平隊士 |
鳥羽伏見の戦いの戦死者を記した「戊辰東軍戦死者霊名簿」で「土方歳三附」とされ、慶応 |
四年一月六日の戦死とあるが、隊士としての確認はできず、他藩士などの誤認と思われる。 |
平隊士 |
永倉新八の「同志連名記」によると、慶応三年十二月に不動尊村屯所より、伏見奉行所へ |
移ったさいの平同士として記録されるが、島田魁や横倉甚五郎の名簿からは、在隊が確認 |
できない。誰かの変名なのだろうか。 |
平隊士 |
遊撃隊士玉置弥五左衛門の「戊辰戦争参加義士人名録」 |
で、新選組差図役下役とされるのみで在隊を確認できない。 |
平隊士 |
京都押小路にある越前屋の次男で、剣術を好んで近所の道場で師範代をつとめ、新選組 |
には、見習隊士として、入隊したが、小頭に取り立てられ、島原に通うようになった。 |
しかし、金に困って、金策や辻斬りを行なったため、噂が広まり、島原から帰ったある |
夜、屯所の塀を乗り越えたところを、土方歳三らに斬殺されたという。この話しは、明 |
治のころには語られており、これを素材に、司馬遼太郎の短編小説「前髪の惣三郎」が |
生まれたが、惣三郎の実在は確認されていない。 |
平隊士 |
西村兼文の「新撰組始末記」に「藤沢竹城ハ文芸ノミ二テ武事ノ用ヲナサズト倦シテ |
退去ス」とあり、慶応年間の一時期に在隊したものの、ほどなく離隊したと思われる。 |
平隊士 |
宮氏岩太郎の「箱館脱走海陸軍総人名」で箱館での隊士とされる人物。 |
入隊の経緯、戦争後のことも不明で、誰かの変名とも考えられる。 |
平隊士 |
宮氏岩太郎の名簿に隊士として記載され、また松田六太郎の名前で、明治二年一月前後に |
山背泊見廻りの任についていたことが、記録されていることから、入隊の事実はあったの |
だろう。桑名人とも、蝦夷で死亡ともされる。 |
平隊士 |
新選組慰霊碑に刻名のある隊士とされるが、向かって、右側面の下から二段目の、左から |
二番目に「鈴木傳三郎」と刻まれている。煉三郎ともされる、鈴木錬三郎のことである。 |
平隊士 |
明治二年十月二十五日に勝海舟より、一両を無心したことが記録され「近藤勇隊村上一」 |
とあることから、隊士だったと思われる。その後も三年五月二十四日と四年一月二十九日 |
にも無心しており、村上三郎と同一人かと思われる。 |
平隊士 |
安次郎、保次郎とも称す。元治元年二月、幕臣で奥詰の戸田祐之丞が、安二郎を訪ねて、 |
屯所を訪れ、慶応二年三月には、広島出張中の近藤勇らと接触し、翌年十一月と翌々年二 |
月には「金銀出入帳」に合計百十八両の支給が記録されており、隊士だったと思われるの |
だが、名簿からは在隊時期を知ることはできない。また同名の人物が、明治九年三月二十 |
二日に、勝海舟から五十円の無心をしているが同一人物であるかは不明。 |
平隊士 |
村上とも称す。入隊時期は不明ながら、土佐陸援隊に密偵として潜入し、慶応三年十月初 |
頭に武力討幕の計画があることを、新選組屯所に通報する。新選組では、誤認逮捕してし |
まったとして、七日に陸援隊へ復帰させるが、坂本龍馬と中岡慎太郎が刺客に襲われた。 |
翌十一月十六日、嫌疑を受けて捕縛された。十七日に取調べを受けているが、その後に |
ついては不明。 |
平隊士 |
甲陽鎮撫隊として出陣し、慶応四年三月六日に勝沼の戦いで死亡している。 |
隊士ともされるが、佐藤彦五郎の率いた春日隊に所属していたものと思われる。 |
平隊士 |
元備中松山藩の日光宿坊南照院の小姓で、慶応四年二月に板倉勝静が江戸を脱し、同院に |
入っている。勝静の仙台行に同行したものか、同地で新選組に入隊して、蝦夷に渡航した |
ものと思われる。宮氏岩太郎の名簿に、隊士として記載され、また、明治二年一月前後に |
