文久四年(1864年2月8日〜1864年3月26日) 元治元年(1864年3月27日〜1865年1月26日) |
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1月 | 2日 | 将軍家茂上洛につき、下坂する。 |
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8日 | 新選組、安治川河口付近で家茂の大坂到着を出迎える。 |
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14日 | 家茂の入京を前に伏見城裏手を警備する。 |
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15日 | 家茂の入京に従い警護、帰営。 |
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27日 | 山南敬助、小島鹿之助宛に年賀状を記す。 |
2月 | 1日 | 早朝、会津藩と新選組誹謗の高札が四条橋東橋詰南側に立つ。 |
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2日 | 日野蓮光寺村名主富沢忠右衛門、壬生を訪れて土方・井上・沖田らと歓談する。 |
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3日 | 近藤、富沢の宿を訪ねる。 |
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4日 | 松平容保、近藤・土方に前年の政変時の働きを賞し、銀を下賜する。 |
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6日 | 夜、五条大橋付近で酒に酔って乱暴を働く武州人2名を捕縛。 |
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8日 | 富沢、新選組に出向いて武州人を引き取り、京都から放逐する。 |
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9日 | 土方・井上・沖田、富沢を訪問するが不在。 |
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上旬 | 近藤、松平容保の勧めにより8日間の湯治に赴く。 |
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11日 | 長州討伐の為、松平容保が陸軍総裁職に着任する。 |
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12日 | 夜、妻籠宿にて新選組入隊希望の新徴組脱士塩沢能太郎・手塚佐兵衛、通行手形不所持の為捕縛される。 |
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13日 | 松平容保、改称によって軍事総裁職となる。 |
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15日 | 松平春嶽、京都守護職となる。 |
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20日 | 元治と改元。 |
2月 | 25日 | 講武所奥詰戸田祐之丞、隊士佐藤安次郎を屯所に訪ねるが その際の言動に問題があり、奉行所に引き渡される。 |
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26日 | 新選組隊士7・8名、大坂屋で遊興中の武士1名、左官職人2名を捕縛し屯所へ連行する。 |
3月 | 3日 |
京都所司代稲葉長門守、新選組を従来通り支配する事の内定があったことを
松平容保に報告する。 同日 土方・井上、富沢忠右衛門と清水寺に参拝し、祇園の茶屋で遊ぶ。 |
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5日 | 近藤・土方・井上・沖田・藤堂ら富沢と島原の木津屋で桃花の宴を開く。 |
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11日 | 近藤・土方・井上・沖田・藤堂・武田観柳斎ら島原の千紅万紫楼で花見の宴を催し、 富沢を招いて木津屋に遊ぶ。 |
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19日 |
会津藩の御用状に、新選組が松平春嶽暗殺を計画との風説が記される。 |
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同月中 | 新選組、長州人医師の伜を捕縛。 |
4月 | 6日 | 佐田介石ら5人を隊名を騙り金策をした為に捕縛する。 |
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7日 | 松平容保、京都守護職に復帰する。 |
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11日 | 新選組、千紅万紫楼で富沢の送別会を催す。 |
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12日 | 土方、富沢に佐藤家へ送る鉢鉄と日記等を託す。 |
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13日 | 土方・井上、富沢を伏見まで見送る |
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22日 | 松原通り木屋町で出火。新選組が出動し、現場で不審な長州人二人を捕縛。 長州人の多数京都潜入を知る。 |
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24日 | 京都見廻組、江戸で結成される。 |
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下旬 | 潜伏の長州人探索の為、島田魁・浅野藤太郎・山崎烝・川島勝司の 監察方が動き始める。 |
5月 | 3日 | 近藤、幕府に新選組の進退を伺う書面を会津藩に託す。 |
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6日 | 四条通りにて会津藩士と浪士の戦いがあり、駆け付けた新選組は浪士2名を捕縛。 |
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7日 | 新選組、江戸に帰還する将軍家茂の下坂に従う。 |
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14日 | 会津藩江戸詰上田一学、見廻組より新選組隊士召抱えの申し入れを京都に送る。 |
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16日 | 新選組、安治川河口で家茂の出港を見送る。 |
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20日 | 夜、大坂西町奉行所与力内山彦次郎暗殺事件が発生。新選組の仕業とされる。 |
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同月中 | 近藤、谷周平を養子に迎える。 |
6月 | 1日頃 | 新選組、鴨川東岸中間体の者2人を捕縛し、拷問の末長州人40名の京都潜入を知る。 |
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5日 |
早朝、武田観柳斎ら桝屋喜右衛門こと古高俊太郎を捕縛。 同夜、池田屋事変勃発。奥沢栄助戦死。 |
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6日 |
新選組、残党狩を行う。池田屋惣兵衛を捕縛する。 武田、土佐の大秋鼎(大利鼎吉)を捕縛する。祇園で 薩人を誤認捕縛するなどして一時帰営。 |
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7日 | 会津藩、見廻組の召抱えに謝絶の返書を送る。 |
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8日 | 近藤、池田屋事変を報ずる書簡を郷里に宛て記す。 |
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10日 | 残党狩りが続く中、奉行所よりの通報で東山の明保野亭へ出動。 同行の会津藩士柴司、武田の指示で土佐藩士麻田時太郎を刺す。 |
