩摩藩の援助を求め、長崎に於  

  いて海運貿易を行う亀山社中を結成、これが一般的には日本初の商社と呼ばれる。亀山社  

  中は後年の「海援隊」に発展し、「運輸、射利、開拓、投機」を目的に、法律、経済、経  

  営、管理、蒸気機関学等、経営難に龍馬自らが奔走しながらも、当時の最先端技術を研究  

  した。龍馬が初めて薩摩船「胡蝶丸」で鹿児島に入ったのが慶応元年5月、長州の桂小五  

  郎と会い、土佐の中岡慎太郎と協力して、文久以来犬猿の仲であった薩長同盟締結の仲介  

  をとって約定に裏書きしたのは同2年1月である。薩摩と長州が手を結べば幕府を倒す最  

  大の勢力が生まれる事は師の勝も西郷に示唆した程明白な事であったが、藩の面目から、  

  どちらも先に相手に話を切り出さず、桂らが薩摩藩邸を密かに訪れ待機中、西郷自身がな  

  かなか対面せず、これを聞いた龍馬は激怒して抗議、双方がやっと膝を交えた。朝敵とな  

  っている長州が外国から武器や軍艦を購入し力を蓄える為に薩摩藩の名義を使う事も、亀  

  山社中が実現させた。その1月に、京都伏見で懇意の船宿寺田屋に潜伏していた龍馬は幕  

  吏に急襲され、当家の養女お龍の注進で九死に一生を得、負傷しながらも薩摩藩邸に逃げ  

  込んだ。龍馬は勝気なお龍を愛して妻に迎え、西郷の勧めで養生がてら薩摩へ日本初とも  

  いう新婚旅行に出かけて、楽しんだ様子を乙女に書き送っている。  

  その後の龍馬は第二次征長戦でもユニオン号(桜島丸)に乗って長州に貢献、長崎に来た  

  土佐の後藤象二郎と会談を重ね、脱藩の罪を許され、慶応3年には紀州の藩船明光丸と海  

  援隊のいろは丸衝突事件が起こり、国際法である万国公法を論拠に賠償金8万3000両の支  

  払約束を勝ち取る等、縦横に活躍する。6月には土佐藩船夕顔で長崎を発ち、同乗の後藤  

  に大政奉還実現の為の具体案「船中八策」を示す。龍馬にとっては、旧態然とした幕府支  

  配下の不安定な国情から大きな内乱に至るよりも、速やかに日本国内を統一して新国家を  

  作り出し、富国強兵を実現する事が、国防の為にも最も肝要だと考えたのである。薩長主  

  導に遅れを感じていた土佐では後藤と山内容堂がこれを藩論として推し進め、10月、慶喜  

  が遂に大政奉還を発表すると、待ち望んだ龍馬は「よくも断じたまえるものかな」と将軍  

  辞職の決断に感激して快哉を叫んだ。龍馬が作った新国家の人事構想名簿の中には龍馬自  

  身の名がなく不思議がられると「世界の海援隊でもやるさ」と笑ったという。しかし、大  

  政奉還の実現は見方を変えれば、多くの幕臣にとっては幕府の政権返上により職権を奪い  

  取られる形となり、薩長にとっては武力討幕により名実共に徳川の勢力を排除しようとす  

  る目的の出鼻を挫いた妨害である。龍馬は佐幕、討幕どちらの派からも狙われる身となり、  

  ほぼ1ヶ月後の11月15日、潜伏中の京都四条河原町近江屋の2階奥座敷に於いて、同席の  

  中岡慎太郎と共に数名の刺客に襲われ、頭部を斬撃されて間もなく絶命した。剣客龍馬を  

  仕留めた手腕から当時は京で有名な新選組犯人説が取り沙汰され、戊辰役前後に根強く疑  

  われ隊士の処分に影を落としたが、現在は今井信郎の証言により佐々木只三郎ら京都見廻  

  組の所業とされている。龍馬は33歳の誕生日で急死となったが、明治の実業家岩崎弥太郎、  

  外相陸奥宗光ら、彼の影響を発展させた者もある。翌年3月に発布された「五箇条の御誓  

  文」は、龍馬の船中八策を基本とした形であった。  

     

  一、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべき事。  

  一、上下議政局を設け、議員を置き、万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事。  

  一、有材の公卿、諸侯、及び天下の人材を顧問に備へ、官爵を賜ひ、宜しく従来有名無実  

  の官を除くべき事。  

  一、外国の交際、広く公議に採り、新(あらた)に至当の規約を立つべき事。  

  一、古来の律令を折衷し、新に無窮の大典を撰定すべき事。  

  一、海軍宜しく拡張すべき事。  

  一、御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事。  

  一、金銀物価、宜しく外国と平均の法を設くべき事。  

   以上八策は方今天下の勢を察し、之を宇内万国に徴するに、之を捨てて他に済時の急務  

  あるなし。いやしくもこの数策を断行せば、皇国を挽回し、万国と並行するもまた敢えて  

  難しとせず。伏して願くは公明正大の道理に基づき、一大英断を以て天下と更始一新せん。  

■ 御 家 紋 ■

■ 剣 客 剣 豪 ■




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