山背泊見廻りの任についていたことが記録される。同年一月前半に、勝静の随臣が、体調 |
を崩したため、新選組を離れて勝静に従い、四月には、勝静の箱館脱出に随従して、浦賀 |
で別れる。 |
隊士 |
慶応二年九月七日の岩倉具視の日記に「新選組脱士高橋良之助ヲ召抱」とあるが、実際に |
脱走隊士であれば変名を用いたはずであり、隊士名簿に名前を確認することはできない。 |
平隊士 |
文久三年五月までに入隊し、同月二十五日に壬生浪士組三十四名が連名で、幕府に |
提出した上書に名前を見せる。以後、事跡は伝わらず、同年七月以前に離隊している。 |
平隊士 |
「戊辰東軍戦死者霊名簿」は、慶応四年一月の鳥羽伏見の戦いで、 |
三日に伏見戦死の隊士とするが、田村大三郎の誤認と考えられる。 |
隊士 |
慶応三年中、綾小路俊英の家臣田村帯刀による佐幕派同志募集に呼応し、山崎烝らが、江 |
州八日市に出張したさいの同行者として記録されるがこれ以外に在隊を示す記録はない。 |
平隊士 |
永倉新八の「同志連名記」に平同士との記載があり、入隊時期は不明ながらも、慶応四年 |
の江戸帰還隊士とされていることから、同三年六月以降に入隊した、玉置良三のことと、 |
考えられる。 |
隊士 |
鳥羽伏見の戦いの戦死者を記した「戊辰東軍戦死者霊名簿」で隊士とされ、慶応四年一月 |
三日でに伏見死亡とあるが、黒谷の會津藩墓地の慰霊碑に記録されているように會津藩士 |
である。 |
平隊士 |
永倉新八の「同志連名記」に平同士として記録され、入隊時期は不明ながらも、慶応四年 |
の江戸帰還隊士とされるが、伏見奉行所への移転者とはされていないことから、伏見移転 |
後の入隊者となる。ただし、永倉は上坂甲太郎を伏見移転者として「上坂幸太郎」と記載 |
しており、彼を江戸帰還隊士としていない。姓の不一致に問題はあるが、おそらく、上坂 |
甲太郎と思われる。 |
平隊士 |
大阪の出身と伝えられ、慶応元年夏の編成では、篠原泰之進らと、柔術師範に就任して |
いる。文久三年から慶応元年七月以降まで在隊していた、柳田三次郎のことと思われる。 |
平隊士 |
慶応二年八月一日付で、大石鍬次郎が、相続問題について、近藤勇の次兄宮川粂次郎にあ |
てた手紙に「同志藤沢彦次郎」とあり、隊士だと確認される。藤沢竹城と同一人物と考え |
られる。 |
平隊士 |
元治元年七月七日に探索先の岡山奥市谷で正体が露見したため、藩士によって斬殺され |
た隊士と伝わる岡山池田藩の記録にも「新選組松山幾之介」とあるが、自称もしくは他称 |
による隊士であった可能性もあり、隊士としては未確定とせざるをえない。 |
平隊士 |
谷万太郎門下で、大阪新選組。石蔵屋の襲撃事件で、谷三十郎谷万太郎、高野十郎らと斬 |
りこんだが、この時、右腕に四寸ほどの刀傷を受けた。しかし、大利鼎吉を斬り伏せ、大 |
阪焼き打ちの陰謀を未然に防いだ。その報告書は、谷万太郎と正木直太郎の連記になって |
いる。 |
平隊士 |
明治三十四年の「史談会速記録」一〇四輯で「山浦鉄四郎といえる者は、殊に其数年前、 |
一時新選組に入たることも有り、藤堂平助には懇親なる友人なりき」とされた人物で、弘 |
化元年生まれの會津藩士であったことが判明している。おそらく、元治元年の池田屋事変 |
後に加藤民弥と同様、応援として、派遣されていたのではないだろうか。會津戦争に参戦 |
したのち、明治十二年十一月八日に、三十六歳で死亡し、墓は、青森県八戸市湊町館鼻の |
會津墓地にある。 |
平隊士 |
永倉新八の「同志連名記」では平同士とされ、切腹死を遂げたことになっているが、新選 |
組慰霊碑には、吉田寅三の名前で刻まれている。慶応三年に切腹した、田中寅蔵のことと |
