松平春嶽 
 まつだいら しゅんがく 

越前福井藩主
 
  文政11年9月2日、徳川御三卿の田安家三代斉匡の八男に生まれる。母は閑院宮家木村某  

  の娘礼井。幼名を錦之丞。12代将軍家慶の従弟であり、天保9年11歳の時将軍の命で越前  

  福井32万石の藩主・松平斉善(なりさわ)の養子となり病没後を継承、第16代藩主に就任。  

  家慶の一字を賜り慶永、元服して越前守を称したが、生涯愛用の雅号「春嶽」の方が有名  

  である。福井松平家の藩祖秀康は徳川家康の次男であり、嫡男信康早世後、三男秀忠の唯  

  一の兄であり、豊臣秀吉の名を貰って結城家に養子に出されていなければ家康の後継男子  

  としては最年長であった立場である。二代将軍には秀忠が就任したが、この経緯から越前  

  松平家は御家門筆頭の国持大名として家格が高かったのである。慶永は16歳で初入国し、  

  90万両の負債を抱えた福井藩財政立て直しの為、近侍御用役に股肱の臣中根雪江を始め、  

  村田万寿、若手の逸材橋本左内、由利公正らを登用し、「国是三論」を著した儒者横井小  

  楠を熊本から顧問として招き、洋式兵制の導入や種痘館、藩校明道館を創設、殖産興業策  

  を推進して開明的藩政指導を行うと共に、国政にも積極的に参画するようになる。嘉永6  

  年6月のペリー来航に際しては、慶永は開国、通商条約締結の要求を蹴って直ちに決戦す  

  べきと具申したが、安政3年には藩論を積極的開国策へと改め、国家の独立自存と防衛策  

  の建議を重ね、13代将軍家定の後嗣問題にあたっては、幕閣諸大名を指揮できる英明な人  

  物こそ必要である、として水戸斉昭の実子一橋慶喜の擁立を主張。島津斉彬、伊達宗城、  

  山内容堂、徳川慶恕ら、一橋派の一人として強力な挙国一致体制を組み立てようとし、橋  

  本左内を朝廷説得工作の為京都に奔走させた。しかし、紀州藩主慶福(14代家茂)を次期  

  将軍に推す南紀派の井伊直弼が大老に就任、日米修好通商条約締結を断行し、安政5年6  

  月、慶永、斉昭らは、不時登城の罪を口実に隠居謹慎の処罪を受け、懐刀の左内も大獄で  

  刑死となる。慶永は家督を支藩糸魚川藩主・松平直兼(茂昭)に譲り、江戸霊岸島邸に幽閉  

  され、以後は隠居号春嶽を通称とし5年に及ぶ謹慎生活を送った。  

  長い幽閉中に、井伊大老は桜田門外で殺され、皇女和宮降嫁による公武合体策が進行し、  

  尊攘思想が激化。文久2年に島津久光の率兵上洛による幕政改革の進言を受けて、4月に  

  春嶽の謹慎が解かれ、勅使大原重徳の江戸下向によって5月には将軍後見職に一橋慶喜、  

  政治総裁職に松平春嶽が拝命、以後は将軍家茂補佐の重役として連立し幕政の中心に座る。  

  文久の幕政改革には、参勤交代制の緩和、登営の際の人員削減、諸大名の献上物の自粛、  

  洋式軍制の採用、幕府職制の改正、京都守護職(会津中将松平容保を拝命)の新設等が実  

  施され、遂には229年ぶりという将軍上洛を実現させた。春嶽は「天下と共に天下を治め  

  る」といい、多事多難の国内で幕閣が権力にのみ固執するのを批判、幕府の体面や私欲に  

  とらわれず将軍自ら上洛し朝廷を尊崇して事にあたるべきとした。しかし保守的な幕府要  

  人からは中傷を受け、横井小楠の影響を受けた公議政体論を基底に朝幕融和を主張する春  