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11日 |
新選組、土佐藩士の襲撃の噂に一時屯所移転の札を出す。 同日 麻田自刃。 |
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12日 | 柴司自刃。 |
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13日 | 柴司の葬儀に土方・井上・武田・浅野藤太郎・河合耆三郎、参列して武田と浅野が弔歌を詠む。 |
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20日 | 土方、佐藤家にあて近藤に両番頭次席の格が与えられる旨の書簡を記す。 |
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21日 |
新選組、六条辺に浪士潜伏の報に出動し、西本願寺で一泊する。 同日 久坂玄瑞・真木和泉らの率いる長州軍、大坂着。 |
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23日 | 深夜、新選組、東本願寺にて休息。 |
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24日 | 長州軍、山崎着。新選組、竹田街道に出陣。 |
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25日 | 長州軍、山崎天王山に布陣。 |
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28日 | 会津藩出動に伴い、新選組は九条河原へ転陣する。 |
7月 | 2日 | 川島勝司、嵯峨天竜寺方面を探索し報告書を記す。 |
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7日 | 岡山藩偵察に出張の隊士松山幾之介、城下で捕らえられ殺害される。 |
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8日 | 長州の密偵渡辺九八郎を四条御土居付近で捕らえるが、同行の 井上辰之助は逃走。 |
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13日 | 池田屋惣兵衛、六角牢で獄死。 |
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17日 | 新選組、長州藩への態度が優柔不断な一橋慶喜の宿舎に乱入しようとして 会津藩士に諭されて事無きを得る。 |
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18日 | 長州の入江九一・浜中太郎、新選組誹謗の高札を立てる。 |
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19日 | 禁門の変が勃発。九条河原の新選組、 堺町御門まで出動。この戦いで永倉・原田が負傷する。 |
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20日 |
古高俊太郎ら、六角獄舎収容の囚人多数が殺害される。 同日 新選組、天王山集結の長州兵追討の為、会津藩兵と出動し伏見に泊まる。 |
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21日 |
新選組、天王山に真木和泉ら17名を攻めるが、自刃。 夜、大坂御堂に着く。 |
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22日 |
安藤早太郎、池田屋事変での受傷が悪化して死亡。 同日頃 新田革左衛門、池田屋事変での受傷悪化の為死亡。 |
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23日 | 高槻昆陽宿の残党狩りで長州兵の銃、弾薬を押収して壬生に帰陣する。 |
8月 | 3日 | 松本喜次郎・河合耆三郎、長州兵による摂津高浜村の被害を調査する。 |
4日 |
高浜村より被害無しとの報告が届く。 同日 幕府より池田屋事変の御賞金が下される。 |
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15日 | 老中より会津藩と新選組に対し、禁門の変の賞状が下される。 |
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18日 | 禁門の変の際に西本願寺侍臣らと長州兵に合流しようとしていた、 剣客斎藤弥九郎の義弟ら5名を捕縛する。 |
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下旬 | 近藤の増長に反発する永倉・原田・斎藤・島田・尾関雅次郎・ 葛山武八郎ら、会津藩に罪状書を提出する。 |
9月 | 5日 | 近藤、永倉・武田・尾形俊太郎を伴い、将軍の上洛要請と隊士募集の 為江戸へ出立する。これに先立ち、藤堂が先行して伊東甲子太郎に新選組 加盟を説く。 |
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6日 | 葛山武八郎、近藤批判の罪によって切腹。 |
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7日 | 長州同調者による投げ文等の犯人を探索し、鷹司家家臣水口貢と商人東一郎を捕縛する。 |
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9日 | 夕方、近藤一行は江戸に到着する。 |
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10日 | 近藤一行、会津藩邸に赴く。 |
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15日 | 小島鹿之助、近藤と面談する。 |
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16日 | 土方、勝海舟に宛て佐久間象山の遺児三浦敬之助の入隊報告状を記す。 |
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30日 | 近藤、日野の佐藤家に赴く。 |
10月 | 5日 | 隊士篠塚峰三、元主人よりの申し入れにより離隊。 |
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7日 | 日野の松木元太郎・小林重太郎、入隊を求めて屯所を訪れるが、入隊不許可。 |
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11日 | 近藤、和泉橋の医学所に松本良順を訪ねる。 |
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14日 | 近藤、松本良順を再訪し胃薬を調合される。 |
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15日 | 近藤、伊東甲子太郎ら新入隊士をともない、江戸を出立。藤堂は江戸に残留する。 |
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27日 | 近藤一行、帰京。 |
11月 | 16日 | 近藤、大坂の三橋楼に加賀屋を呼びつけ、問屋筋36軒より15万両の献金を申し付ける。 |
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17日 | 近藤・小原銀蔵、会津藩邸を訪問する。 |
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27日 | 加賀屋問屋筋、谷三十郎に献金の日延べを願い出る。 |
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同月中 | 長州出兵を念願にした『行軍録』が作成される。 |
12月 | 2日 | 隊士50名、勢多へ出張。 |
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同月中 |
新選組、大坂商人22人より銀6600貫を借用する。 五条坂に潜伏中の浪士11名を捕縛。 |
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