思われる。 |
平隊士 |
又七郎、松川精一とも称す。元唐津藩士で、大野勘助の長男として天保七年十二月八日に |
江戸で生まれる。九年ともされる。小笠原長行に重用され、長行が江戸を脱するにあたっ |
て會津入りを画策し、會津では、同行藩士たちの統率心得方となる。四月二十九日には、 |
負傷のため、後送された土方歳三を七日町の清水屋に訪れ、戦争の模様などを聴取した。 |
その後、長岡に向かい、河井継之助と面談し、會津を経て、九月中旬に仙台で入隊する。 |
蝦夷渡航後、十月二十四日の七重村の戦いに参戦し、箱館では、新選組頭取から陸軍奉行 |
添役となる。明治二年四月の二股口防衛戦では、土方の不在中にも、兵士を指揮して戦い、 |
二次にわたる攻撃を撃退した。五月十一日の箱館総攻撃前夜より、榎本武揚らの幹部と別 |
杯を交わし、開戦後に、五稜郭へ向かう途中の千代ヶ岡陣屋で出陣する土方と出会い、一 |
本木関門より市中に攻撃をかけるが敗走し、千代ヶ岡陣屋で土方の戦死を知る。弁天台場 |
降伏の使者として台場入りしており、降伏は、五月十五日の台場でのことかと思われる。 |
その後、弘前の薬王院に収容されて東京に送られ、旧藩に引き渡されて、三年一月に放免 |
となった。翌年より明治政府に出仕して、長野、秋田、青森などの警部長を歴任して退官 |
し、二十六年より東京に住み、四十四年六月十一日に、芝田町の自宅で病死した。七十六 |
歳。墓は、台東区谷中の天王寺墓地にある。「箱館戦記」を残す。 |
平隊士 |
無二三と称す。甲州山梨郡日川村に、医師結城景仲の子として、弘化二年四月十七日に |
生まれる。慶応三年には入隊していたとされるが、事実は、翌年二月の甲陽鎮撫隊編成 |
時の入隊で、地理に詳しいところから軍監となった。三月六日の勝沼の戦いには、同志 |
を募集中で不参加。敗報に駿河へ落ちて沼津で生活する。同地で岩崎一郎、竹内元太郎 |
らと交わり、明治二年十一月二十八日に勝海舟より、十両の無心をした記録がある。四 |
十五年五月十七日に六十八歳で死亡し、山梨県山梨市南に墓がある。 |
平隊士 |
助之とも称す。旗本本堂内膳の家臣で、江戸に生まれる。新選組入隊までの経緯は不明だ |
が、明治二年四月ごろの編成で、第二分隊に所属し、五月十五日に弁天台場で降伏した。 |
弘前の薬王院に収容ののち、東京に送られ、名古屋藩預かりとなって、三年一月に禁錮を |
解かれ、五年六月に放免となった。 |
平隊士 |
江戸において捕縛された、金沢圭助のことで後に藤枝の長楽寺の清兵衛こと、杉本清兵衛 |
の食客となる。清水の次郎長こと山本長五郎一家と伊勢の穴太徳こと黒田屋徳二郎一家の |
手打式が行なわれた明治八年に、用心棒として金山敬介が参列した写真が現存している。 |
平隊士 |
大石鍬次郎の実弟。光縁寺の過去帳には次の如く弟として記載がある。『慶応二歳寅星宿 |
一橋殿附臣 大石造酒蔵源守仲 二月五日、新選組内大石鍬次郎弟也 地料道具トモ壱 |
両壱納也 穴代壱分二朱 』永倉新八の「同志連名記」には、平同士として大石酒造之助 |
となっている。彼の事蹟は皆無といってよいが、子母沢寛の「新選組始末記」によると、 |
新選組今井祐次郎との斬り合いで殺されたことになっている。しかも、顔の知らない者の |
喧嘩として書かれているが、合点がいかない話しである。 |
平隊士 |
大鳥圭介は、明治二年七月四日の「獄中日記」に「元新選組の和田屋和三郎、此人元新選 |
組なりしが、昨春隊を辞し市人となり山谷にて渡世せしに、他の新選組の人捕はれしに由 |
り、其連累にて昨冬入牢せし由」と記す。藤原和三郎のことと思われる。 |
The music produced byDR(零式)さん