  嶽と、幕権強化志向の慶喜の意見は次第に対立を見るようになる。春嶽が大目付・外国奉  

  行に登用した大久保一翁(忠寛)の人事を巡り、慶喜が「あなたがえこひいきをするから  

  不平を抱く者もいるようだ」と皮肉を言うと、春嶽は「天下の重寄(大役)にあたる者と  

  して正人端士を贔屓せずして誰を贔屓すべきであろうか」とと反駁したという。  

  文久3年春、尊攘論の沸騰する京都へ将軍共々幕府の中枢は上洛し、以後幕権は江戸と京  

  都二分化の状態となるが、この頃朝廷から攘夷決行の期日を迫られ、受諾に傾く幕閣に春  

  嶽はあくまで反対し、時局収拾の為一度朝廷に政権を返上するか、このまま幕府に委任す  

  るかを明確にすべきという「政令帰一論」を主張したが受け入れられず、3月21日に辞表  

  を届け捨てて福井へ帰国する。春嶽は政治総裁職解任の上、逼塞(門を閉じて白昼の出入  

  り禁止)の幕命を受け、一時藩内では挙兵上京して攘夷派を駆逐する事まで企画される。  

  しかし逼塞は5月に許され、「八月十八日の政変」で京都から長州・尊攘激派が一掃され  

  ると、慶喜、春嶽始め、島津久光、伊達宗城、山内容堂、松平容保ら上京諸侯による「参  

  与会議」が設けられたが、横浜の開港・鎖港問題を巡って慶喜が春嶽ら諸侯を「天下の大  

  愚物」と嘲罵するなど意見が対立。何らの成果を見られず崩壊した。春嶽もまた、開国と  

  攘夷、倒幕派勢力の台頭と幕府安泰朝廷尊崇の理念のはざまで振子のように揺れ動き、国  

  元と中央政界の往復を余儀なくされる。慶応2年、領内に住む歌人・橘曙覧の庵を自ら訪  

  れ、貧窮の中で歌の道に生きる人生に感動、恥ずかしくて顔が赤らむ心地がしたといい、  

  「歌のみならずその心のみやびを慕い学ばや」と考え蔵米10俵を送って生活を助け、曙覧  

  の死には「敷島の道のしるべは絶えにけり 今より何を方便にやせん」と深く悲しんだ。  

  政治の権謀術数にまみれた春嶽は、文人の世界に心の静謐を求めたのであろう。  

  この間、禁門の変、第一次、二次の長州征伐、家茂の死と慶喜の15代将軍襲名、と時局は  

  移り、慶応3年5月には春嶽、久光、容堂、宗城の四侯会議が開かれたが、またも慶喜と  

  四侯の間に妥協点が見出だせず、兵庫開港、長州処分寛典の勅許を得た慶喜の勝利に終わ  

  り、調停役としての春嶽の労は報われなかった。西国雄藩は次第に武力討幕を決意するに  

  至り、春嶽の持論でもあった政権返上は、土佐の懸案を居れた大政奉還奏上によって実現、  

  次いで王政復古の大号令が発せられる。ここで慶喜の辞官納地が挙げられると、春嶽は徳  

  川家の為に抗議、慶喜の朝政参加を図ろうと務めたが、鳥羽伏見の戦が勃発、慶喜は朝敵  

  となって政治復権の道は断たれた。  

  春嶽は維新後、明治新政府側に於いて徳川家の救解に尽力。内国事務総督、議定となり、  

  明治2年、民部卿、大蔵卿を兼ね、大学別当兼侍続となる。翌3年一切の官職を辞して  

  以後文筆生活に入り、「逸事史輔」等の幕末維新史の記録、武家風俗史上貴重な著述類  

  を執筆、また伊達宗城らと「徳川礼典録」を編纂、注目すべき業績を残した。明治23年  

  6月2日、東京小石川区関口台の邸で死去。享年63歳。墓は品川区の海晏寺。  

■ 御 家 紋 ■




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